ヤマト タケル ノミコト。 ヤマトタケル

神武天皇とヤマトタケル:神武東征

ヤマト タケル ノミコト

あの時からずっと。 でもこの想いは…届いてなかったんだな。 そこまで…一乗寺のこと…。 俺は…何なんだ…? にとって…。 「なぁ…」 「ふぇっ…?」 「俺って…にとってなんなんだ?」 一瞬驚いたような顔を見せただったが、すぐに答えを出した。 「友達だよ」 …………やっぱり。 「えぇっ!?なんでショック受けてんの!?ダメ?」 「ダメ」 「何ならいいの?」 即答した俺にが綺麗な瞳を向ける。 のこと想ってた」 弱くて儚くて、でも強くて。 そんなを、最初はウザったく思ってた。 所詮は偽善者で、イザという時には結局他の奴らと一緒だって。 でもそうじゃなかった。 ヒトのために自分が傷つくことなど恐れない。 ヒトのために自分が傷ついても良いって思ってる。 そんなを…いつのまにか俺は見てた。 守りたいと思っていた。 スキに…なってた。 気がつけば、体が勝手に動いてて。 か細いの体を、俺は抱きしめていた。 「ヤマト」 「何だ?」 「あたし…きっと賢くんのことスキ。 確信は持てないけど…あのこといると自分を見てるようで…放っておけない。 守ってあげたいと思うの。 ソンナコト イウケンリハ アタシニハ ナイデショウ? の体の重みを感じる。 暖かさを感じる。 「あたしは、それで…ヤマトに好きっていってもらう権利なんて…な…」 「権利なんて必要ないだろ!?」 …つい、声を荒らげてしまう。 俺は、が好きなんだ。 「…そ、だね…」 「俺は、を泣かせたりしない。 が傷つくのは見たくない」 「あは…騎士、みたいだね…」 の瞳からは、涙が流れていた。 あたしの中のあたしは、いつまでもあたしを拒否しつづける。 ねぇ…ヤマト。 逃げて…いいかなぁ…? 「…」 「…聞いて。 これは、言い訳かもしれないし、逃げかもしれない。 うんざりしちゃうかもしれないけど…それなら、あたしをひっぱたいて。 殴っていいよ」 俺に、そんなことできるわけないだろ。 何でかはわからないけど、良かったって思ってた。 それで…涙があふれてきて…誰かに聞いて欲しくて…。 気がついたらヤマトに電話してた。 ヤマトの声が聞きたいって思ってた。 ヤマトに側にいて欲しいって思ってた…」 「………」 「あたし…賢くんのこと忘れられるように、努力する。 でも…それでも忘れられないかも知れない。 傷付けちゃうかも知れない。 それでも…いいの?あたしなんかでいいの?」 の瞳はまっすぐ俺を見ている。 の心のキズはまだ癒されないけど、それでも懸命に明るく振る舞っている。 そんなを守りたいと思ってる。 を傷付けたことは許せないけど…一乗寺のおかげなんだから、それなりに感謝してる。 は…誰にも渡せない。 END [PR].

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「ヤマトタケル」漫画っぽい日本神話

ヤマト タケル ノミコト

名称 [ ] 『』・『』・『』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。 それぞれ表記は次の通り。 『日本書紀』・『先代旧事本紀』• 本の名: 小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)• 亦の名: 日本童男(やまとおぐな)• のちの名: 日本武尊(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)• 『古事記』• 本の名: 小碓命(おうすのみこと)• 亦の名: 倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)• のちの名: 倭建命(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ) 「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする。 「ヤマトタケル」の名称は、(または)の征討時に捧げられた(後述)。 「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる。 天皇系図 8〜15代 (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 父は第12代 景行天皇。 『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を(吉備臣らの祖)の娘とする。 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄はのみで双子の兄とする。 『古事記』では第三皇子とし、同母兄を・大碓皇子(双子の記載はない)、同母弟を・とする。 妻子は次の通り (「紀」は日本書紀、「記」は古事記を指す。 「旧事本紀」は先代旧事本紀に見える事柄にのみ記載)。 妃:(ふたじいりびめのひめみこ、布多遅能伊理毘売命) - 垂仁天皇皇女(記)。 (いなよりわけのみこ、記の母は別) - 犬上君・(建部君)の祖(記紀)。 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、帯中津日子命) - 第14代。 布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと、記なし)• 稚武王(わかたけるのみこ、記なし) - 近江建部君の祖・宮道君等の祖(旧事本紀)。 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ、大吉備建比売) - の娘(紀)、吉備臣建日子の妹(記)。 (たけかいごのみこ、建貝児王) - 讃岐綾君の祖(記紀)、登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(記)。 (とおきわけのみこ、記なし) - 伊予別君の祖(紀)。 妃:(おとたちばなひめ、弟橘比売命) - のの娘(紀)。 9男を生む(旧事本紀)。 (わかたけひこのみこ、若建王) - の父、(の妃)の祖父。 妃:山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ、紀なし)• 妃:布多遅比売(ふたじひめ、紀なし) - の祖の意富多牟和気の娘(記)。 稲依別王(いなよりわけのみこ、紀の母は別) - 両道入姫皇女の所生とする紀とは異同。 一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)• (おきながたわけのみこ、紀なし) - の父、(の妃)の祖父、の曽祖父、・の高祖父。 阿波君らの祖(旧事本紀)。 『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となってをもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。 また、各地へ征討に出るなどと似た事績があることから、からごろの数人のヤマトのを統合した架空の人物という説もある。 系図 [ ] 女装するヤマトタケル(画) 古事記 父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。 そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州のクマソタケル 建 兄弟の討伐を命じられる。 わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母のがを勤めたへ赴き女性の衣装を授けられる。 このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。 日本書紀 兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。 古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。 従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。 弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。 先代旧事本紀 (景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年 とあるのみ。 古事記 小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。 小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。 誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。 しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。 倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。 日本書紀 熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。 ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。 川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。 肥前国風土記 佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述される。 いずれも地名伝承である。 小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅している。 古事記 その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、に入り、と親交を結ぶ。 しかし、ある日、出雲建のを偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。 こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。 日本書紀 の条にと弟のの物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。 熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。 東征 [ ] 古事記 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。 倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。 倭比売命は倭建命ににあった神剣、(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。 日本書紀 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。 天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。 猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。 形は我が子だが本当は神人 かみ である。 この天下はお前の天下だ。 この位 =天皇 はお前の位だ。 」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴にと連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。 出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。 最も差異の大きい部分である。 『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。 天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。 古事記 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売()と婚約をして東国へ赴く。 日本書紀 対応する話はない。 ヤマトタケル(画) 古事記 の国で、に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。 そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。 生還した倭建命はらを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。 そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。 日本書紀 が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、の地名の起源を示す。 ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。 注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。 火打石を叔母に貰った記述はない。 古事記 相模からに渡る際、の海()の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。 そこで、后のが自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。 それから倭建命はこの地(現在のと言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。 入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。 「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮(酒折) 古事記 その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。 (神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「 吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。 そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。 またのでの発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。 その後、(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命はに入る。 日本書紀 ルートが大きく異なる。 上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。 に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。 の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。 日本武尊が「吾は是、の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。 そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。 蝦夷平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。 現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。 ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。 信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。 ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。 常陸国風土記 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。 巡幸に関わる記述が17件記述されている。 従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。 陸奥国風土記逸文 八槻の郷の地名伝承。 日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。 その矢の落下した場所を矢着 やつき と名付ける。 別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。 日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。 日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。 七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。 土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。 その地を「八槻」と言うようになったとある。 伊吹山頂の日本武尊像 古事記 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が中であることを知り、次のように歌う。 国を八隅まで支配される私の大君様。 新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。 そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。 日本書紀 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。 尾張国風土記逸文 宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる。 古事記 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。 倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。 今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」とをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。 神は大氷雨を降らし、命は失神する。 山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓のまたとも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。 弱った体で大和を目指して、当芸・・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。 地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。 そして、能煩野()に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。 日本書紀 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。 神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。 そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。 居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。 ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。 時に30歳であったという。 国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。 古事記 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。 すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。 これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌 )となった。 日本書紀 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥 となって、大和を指して飛んだ。 棺には衣だけが空しく残され、屍はなかったという。 古事記 白鳥は伊勢を出て、の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。 こうして白鳥は天に昇った。 その後天皇は、武部(・)を日本武尊の御名代とした。 『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。 墓 [ ] ヤマトタケルの墓に関する記録 地域 日本書紀 古事記 延喜式 現在の治定 伊勢 能褒野陵 能煩野に陵 能裒野墓 大和 琴弾原に陵 (記載なし) (記載なし) 白鳥陵 河内 旧市邑に陵 志幾に陵 (白鳥御陵) (記載なし) 備考 3陵の総称として 「白鳥陵」とする ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。 日本書紀 景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「 能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。 しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の 琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の 旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。 そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。 60年条 では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか )は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている。 古事記 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「 能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。 しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の 志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。 (5年()成立) () では「 能裒野墓」の名称で記載され、の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。 一方で白鳥陵の記載はない。 通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる (現在は能褒野のみ「墓」の表記)。 ヤマトタケルの実在性が低いこともあり、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとされる。 確かな史料の上では、5年() において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『』や『』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。 またその際には、日本武尊墓(伊勢)・墓(紀伊)・墓(和泉)・墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。 その後、2年() には「震倭建命墓。 遣使祭之」と見え、鳴動(落雷 、別説に地震 )のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている。 さらに『』官員令の別記(付属法令) には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている。 その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。 後世の治定 [ ] 上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。 能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。 伊勢の能褒野墓 近世には(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年()までにはにより白鳥塚に定められたが、12年()に宮内省(現・)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚()に改定された。 詳細は「」を参照。 この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている。 大和の白鳥陵 『』では現陵に関する記述が見える。 明治9年()ににより考定された。 伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に(奈良県御所市柏原)に比定する説もある。 「」も参照。 現陵は、『河内国陵墓図』ではの「軽之墓」と記されている。 かつては西方のに比定する説もあったという。 「」および「」も参照。 後裔氏族 [ ] 『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・(後裔)、讚岐綾君(後裔)、伊予別君(後裔)ら諸氏族の祖とされる。 『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別 宮道之別か(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。 『』では、次の氏族が後裔として記載されている。 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は諡景行皇の子の日本武尊。 右京皇別 - 犬上朝臣同祖。 日本武尊の後。 和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。 倭建尊の後。 和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。 日本武尊の後。 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。 なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルのとする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる。 考証 [ ] 日本武尊の石像 (三重県鈴鹿市・加佐登神社) ヤマトタケルの物語は、が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。 また、説話ごとに相手役の女性も異なる。 加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。 小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説) 妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、のがで祭神がヤマトタケルであることなどから、近江=滋賀県がヤマトタケルと関連が深いことがわかる。 兄大碓命の封地が美濃であることも考慮すると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。 碓や稲依別の名からは、穀霊であることが推察できるが、『山城国風土記』などに、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話があり、白鳥との関連もみられる。 なお、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山で、『』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わり、白鳥になる話の根幹が近江にあった可能性は少なくない。 倭姫・倭ヲグナの物語(大和の幼童神伝説) 日本には、やなど童形の英雄が悪を征伐する説話が多いが、このくだりもそれらに類似するとされる。 はそれらの説話の分析により、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を指摘しており、この場合倭姫がその小母に該当すると見られる。 また、少年・ヤマトタケルの女装に関し、様々な文化圏のシャーマニズムに散見されるに相通じると指摘される。 本来は山を象徴する武王と海を表す橘后の神話と推定される。 現在でも千葉県などに地名説話が多く残るため、関東に根を下ろした伝承だったと考えられる。 美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説) 吉井巌は、皇位の象徴である「」のひとつである草薙剣が、なぜ尾張の熱田神宮にあるか説明する物語とする。 詳細はの項を参照されたい。 斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説) 死に際の彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつの制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なるため、伊勢との関連が考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物語がないことを指摘する。 草薙剣に関しヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけたため、伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託された可能性も考えられる。 大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承) 吉井巌は、の弟で、実在する初の皇族将軍であるが出征先の九州で病死したことがモデルになったとし、この葬儀を主導したの葬送儀礼が物語に取り入れられたとする。 草薙剣 [ ] 記紀 日本武尊が帯びた剣は、(草那藝剣)といわれる。 出雲で尊がを倒した際にその尾から出てきたもので、に献上され、に伴いの一つとして、再び地上に戻ってきたものである。 日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。 ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。 本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。 古事記でも草那藝剣(大刀)とのみ記される。 働き 草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。 においては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町 3km四方 も薙ぎ伏せたとされている。 また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。 このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される。 神社 のミヤズヒメの元に遺された草薙剣は、この後、にて祀られた。 『熱田太神宮縁起』によると、日本武尊の死後、ミヤズヒメが衆人と図って社を建て、神剣を奉納したという。 7年()僧・道行に盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。 ところが、元年()にの病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再び熱田神宮に祀られることになった。 熱田神宮にはこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ「酔笑人神事」がある。 信仰 [ ] 「」も参照 ヤマトタケルは、()や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる(大阪府)の主祭神として祀られる。 どちらもその国のとされる。 なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。 神社 [ ]• (岩手県)• (岩手県)• (岩手県)• (宮城県、ヤマトタケルが東征での蝦夷征討で、この地に仮に宮を建てたと伝わる)• (、ヤマトタケルが東征の時、この場所を訪れ、神様にお祀りをしたと伝えられる)• (福島県福島市、ヤマトタケルが東征でこの地にやって来て、信達湖上を通過したところ大風に遭い、風神である諏訪の神に風が凪ぐことを祈ったところ、風が収まったと伝わる)• (福島県、景行天皇の御代 428年 、ヤマトタケルが東征の時、神社の武運長久の祈願ありて、霊験に依り、この地の乱臣賊子は速やかに征服したと伝わる)• (栃木県)• (栃木県)• 吾妻耶神社(群馬県桐生市吾妻山、東権見。 (、ヤマトタケル創建と伝わる。 の狼が東征時道案内をしたとされる)• (、東征の時、安全を祈り、武運長久を祈願したと伝わる)• (千葉県、ヤマトタケルが当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが起源と伝わる)• (、東征の途中、ヤマトタケルが腰掛けて休憩したという石を祀る)• (ヤマトタケルの父・が尊を祀ったのが起源と伝わる。 では、に尊が走水から上総へ向かう途中、海上で難に遭い、弟橘媛命が身を投じてその難を救ったとされる)• (東京都、東征時追手に追われ白狼に助けられたとの伝承により、御影が犬になっている)• (東京都)• (東京都)• (東京都)• (東京都)• (神奈川県相模原市)• 甲斐(、東征の帰路、立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠んだと伝わる)• (赤穂、東征の帰路、赤須彦の娘・押姫と三夜過ごし、別れに際し歌を詠んだと記録に残る)• (、・両県境の神社)、東征の帰路、濃霧で苦しむヤマトタケルをが助けたことに感謝して熊野神を勧請。 白鳥神社(、東征からの帰路の途中に滞在した地とされる場所に古くから祀られている )。 (、蛇池と呼ばれる大蛇がいる池があり、伊吹山へ向かうヤマトタケルが大蛇退治をし、池の真ん中を埋め立て社殿を建てたと伝わる)• (、東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる)• (、東征の途中、人々が漬物を献上したところ、ヤマトタケルが漬物を「藪二神物」と称えたと伝わる)• (愛知県、東征の途中、盗賊退治のために矢作部に一万本の竹矢を作らせたと伝わる)• (愛知県、ヤマトタケルが東征の時、伊勢から船でこの地に着岸したと伝わる)• (愛知県、ヤマトタケルが東征の帰りに、ここから船出して宮簀媛がいる館に向かったと伝わり、元宮のの伝承ではヤマトタケルは天神社の場所から伊吹山に向けて船で出発したとも伝わる)• (愛知県)(ヤマトタケルが東征の帰路、尾張の(現在の春日井市内津町にある)に入った時、早馬で駆けてきた従者のから、副将軍が駿河の海に落ち水死したとの報告に接し、悲泣して「現哉々々(うつつかな)、現哉々々(うつつかな)」といわれその霊を祀ったのが起源と伝えられる)• (の旧の線沿いの杖衝坂を登ったヤマトタケルが足の血を洗い流したと伝わる。 同じ四日市市内のの鳥出神社の由来にヤマトタケルが死没した亀山から熱田まで白鳥で富田に飛んで立ち寄った伝説がある。 能褒野神社 三重県亀山市、ヤマトタケルの御陵であり、明治12年11月10日に旧により正式に認定される。 加佐登神社 三重県鈴鹿市、ヤマトタケルの御陵 白鳥塚 の比定地の一つ、やなどのはこの地を御陵であると主張していた。 ヤマトタケルが死の間際まで愛用していた笠と杖が御神体として同神社に鎮座している• (、ヤマトタケルが西征の時、船で向かうが台風に悩まされる。 しかし神助により引寄せるようにこの地に着御したと伝わる)• 須賀神社(、富田八幡宮境内社、スサノオノミコトの須賀の宮に相当するとされる)• (、仲哀天皇が建てた白鳥の宮。 ヤマトタケルの息子息長田別王(阿波国造)が崇拝)• (、白鳥となって飛び去ったヤマトタケルが舞い降りたと伝わる)• (、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、この地を訪れた時、村の酋長である田部今朝麿が村人達と共に、ヤマトタケルを手厚くお迎えしたと伝わる)• (福岡県、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐の時、この地に立ち寄ったと伝わる)• (福岡県、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、宮居を定め暫し、この地に留まられ、多くの樹木を植えたと伝わる)• (福岡県直方市、景行天皇平定より8年後、熊襲征討の為、入国したヤマトタケルは、土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭したと伝わる)• (、ヤマトタケルが熊襲兄弟の征討に行った時、この地を訪れ、深く奉賽したと伝わる)• (、熊襲兄弟征討の為、幣田川(現平田川)の河口から、御舟で川を上がり、東南の高台の御山に宮居を定め、熊襲兄弟征討の後、再び立ち寄ったと伝わる)• (剣柄稲荷神社、宮崎県、剣柄の古墳の上に鎮座しており、この古墳は熊襲兄弟の征討でヤマトタケルが熊襲兄弟を刺し殺したとされる短剣の柄を埋蔵したと言われる古墳と伝わる)• (宮崎県、熊襲兄弟征討の帰りの際、この地に寄り、紀州の大権現に対し戦勝祈願をされたと伝わる) その他 [ ] の日本武尊銅像()• 東京都• (小曽木)、東征での傷を岩倉温泉で癒したと伝わる。 (青梅市)、東征の折、ヤマトタケルが植樹したと伝わる。 - 日本武尊の銅像がある(2003年のを受賞したの教授の研究の素材となり、ハトが寄り付かないことをヒントにカラス除けの合金を開発した)。 - 笠懸の松(大和町)、ヤマトタケルが伊吹山に向かう途中、この地の松に笠を懸け休息したと伝わる。 また松林の付近に広がるをヤマトタケルが愛したとの伝承があり、旧暦ののこととされている。 - 腰掛岩(中村区岩塚町)、ヤマトタケルが船を待つ間、腰を掛けていたと伝わる。 (名古屋市熱田区)、ヤマトタケルの陵だと伝わっており、能褒野墓から白鳥となって飛び立ったヤマトタケルが、愛する宮簀媛がいる尾張の地にやって来て、松の木にとまった為、その場所に白鳥御陵が出来たと伝わる。 (名古屋市)、ヤマトタケルの伝説がある古墳で、ヤマトタケルが伊吹山の賊を征伐に行く途中に蛇に足を噛まれ、噛まれた足の傷口を川で洗っていたところ、一羽の白鳥が現れた。 ヤマトタケルが白鳥に尾張に連れて行ってくれと頼み、ヤマトタケルを乗せた白鳥が尾張のの麓に着いたところで死んだため、ヤマトタケルがその場所に白鳥を葬った為、その墓が白鳥塚だと伝わる。 - 生路井(東浦町生路)、ヤマトタケルが尾張氏の兵と共に東征軍の兵力を整えていた時、この地で兵を引き連れて狩りに出掛け、生路(いくじ)の里を通りかかった。 熱い夏だったため、喉が渇き、水飲み場を探すが無く、山にある崖の下の大きな岩が湿っていたので、ヤマトタケルが弓のはずで突き立てると清水が湧き出し泉となり、それが村人から生路井と呼ばれる水飲みや、酒造りの水となったと伝わる。 - 馬蹄石(春日井市西尾町)、ヤマトタケルが東征から尾張に帰路し、現在の内津峠に来た時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から副将軍の建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告を聞き「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いた。 そして、西尾の地で建稲種命の霊を祭った内津の方を振り返り、馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名が付き、馬のの跡が付いたと伝わる岩盤。 「駒返り」とも言われる。 、ヤマトタケルが上記の内津峠と「西尾(馬蹄石)」に続いてこの地を通りかかった時に、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、「明知」の名が付いたと伝わる。 御手洗(みたらし・みたらい)遺跡(神屋町御手洗)、ヤマトタケルが、上記の「西尾(馬蹄石)」の場所から熱田に帰路する時、手を洗って休んだと伝わる。 - 居醒水(玉)、伊吹山での大蛇との戦いで傷ついたヤマトタケルが清水を飲み、高熱が醒めたと伝わり、居醒水と呼ばれる。 養老郡 - 桜の井戸(桜井・みゆき街)、ヤマトタケルが水を飲み、喉を潤したと伝わる井戸。 腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、ヤマトタケルが腰を掛け、鞍を掛けたと伝わる。 - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)、目洗いの玉葛井(たまかつい 菰野町下村)• - 日本武尊尾津前御遺跡、ヤマトタケルが足を洗ったと伝わる平群池(へぐりいけ)、平群神社などがある。 - にヤマトタケルが出生時に入れられたとされる器がある。 母、の墓とされるがある。 - に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。 また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。 - にヤマトタケルがこの地の海岸に至った時、日没となり、船を泊めた。 翌朝、見ると、船の綱を大きな藤の蔓に繋いでいた為、「藤津郡」と言う地名が付いたと伝わる。 でヤマトタケルが悪い白鹿を退治した。 またヤマトタケルは、濃霧の中で に助けられたので、付近に「烏岩」や「烏川」や 「霧積」の地名がある。 そしてヤマトタケルは近くに「熊野皇大神社」を造営した。 またこの山で「吾妻者耶」と嘆かれたので「留夫山」 とめぶやま と呼ぶ。 一方、ヤマトタケルがで一泊された場所を「神宿」というが、今は「借宿」(かりやど)と呼ぶ。 またヤマトタケルが川を渡るためにがを臨時にかけたので、その橋を「杣の架け橋」と言った。 ところで、ヤマトタケルが麓を見渡すと広範囲にぽつぽつと民家が見えたので、「遠近里」(おちこちのさと)と称えられた。 そしてヤマトタケルに随行した「大伴武日連」がので他界し、した場所を「武陵」 ぶりょう という。 ヤマトタケルが休憩した の山を「御座山」 おぐらやま と呼び、越えられた山を「臨降峠」という。 またヤマトタケルは「国師ケ岳」の岩穴に籠られたという もある。 なお、ヤマトタケルは、の大河原峠を超え、に出ようとした時、姿のがに乗って出現し、道案内をした。 武将は「我はである」と言って消えたという。 にヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐しに行った時、一時住んでいたと云わる「熊野宮跡」がある。 中山鎮座の八剣神社がある、を登る途中にあり、村人が熊襲建兄弟討伐で来た、ヤマトタケルを手厚くもてなしたので、ヤマトタケルが帰りに再びこの地に立ち寄り、村人は仮宮を建てた。 ヤマトタケルは村人の人情風致を褒めたたえ、この地を「中山」、「植木」と命名して帰って行ったと伝わる。 - 太刀洗いの井戸、ヤマトタケルがこの地方の、土賊・(いおり)を討った後、大刀を洗ったと伝わる井戸。 - に「熊襲の穴」と呼ばれる洞穴がある。 の首領である熊襲建、川上梟帥の兄弟が居住にしていたと伝われており、熊襲建兄弟の討伐を命じられたヤマトタケルが女装して忍び込み、川上梟帥を誅殺した場所として伝われており、「熊襲の穴」のほか「一名嬢着の穴」とも言われている。 ヤマトタケルが登場する作品 [ ] 小説• 白鳥の王子 ヤマトタケル・シリーズ - の小説。 - のファンタジー小説。 勾玉三部作2作目。 ヤマトタケル - の小説。 日本武尊(ヤマトタケル)SF神話シリーズ - の伝奇小説。 ヤマトタケル - 文:、絵:の物語絵本。 倭建(ヤマトタケル)-新アスカ伝説3 - の小説。 - に公開された、日本神話を題材にしたので、が演じる日本武尊(ヤマトタケル)を中心に物語が展開される内容になっている。 - に公開された、ヤマトタケルをモチーフにした主人公が活躍する特撮映画。 - 『ヤマト編』に、ヤマトタケルをモデルにしたキャラクターが登場。 - 下記アニメと連動したメディアミックス作品。 ストーリーや設定などは違っている。 - の漫画。 - の漫画。 原作:• ヤマトタケルの冒険 - の漫画。 ヤマトタケルノミコト(まんが人物日本史 21巻) - 監修:、漫画:• 天翔ける英雄伝説( 創刊号) - の漫画。 シナリオ:• バケガミ〜化神〜(読売KODOMO新聞)• カムヤライド - の漫画。 アニメ• - 上記漫画のOVA化作品。 - 日本神話をモチーフにした。 「」 - 演・脚本:、作:。 オペラ「」 - 作曲のオペラ。 オペラ「」 - 原作・作曲のオペラ。 オラトリオ「ヤマトタケル」 - 作曲のオラトリオ。 長野県歌 - 六番の歌詞でヤマトタケが「吾妻はや」と嘆いたことをのとしている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条。 『新撰姓氏録』和泉国皇別 和気公条、和泉国皇別 聟本条。 『釈日本紀』巻7 草薙劔条所引『尾張国風土記』逸文。 『常陸国風土記』序文、信太郡条、茨城郡条、行方郡条、香島郡条、久慈郡条。 『常陸国風土記』久慈郡条、多珂郡条。 『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文。 『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。 『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。 『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。 『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。 出典 [ ]• 340-397。 212-239。 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』[]、新版、• 岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。 「大御葬歌」はの大喪の礼でも詠われた。 実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。 当時の白鳥は現在の以外にも、など白い鳥全般を指した。 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。 『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 2 』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。 『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。 「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。 「建部」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。 「建部」『日本古代氏族事典 新装版』 雄山閣、2015年。 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行• 『神道大辞典 第二巻』1939年、。 『』青梅市教育委員会ホームページ• 『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434中268P〜295P 昭和53年11月15日発行• 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行• 『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中6P 昭和53年11月15日発行 参考文献 [ ]• 『』『』『』(日本古典文学大系)• 百科事典• 「日本武尊」、 石田茂輔 「能褒野墓」(日本武尊項目内)、 石田茂輔 「白鳥陵」。 「日本武尊」『日本古代氏族人名辞典 普及版』、2010年。 「日本武尊」『日本古代史大辞典』、2006年。 編輯『 』、1939年。 その他文献• 『ヤマトタケル』( 1977年、2004年OD版)• 『日本武尊』(人物叢書 1985年)• 『天翔る白鳥ヤマトタケル 古代史II』 1989年• 『解読「謎の四世紀」』 1995年• 編・ 『ヤマトタケル 尾張・美濃と英雄伝説』 1995年• 『白鳥の古代史』 1994年• 『青銅の神の足跡』 1989年• 谷川健一『白鳥伝説』上・下 1997年• 稲田智弘『伊勢神宮の謎』 2013年• 宮庁『熱田神宮』 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 (曖昧さ回避).

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打倒!タケル〜ヤマト〜

ヤマト タケル ノミコト

ヤマトタケルの東国遠征は鉄戦争だった。 私はこの説を神奈川新聞に投稿した。 概略 次のとおりである。 神奈川県松田町に寒田神社がある。 タタラ跡がある。 前に古代の工業用水も流れている。 神社には タケルが使ったという古代の木のお椀が社宝として 大切に保存されている。 神社の前を流れる酒匂川には 伝説が残っている。 ヤマトタケルが川の水を飲んだ。 水はお 酒の匂いがした。 それで、酒匂川という名前になったのだ ということである。 これは タケルが 水の味に関心を持っていたということを示している。 タケルは鉄の産地を探していたのだ。 古代の戦争は、大群を率いて攻めていくのではない。 少人数で行き、味方を作り戦うのであ る。 松田にいた部族はタケルに味方した。 敵は 平塚にいた部族である。 三角縁神獣鏡を残し た真土古墳群も 今完全に失われている。 祭る部族が滅ぼされてしまったからである。 平塚・ 前鳥神社は相模川から小さな工業用水を引き、鉄を作っていたのである。 ヤマトタケルは横須賀・走水から 命かながら海に逃げた。 川崎市幸区白山古墳の勢力と挟 み撃ちにあったのだ。 川崎にも鉄に関する地名が多い。 千葉に逃れた後、捲土重来 川崎と 平塚を滅ぼした。 川崎市高津区に橘樹神社がある。 二人目のタケル登場 平塚四之宮・前鳥神社の祭りは少しかわっている。 神輿の宮入りの様子が違う。 氏子青年が 土下座して迎える中、タケルのお面を付けた神官に導かれ 静々と宮入りするのだ。 霊の鎮魂 の儀式である。 倭建命が亡ぼし、日本武尊が鎮魂したのだ。 二人目のヤマトタケルは約50年 後にやって来た。 平塚では 細々と鉄生産は続けられていた。 日本武尊は平塚の復興に協力 し、地元の人に尊敬された。 前鳥神社の祭神は ウジノワギイラツコ、応神天皇の皇子だ。 天 皇の皇子 即ちヤマトタケルなのだ。 ウジノワギイラツコを祭神とする神社は、関東では二つのみ。 栃木県藤岡町・野木神社。 渡 良瀬川遊水地周辺は寒川郡(サンガワ)と呼ばれた。 「サ」音は古代韓国語で、鉄を意味す る。 サカワ川・サムタ神社・サガミ・サンガワ。 野木神社の近くに大前(オオサキ 神社がある。 ここにタタラ跡が発掘されている。 鉄を作っていたのだ。 そして 辺りの小字名は磯城宮(シキ ノミヤ)。 野木神社の伝承では、イラツコの骨を持って来て祭った ということだ。 二人目のヤマトタケルはシキノミヤに腰をすえ、武器を作りながら 東国の鉄生産地を服属さ せていった。 古事記にあるタケルの歌問答。 答えたのは 火タキノオキナ。 「新治筑波を過ぎて 幾ヨかネつる」「ヨには九のヨ ヒには十かを」 この問答は二重歌になっている。 ヨというの は、夜の意味の他に 泉・タタラ場という意味もあったのだ。 ネは寝るの意味の他に獲得したと いう意味。 ヒは鍛冶場という意味もあったのだ。 二重歌で答えたオキナは その知恵を褒めら れ、東国造(アズマノクニノミヤツコ)に任命された。 埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣の金象眼の文字に、自分は ワカタケル大王がシキ宮にいた時 第一の部下であった とある。 私は ヒタキノオキナが古墳の主だと考えている。 稲荷山古墳と 大前神社・磯城宮は直線距離にして約20km。 利根川をはさんで線対称の位置にある。 野木神 社にタケルゆかりの品を奉納した人は、シキ宮で共に暮らした人であったと思われる。 ヤマトタケルは十ヶ所の鉄生産地を従えた という。 それはどこなのか。 東国全体を一人で調 べることは 私にはできない。 古代のタタラ場遺跡を探してほしい。 タタラ場は水が必要なの で、川の近くだ。 砂鉄が多く採れる所。 炭をたくさん使える所。 しかし 鉄生産を止めた後は、 農地に転用されてしまうのだ。 水が来る場所は 田んぼに適しているからだ。 遺跡としては残り にくい。 でも 地名で残っていることがある。 小字名は 古い時代の痕跡をとどめていることが よくあるのだ。 もう一つの手がかりは 川の近くの神社だ。 余りにも川に近い時、タタラ場?と 疑ってみることが必要だ。 地名に鉄・刀剣に関する漢字がある時、鉄生産と関係していることがよくある。 しかし それ は、中世以後であると思われる。 古代は サシスセソのS音で表わされていることが多いのだ。 みなさん、東国の鉄産地を見つけたら、私に知らせてください。 お願いします。 & 万葉仮名表記とは何か?どういう性質のものだったのか?正しく認識されていな い。 言葉遊びに「なぞかけ」がある。 「うぐいすと掛けて何と解く?」「お葬式と解く」その心は? 「ナキナキ ウメに行く」 鳴き鳴き梅に行く 泣き泣き埋めに行く という 二重の 意味を込めるのだ。 表音文字を使ってする遊びだ。 万葉仮名も表音文字として 同じ利用がな される。 しかしそれだけではない。 古代 日本語が未成熟であった頃、一つの漢字に対して よ みかたが幾つもあったのだ。 韓国風よみ、日本風よみ、音読み、訓読み。 従って 漢字が二つ 並んだ場合、よみ方は8以上考えられることになるのだ。 出来上がった音声のうち 意味を持 つのが複数あれば、二重の意味を込められるということだ。 雪という漢字を知っていながら 雪の字を使わず、万葉仮名で表記する。 それは、雪の意味 の他に 別の意味のユキ、(弓矢の矢の入れ物のユキ、着物の裄 を二重に表わしたかったか らなのである。 表面的には平凡な叙景歌なのだが、裏に全く別の意味が隠されている。 それが万葉仮名な のである。 万葉集等から二重の意味を読み取り、古代の政治抗争を明らかにしようという研究 が 民間研究者により進められている。 本が出版されている。 実際は列島を目指したの だ。 彼が九州を攻めた頃、ヒミコは北九州伊都国に本拠を置いていた。 三世紀中頃、ヒミコを 殺した。 しかし国は落ち着かず、ヒミコ一族の「とよ」を手に入れ、東遷した。 岡山県鬼ノ城伝説 はこの時代の様子を伝えている。 東川王は大和に入り、列島は安定した。 「とよ」はヤマトモモ ソヒメとして箸墓に葬られている。 三角縁神獣鏡は 東川王が配った鏡である。 「神武」天皇の 話に投影されている。 ヤマトタケルが東征し、平塚と川崎を亡ぼした。 平塚真土古墳も川崎白山古墳も 三角縁神 獣鏡を有していた。 四世紀前半においては 大和と仲が良かったのだ。 その平塚川崎を亡ぼしたヤマトタケルは垂仁朝のヤマトタケルと呼ばれた。 四世紀中頃であ る。 その約50年後、景行朝のヤマトタケルが東国にやって来た。 五世紀始め頃である。 王朝が交替する度に、各地を平定する必要があったのだ。 王朝は万世一系などではなかっ たのである。 古代・東国の鉄戦争 戻る.

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