三島 由紀夫 身長。 三島由紀夫の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い

三島由紀夫の妻と子供の壮絶人生『爆報フライデー』

三島 由紀夫 身長

影響を与えたもの• 、、 、、 、会員 、、 、、 、、 、 サイン 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名: 平岡 公威〈ひらおか きみたけ〉、〈14年〉 - 〈45年〉)は、の・・・・・主義者。 はA型 、身長は163cm。 戦後の界を代表する作家の一人であると同時に、候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。 『』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。 と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。 代表作は小説に『』『』『』『』『』『』など、戯曲に『』『』『』などがある。 に富んだ絢爛豪華で詩的な、劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 晩年は政治的な傾向を強め、に体験入隊し、組織「」を結成。 (昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊(現・本省)を訪れ総監を。 でを促す演説をしたのち、を遂げた。 この一件は社会に大きな衝撃を与え、が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた (詳細はを参照)。 祖父・ (長官時代) (大正14年)、永住町2番地(現・四丁目22番)において、父・(当時30歳)と母・(当時19歳)の間のとして誕生。 体重は650(約2,400グラム)だった。 「 公威」の名は祖父・による命名で、定太郎の恩人で同郷の・にあやかって名付けられた。 家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)のほかに女中6人とやが居た。 祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。 兄弟は、3年後に妹・、5年後に弟・が生まれた。 父・梓は、からを経て、に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて入りを拒絶され、(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない、に異動)に勤務していた。 、、とは一高、帝大の同窓であった。 母・倭文重は、・に仕えていた・橋家の出身。 父(三島の外祖父)は東京の5代目校長で、・。 祖父・定太郎は、兵庫県大字上富木(現・兵庫県上富木)のの生まれ。 法科大学(現・法学部)を卒業後、に入省し内務官僚となる。 (明治26年)、の娘であると結婚し、知事、長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに判決)。 祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・(判事)と、母・高(藩主・がとの間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまでに行儀見習いとして仕えた。 夏子の祖父は若年寄の。 なお、永井岩之丞の同僚・の養子がで、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。 作家・の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先の異母兄が荷風の12代前の祖先にあたる。 公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。 なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。 祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業したの家柄であった。 江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。 幼年期と「詩を書く少年」の時代 [ ] 三島6歳。 初等科入学の頃(1931年4月) 公威と祖母・とは、に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。 公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親のがする際もで時間を計った。 夏子はの痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、も厳しかった。 公威はやを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具もとなり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。 夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威にを使わせた。 1930年(昭和5年)1月、5歳の公威はにかかり、死の一歩手前までいく。 病弱な公威のため、夏子は食事やを厳しく制限し、趣味を含む過保護な教育をした。 その一方、、、などの夏子の好みは 、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。 (昭和6年)4月、公威はに入学した。 公威をに入学させたのは、意識のある夏子の意向が強く働いていた。 平岡家はが元長官だったが階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり 、夏子の伯父・(社司。 三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル )が保証人となった。 しかし中心とはいえ、かつてが院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が勃発など戦争へと移行していく中、校内もが優勢を占めていた。 級友だったは学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。 初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。 その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。 春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 — 「級友 三島由紀夫」 公威は初等科1、2年からやなどを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。 読書に親しみ、世界童話集、童話集、『』、、、の、、フランス近代詩、やの詩、『』(、、ら)、『』などを愛読した。 自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。 初等科3年の時は、「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女はのです〉という内容に対し、国語担当の先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。 主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時のは「蝋燭」「アオジロ」であった。 初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前のもやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。 初等科六年の時のことである。 三島はサッとズボンの前ボタンをあけてを取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。 それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。 また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 — 三谷信「級友 三島由紀夫」 この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日にがあった。 急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。 6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉とを表現した作文「わが国旗」を書いた。 (昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、15番地(現・渋谷区二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。 夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。 自作のが初めてとなった。 中等科から国語担当になった(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。 以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。 11、12歳頃、に魅せられ、やがて、なども読み始めた。 7月にが発生し、となった。 この年の秋、8歳年上の3年の文芸部員・と出会い、文学交遊を結んだ。 初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。 首が細く、皮膚がまっ白だった。 目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。 『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。 「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。 彼があまりにも幼く見えたので。 おれの小説が出ているから読んでくれ。 きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。 私はかすかにうなずいた。 もう行ってもよろしい、という合図である。 三島は一瞬躊躇し、思いきったように、をした。 このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。 この頃、学校のの早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出されるがうまくてたまらないと母に自慢するなど 、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。 同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて(『』)を観劇し、初めての(『』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。 この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり 、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。 (昭和14年)1月18日、祖母・夏子が出血のため、駕籠町(現・)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。 同年4月、前年から学習院に転任していたが国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。 研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、文学への目を開かせた。 同年9月、対・の戦争が始まった(の始まり)。 (昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く。 同年、母・倭文重に連れられ、に住む詩人・を訪問し、以後何度か師事を受けた。 倭文重の父・と川路柳虹は友人でもあった。 同年2月に主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌を発表。 前年から、渾名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城」のを名乗り 、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。 同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。 これを読んだ同校先輩のから初めて手紙をもらったのを機にが始まり、同じく先輩のとも交友を持ち始める。 東はを患い、(現・)3-20の自宅で療養しながらや堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。 一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『』に描かれる。 この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、の戯曲、、『』『』『』『』『』なども愛読するようになった。 相変わらずに夢中の息子を叱りつけ、を片っ端からビリビリ破いた。 公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。 同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「」を書き上げ、国語教師のに原稿を郵送し批評を請うた。 清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する系雑誌『』の同人たち(、、)にも読ませるため、のの新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。 「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。 その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、を使わせることとなった。 筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「」を通ってきたことと、の白を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。 帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「(いとうさちお)」のような風の名を希望した。 結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「 三島由紀夫」となった。 「由紀」は、の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。 との影響を受けた「花ざかりの森」は 、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。 第1回目の編集後記では、「この年少の作者は、併し 悠久な日本の歴史の請し子である。 我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。 この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。 この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈の創造の精神である〉と、への深い傾倒を寄せた。 この年になり行われた以降、次第にイギリスやとの全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。 に行われたによって日本はついにイギリスやアメリカ、などのと開戦となった()。 開戦当日、教室にやって来た部の先輩から、「戦争がはじまった。 しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。 (昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。 3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に文科乙類()に進んだ。 公威は、との「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。 運動は苦手であったが、高等科でのの成績は常に「上」()で 、教官からがあると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。 はに師事し 、ほかの教師も、、(1957年の在職中に死亡)らがいた。 後年がドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。 彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。 各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。 同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日にや(文学部に進学)とともに同人誌『 赤繪』を創刊し、「」を掲載した。 誌名の由来はの『万暦赤繪』にあやかって付けられた。 公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。 同年8月26日、祖父・が死亡(没年齢79歳)。 公威は詩「挽歌一篇」を作った。 同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられてと対面し、以後何度か訪問する。 公威は保田與重郎、蓮田善明、ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「思想」「」「」の心に感銘した。 公威が「みのもの月」、随筆「のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「のこころ」と題した一文を掲載。 これは蓮田にとっての数年先輩にあたるが書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評で、この本を読んでいた公威は後年、神風連の地・を1966年(昭和41年)8月に訪れ、森本忠(教授)と会うことになる。 ちなみに、三島の死後にがから聞いた話として、三島が中等科卒業前にの入試を受験し不合格となっていたという説もあるが 、三島が中等科5年時の9月25日付の宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。 なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。 大学進学と終戦 [ ] (昭和18年)2月24日、公威はの総務部総務幹事となった。 同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた )。 3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。 同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することをと相談していたは、京都に住むを紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。 同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、に住むでの宅へも連れていった。 それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。 8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ 、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。 蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。 とやとの戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等なの国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉 、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。 俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。 なお、公威は同盟国の首脳のに好感を抱いていながらも、のには嫌悪感を持っていた。 同年10月8日、そんな便りをやり取りしていたが23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。 東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。 文彦の父・によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。 なお、この年に公威はの宅を訪ね 、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。 当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにが騒がしく「」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが 、公威はそういった大仰さを、〈まるであたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人のへ伝えている。 国民儀礼の強要は、結局、いやといふものへの伝統的な日本固有のをズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化するとしか思へません。 主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これはにとつてもつとも危険なことではありますまいか。 今度ので来年か、さ来年、私もになるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。 (中略)文学を護るとは、の大業です。 文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワのやうにうろついている時ではありません。 — 平岡公威「宛ての書簡」(昭和18年9月25日付) 同年10月25日、蓮田善明はを受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し 、翌日、の軍装と純白の手袋をして宮城前広場でを拝んだ。 公威は日本の行く末と美的天皇主義()を蓮田から託された形となった。 富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。 徴兵検査を受けた (昭和19年)4月27日、公威も・村長発信の通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古川町(現・)の(現・)でを受けた。 公会堂の現在も残る松の下で、十(約40キログラム)のを入れたを持ち上げるなどの検査もあった。 本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが 、結果は第二種で合格となった(召集令状は翌年2月)。 級友のなど同級生の大半がとして志願していたが、公威は一として応召されるつもりであった。 それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った。 徴兵検査合格の帰途の5月17日、ので教師をしているを訪ね、出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。 5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。 夕食を出す。 俗人、神堀来る。 リンゴを呉れる。 九時頃までゐる。 駅に送る」などと日記に書かれた。 しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え 、戦後には『』を読んで公威への評価を見直すことになる。 (昭和19年)9月9日、学習院高等科をで卒業。 卒業生総代となった。 卒業式にはが臨席し 、より陛下からのを拝受され、ドイツからはドイツ文学の原書3冊(の入り)をもらった。 御礼言上に、学習院長・海軍大将と共に宮内参内し、謝恩会でから図書数冊も贈られた。 大学はへの進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。 そこで学んだ教授による講義の〈徹底したの進行〉に魅惑され、修得したの論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。 父は公威が文学に熱中することに反対してたびたび執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは梓の貢献であった。 出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。 同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・)が七丈書院で出版された。 公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信にで献呈した。 息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に()(現・池之端)の店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。 書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時のやらも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。 しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も、物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。 (昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「」として、の小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。 事務作業に従事しつつ、公威は小説「」を書き続ける。 以前、にの文体について質問した際に期待した的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し 、の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。 誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたを美味しく食べた (この思い出は後年、遺作『』に描かれることになる)。 2月4日に入営通知のが自宅へ届いた。 公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記したを書き、遺髪と遺爪を用意した。 中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、その直後(公威の入隊検査の10日)、アメリカ軍のによる主要目標となって大を受けたため、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。 同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒にへ出立した。 風邪で寝込んでいた母から移ったによる眩暈や高熱の症状を出していた公威は、10日の入隊検査の折、新米のからラッセルが聞こえるとしてと誤診され、となった。 その部隊の兵士たちはに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。 戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調したこの時のな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。 この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯となり 、以降の彼に複雑な思い(特異なや〈戦後は余生〉という感覚)を抱かせることになる。 梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「に入りたかった」と真面目につぶやいたという。 公威はその後4月、三谷信宛てに「君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です」と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。 兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。 公威は、を通じて(『』編集長)と知り合い、戦時下でただひとつ残った文芸誌『文藝』に「」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。 処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月にに献呈された。 川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。 群馬県のにいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた()。 焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。 1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な大和の高座に勤労動員された。 終末観の中、公威は『』『全集』『』『日本集成』『小説集』『』などの古典、、などを濫読した。 6月12日から数日間、に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。 帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「」を書き始めた。 1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、とにが投下された。 公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。 10日、公威は高熱とのため高座工廠から、一家が疎開していたの親戚の家に帰宅し、を舐めながら床に伏せった。 8月15日にを迎え、のラジオのを聞き、「これからはの世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。 終戦後の苦悶と焦燥 [ ] 終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り 、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。 (中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる心は個人のものではありません。 今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。 及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った 三島19歳。 妹・美津子16歳と(1944年9月9日、学習院卒業式の後) 三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。 戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り 、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。 「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とはの如く、秩序と道義をその本質とし前提とするのみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずやを得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが 、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「」を、野田から「向き、向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。 そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。 公威が私淑していたはでとして終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のので天皇を愚弄した連隊長・を軍用で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。 公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。 1945年(昭和20年)10月23日、妹・が(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し 、公威は号泣した。 また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が・(父は)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。 翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する。 恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。 邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した。 偶然邦子にめぐりあつた。 試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。 彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。 (中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。 前日まで何故といふことなく僕は、「との対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。 それは予感だ。 世の中にはまだふしぎがある。 そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか? — 平岡公威「ノート(昭和21年)」 この邦子とのことは、のちの自伝的小説『』の中で詳しく描かれることになる。 (昭和21年)1月1日、が「」のを発し、アメリカ大使館を訪れて姿でと並ぶ写真が新聞に報道された。 公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜの御写真にしないのか」と 憤懣 ( ふんまん )を漏らしたという。 また、三谷と焼跡だらけの前を歩いている時には、を攻撃し始めたへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。 三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。 なお、この時期ちょうど、という元の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代のたちの詩集をの形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。 公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『』とする案を以下のように返信したが 、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 戦時中に三島が属していたのや、その周辺のやらは、戦後に左翼文学者や作家などから戦争協力の「文学者」として糾弾された。 日本浪曼派の中で〈気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。 戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「」は途中までしか発表されていなかった。 三島は終戦前、から「中世」や『』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが 、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。 それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「」の原稿を携え、の冬休み中の(昭和21年)1月27日、二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。 慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際にの紹介状も持参した。 三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。 そういった的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。 同年2月、三島は七丈書院を合併したの雑誌『展望』編集長のを訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草など)を持ち込んだ。 臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問のは「とんでもない、150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。 落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強してになる他ない〉と思わざるをえなかった。 一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める発行の雑誌『』の編集長・に原稿を見せ、掲載決定がなされた。 「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。 しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。 川端は、三島が取りかかっていた初めての長編()の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。 臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。 職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、と三島の2人しかいないとし 、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。 しかし当時、であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。 父・が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。 三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学でのの勉強にも勤しんでいた。 梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定したの役人になることを望んでいた。 ある日、木村徳三は三島と帝大前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた。 その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。 教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。 怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。 同年夏、が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、、、、、と共に素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き 、〈 古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。 戦後に彼らと距離を置いたは欠席し 、も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。 三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。 かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。 敗戦前後に渡って書き綴られた「」は、川端のアドバイスによっての『』へ持ち込み、11月号に無事発表された。 この売り込みの時、三島は姿でを穿いていたという。 『人間』の12月号には、川端から『将軍公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。 当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。 このの支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている。 川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がに生まれる前から2人には的な不思議ながあった。 三島の父・梓が東京帝大の学生の時、正門前で同級生のが、見知らぬ「貧弱な生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。 その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とかの持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。 学生作家時代と太宰治との対面 [ ] 「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の(在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていたと彼の理解者のを囲む集いに参加することにした。 三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己化〉の文学が嫌いで、〈の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。 (1946年、のBAR「ルパン」にて) 1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺の着物にを身につけ、前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈ろにを呑んで出かける的心境〉で 、酒宴が開かれる2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。 三島以外の出席者は皆、矢代と同じ出身で、(在学)、(在学)、(予科在学)、(早稲田高在学)、勤務の、その家にしている(早稲田高在学、の次男)と()、家主の(五中在学の15歳)といった面々であった。 三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。 そして三島はについての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。 第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。 姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の 韜晦 ( とうかい )を込めて言った。 の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。 その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰をとして〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。 これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後 、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。 なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。 気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。 その後、太宰は「」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。 滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。 しかしまだ予見されるにとどまつてをります。 完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。 太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。 しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 — 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付) (昭和22年)4月、『』と『』の「」を題材にした「」が『群像』に発表された。 三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともに通っていたが 、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。 同年6月27日、三島はの焼けたビルにあった新聞社・でを初めて見かけた。 同年7月、就職活動をしていた三島は(銀行か)との入行試験を受験するが、住友は不採用となり 、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。 やはり、になることを考えた三島は、同月からを受け始めた。 8月、『』に発表した「夜の仕度」は、を舞台にして戦時中の邦子との体験を元にの『』流に小説に仮託した手法をとったものであった。 林は、これをの「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。 これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。 林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。 当時の三島は、堀のであった中村真一郎の所属するの作家たち(、、)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉であるを認めない説教的に、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。 「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」というやの無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。 これに憤慨し、わかりやすい風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は 、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。 大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『』が桜井書店から刊行された。 「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本をにも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し 、〈このお葉書が私ののしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。 のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、のの上でを眺めてゐるやうなものです。 といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。 夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。 (中略) 「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。 つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。 (中略)氏の死に対してあらゆる非礼と冒瀆がつづけられてゐます。 私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。 卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日にに合格した三島は(成績は合格者167人中138位) 、12月24日からに初登庁し、大蔵に任官されて国民課に勤務することになった。 当時の大蔵省はの庁舎がに接収されていたため、焼け残ったを仮庁舎としていた。 銀行局長は、長はで 、(月給)は1,350円であった。 大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかにやなど全26名だった。 三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。 同年12月には、「自殺企図者」(長編『』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。 大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での()の原稿を書く仕事を任された。 三島はその冒頭文に、〈…さんやさんのたのしいの前に、私如き頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、に怒られてでバッサリと削られた。 将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。 翌(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「」を皮切りに多くの短編を発表し、〈と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが 、この頃の〈やけのやんぱちのな〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。 そのころ私の文学青年の友人たちには、一せいにとが襲ひかかつてゐた。 者、者は数人に及び、病死者も相次ぎ、急速なに落ちて行つたものも二三にとどまらず、私の短かい文学的は、おそろしいほどのスピードで色褪せつつあつた。 又それは、の判決がはじまりつつある時代であつた。 (中略)せつせと短篇小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。 ひどい無力感が私をとらえてゐた。 (中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。 といふやうな疑問にさいなまれた。 — 三島由紀夫「」 役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・は、のを訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、、を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。 あれでさんのようになれるものですかね」と、息子がに小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。 木村は、「作家」になれるかは、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。 猫好きの三島( 1948年5月12日号) 同年6月、雑誌『』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。 その際、三島はを認めるなら加入してもよいという条件で参加した。 この第2次参加の顔ぶれには、、、、らがいた。 6月19日には、で13日に入水自殺したの遺体が発見された。 太宰の遺作『』は大きな反響を呼んだ。 同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、が滑ってホームから線路に転落した。 電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。 この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。 さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。 同年8月下旬、の編集者・(の父)とが、長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。 三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。 そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。 同年10月6日、総辞職のの鈴が鳴り響く晩、の兼「ランボオ」の2階で、、武田泰淳、、、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。 その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。 もし通常の規準を一とすれば、三島由紀夫の廻転速度は一・八ぐらいの指数をもっていると測定せねばならぬほどであった。 私は彼と向いあわせているので、ただに会話の音調を聞いているばかりでなく、会話に附随するさまざまな動作のかたちを正面から眺める位置にあったが、間髪をいれず左右を振りむいてする素早い応答の壺にはまった適切さを眺めていると、いりみだれて閃く会話ののなかで酷しく訓練されたもの、例えば、にあるひとりのヴィヴィッドなの快感といった構図がそこから聯想されるのであった。 (中略)三島由紀夫に向って最も多く応答しているのは、偶然左隣りに腰かけているということになるのであったが、困ったことに、野間宏の思考の廻転速度はマッハ数〇・四ぐらいなのであった。 — 「三島由紀夫」 河出書房から依頼された長編のタイトルを〈 仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み 、〈今までの人物に対して鋭いだのを自分に向けて、自分で自分の生体をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。 同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された (昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』がにより初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、やなどの評論家から高い評価を受けた。 4月24日には、「」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。 の古風なから原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していたは、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。 三島にとっての〈裏返しの〉、〈の回復術〉であり 、〈の「にして」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され 、発売当初は反響が薄かったものの、10月にが高評した後、に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。 年末にもの昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。 この成功以降も、恋愛心理小説「」を翌(昭和25年)1月から『』で連載し 、同年6月30日には、〈の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『』をから書き下ろしで出版した。 同年7月からは、のをモデルとした話題作「」を『』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み 、長編小説のを身につけていった。 8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に緑ケ丘2323番地(現・一丁目17番24号)へ転居。 同月に岸田国士の「」発足に、らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、の発案の「」にも顔を見せるようになった。 10月には、を基調にした「」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。 この作品は、のちに『』としてまとめられる1作目となり、を通じて前年に知り合ったによる演出で12月に上演された。 のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び 、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。 その間も三島は、数々の短編や「」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。 像 ハワイから北米(、、、、、)、南米(、)、欧州(、、、、)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマので観た像であった (詳細はを参照)。 の〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るいにを癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の基準〉を発見し、翌(昭和27年)5月10日にに帰着した。 この世界旅行記は『』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。 旅行前から予定していた「」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈小説〉を書くことを回避し、ので実際に起きた溺死事件を題材とした「」を『新潮』10月号に発表した。 また、旅行前に書き上げていた「」は、三島が渡航中の2月ににより初演された。 この作品は「」「」に続く『』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。 これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。 三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『』を下敷きにした日本のの物語を構想した。 モデルとなる島探しを、昔()にいた父・梓に依頼した三島は 、候補の島の中から〈の歌枕や古典文学の名どころ〉に近いの(かみしま)を選んだ。 (昭和28年)3月に、から神島に赴いた三島は、八代神社、、一軒のも飲み屋もない島民の暮しや自然、、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、やなどについて取材した。 神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。 この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、の世界を描いた『禁色』が完結された。 12月には、少年時代から親しんだに初挑戦し、の原作小説を改作した歌舞伎『』をの主演で上演した。 に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴なとのを描いた書き下ろし長編『』は、翌(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるととなり、すぐにで映画化されての特別出演(船長役)もキャスティングされた。 三島はこの作品で第1回を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。 これを受け、2年後にはでも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。 11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『』が初演され、余裕を感じさせるとして高評価された。 この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。 この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。 同月には、少年時代の待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。 三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。 三島30歳(1955年秋、自宅の庭にて) 同年9月、三島は、ので取り上げられていた(クラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。 玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回の練習を始めた。 この頃、映画『』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈の卵〉と喩えた。 同年11月、へ取材に行き、青年僧による(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『』から取り入れていた的な硬質なをさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。 その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「」は、(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。 同月には、ジムのボディビル・コーチ・(元の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木がに開いたボディビルジムに通うことになった。 三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月にはの夏祭りで、生まれて初めてをかつぎ陶酔感を味わった。 元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。 最初は10キロしか挙げられなかったも、約2年後にの産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り 、その後胸囲も1メートルを超え、ボディビルは生涯継続されていくことになる。 三島31歳。 23歳と(1956年2月、銀座六丁目のビル屋上にて) 1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。 傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回も受賞した。 それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。 また、この年には、「」に入会し、7月末の滞在中に観測に挑戦した。 9月には、鈴木智雄の紹介で、部の好意により、の監督の下、の練習も始めた。 翌(昭和32年)5月、小島智雄を相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合ったが訪ね、に撮影した。 これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかにとには相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し 、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、に多くの観戦記を寄稿することになった。 この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『』や『』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルがになった。 を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『』が第2回を受賞、人気戯曲『』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『』(「」「」「」「」「」を所収)も刊行された。 私生活でも、1954年(昭和29年)夏に中村歌右衛門ので知り合った豊田貞子(のの娘。 『』『』のモデル)と深い交際をしていた頃で、三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが 、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。 花嫁候補を探していた三島が、で隣り合わせになる形で会い、六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代のとおをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。 なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した卒業式を三島は母と共に参観していたという。 その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間に辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった。 無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月を・経由で過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした。 折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重がと疑われたの病気で手術したことも、それに拍車をかけた。 (昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・(日本画家・の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし 、6月1日に夫妻を媒酌人としてで瑤子との結婚式を挙げ、ので披露宴が行われた。 同年8月には雑誌に連載開始されたの「とその死」を読み始め 、11月末からはボディビルに加えてのと笹原金次郎の紹介により、の道場で本格的にも始めた。 同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『』の執筆も開始されていた。 この作品は4人の青年と1人の〈的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。 時代背景は前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。 翌(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『』、評論『』の発表、新居建設(設計・施工はの鉾之原捷夫)など多忙であった。 馬込東一丁目1333番地 (現・四丁目32番8号)に建設した風様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・が誕生した。 ちょうどこの当時、の採決を巡る大規模なデモ隊が周辺で吹き荒れ、三島はそれをのバルコニーから眺めた。 三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。 三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。 同年11月、三島はと映画俳優の専属契約を結び、翌(昭和35年)3月に公開された『』(監督)でチンピラ的な役を演じたが、その撮影中には頭部をに強打して入院する一幕もあった。 同年1月には、を題材とした「」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとしたから9月に告訴され、裁判の被告となってしまった(詳細はを参照)。 1961年(昭和36年)1月は、に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「」を『小説中央公論』に発表。 2月には、その雑誌に同時掲載されたの「」を巡るに巻き込まれ、推薦者と誤解されてから脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた。 同年9月から、写真家・の写真集『』のとなり、三島邸で撮影が行われた。 写真発表は翌(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をとして積極的に世間に披露した。 こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。 そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。 遅く起きる三島の朝食は、午後2時にと、、を摂り、午後7時頃の昼食には週3回はとの、、をたっぷりとの如く食べ、夜中の夕食は軽くで済ますのが習慣だった。 また、三島はの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。 酒は家ではほとんど飲まないが、はを1日3箱くらい吸っていた。 1963年(昭和38年)には、三島が所属していた内部での一連の分裂騒動があり、と対立するが創立した「」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件()が起こり、再びトラブルが相次いだ。 この時期には、やによる戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『』や評論『論』も発表された。 (昭和39年)初めには『』を読み、『』の構想もなされ始め 、同年10月のでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。 開会式ではの立派な開会宣言に感無量となり、に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、よりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。 坂井君は聖火を高くかかげて、完全なフォームで走つた。 ここには、日本の青春の簡素なさはやかさが結晶し、彼の肢体には、の腹や、のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みづみづしい若さによる日本支配の威が見られた。 この数分間だけでも、全日本は青春によつて代表されたのだつた。 また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり 、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。 だったも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、委員宛ての手紙で大絶賛した。 なお、1963年度から1965年度のの有力候補の中に、、と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなった。 しかし、1966年度の候補者に三島の名はなかった。 三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたは、実績と年齢順()を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。 (昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある。 その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた。 同年には、次回作となる〈と〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため 、のを初めて訪ね、その最初の巻となる「」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)。 9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、を旅行し、長編の取材のために10月はを訪れ、にも遠征して戯曲『』の着想を得た。 ちょうどこの頃、が発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。 三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる。 11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「」を『批評』に連載開始し 、戯曲『』も発表され、傑作として高評価を受けた。 この戯曲は三島の死後、でも人気戯曲になった。 ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。 の(昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私のは、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った。 私はいつしか、今の私なら、絶対にむかしの「われら」の一員に、欣然としてなり了せることができる、といふ、甘いロマンチックな夢想のとりこになりはじめる。 (中略)ああ、危険だ! 危険だ! 文士が政治的行動の誘惑に足をすくはれるのは、いつもこの瞬間なのだ。 青年の盲目的行動よりも、文士にとつて、もつとも危険なのはである。 そして同じ危険と云つても、青年の犯す危険には美しさがあるけれど、中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決つてゐる。 そんなみつともないことにはなりたくないものだ。 しかし、一方では、危険を回避することは、それがどんな滑稽な危険であつても、回避すること自体が卑怯だといふ考へ方がある。 日本では4月からで一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった。 映画を観たは、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した。 この当時、毎週日曜日にでの稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていたも、剣道の師のを通じてを師範とする大森流居合に正式入門した。 三島は、良雄の兄で剣道家のともこの道場で知り合い、交流するようになった。 6月には、との兵士のたちの呪詛を描いた『』を発表し、『憂国』『』と共に「二・二六事件三部作」として出版された。 11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった。 〈挫折〉した青年将校ら〈真のたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのがの「」であり、自身の〈〉を掘り下げていくと、その底に〈の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった。 『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが 、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した。 は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た。 この時期の作品は他に、三島としては珍しい的な『』、エッセイ『』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された。 三島はこの対談の中で、いつかを主人公にした小説を書く意気込みを見せた。 8月下旬からはに赴き、三光の滝に打たれてした後、色紙に「清明」と揮毫した。 その後はを訪れ、恩師のらに会ってのを見学し、の遺書を読んだ。 清水らに見送られてに到着した三島は、らに迎えられて未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、のゆかりの地(、など)を取材して10万円のを購入した。 この旅の前、三島は清水宛てに〈のは、のにはじまるといふ説を、氏まで信じてゐるのは情けないことです。 それで一そう神風連に興味を持ちました。 神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った。 10月には体験入隊を希望し、関係者や元・などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月にはの著作の序文を書いた返礼として日本刀・関ノを贈られた。 同月19日、から雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いたの紹介で、万代潔(の門人で)が三島宅を訪ねて来た。 翌(昭和42年)1月に、その雑誌『』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった。 同月にはのも三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。 三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った。 三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、やが行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した。 4月12日から約1か月半、単身で自衛隊に体験入隊した三島は、や、などの組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「」構想を固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊を定期的に行なった。 以降、三島はのへの搭乗体験や、情報教育課長・とも親交し、共に民兵組織(のち「」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細はを参照)。 これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。 この小説は、の時代を背景にに賭けた青年のを描き、と政治的行動が深く交錯した作品となった。 同年2月28日には、、、と連名で、のに抗議する声明の記者会見を行なった。 5月には英訳版の『 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『』も候補作品)。 この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた。 6月には道場に入門し、(首席)のもと、7月からの稽古を始めた。 三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。 少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。 6月19日には国防部の代表らと会合しと出会った。 森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った。 三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した。 担当編集者のは三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため 、彼を鎌倉の宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った。 当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。 小説に書いたことが事実になって現れる。 そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者のに語ったという。 9月下旬からは政府の招きで、インド、、へ夫人同伴で旅行した。 第三巻「」の取材のため、単身でやに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにに滞留し、そこで自分を捕まえた特派員のと知り合い、2人は意気投合した。 10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈義〉を描いた戯曲『』を発表した。 同時期には『』、『』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈もももいない〉を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、への批判を明確に示した。 4月上旬には、の手配によるの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らとの愛宕神社に参拝した。 インド訪問でに対処する防衛の必要性を実感した三島は 、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった。 三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から歌の「今日よりは 顧みなくて大君の 醜 ( しこ )の御楯と出で立つ吾は」にちなんだ「 楯の会」と変えた。 同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでの体験が反映された第三巻の「」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。 同年10月21日のにおけるのの激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊の機会を予想した三島は、それに乗じて「」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・改正へのを計画した。 この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。 この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。 彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。 三島はクーデターに恰好の機会を待ちながら演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インやでの講演活動を行なった。 三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった。 三島はその活動と並行し、同時期に戯曲『』や、『』、評論『反革命宣言』などを発表した。 また、同年10月17日にはの受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。 川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた。 なおドナルド・キーンが後年1970年5月にの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(の)に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという。 (昭和44年)1月には『』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。 2月11日のには、前で焼身自殺したの壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。 同年5月13日には、教養学部教室での主催の討論会に出席し、やらと激論を交わした。 その中で三島は、〈つまりを天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。 それだけさ〉と発言し 、最後に〈諸君の熱情は信じます。 ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした。 6月からは、、、らと共演する映画『』(監督)の撮影に入り、士の役を熱演した。 大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときにするんだ」、「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。 この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、、、、など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた。 これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『』、戯曲『』などが発表され、日本のはだという意気込みで、歌舞伎『』も書き上げた。 しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らがに資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した。 その後、持丸も会の事務を手伝っていたとの婚約を機に、退会の意向を示した。 三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。 持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。 持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。 この年の10月21日の国際反戦デーのは前年とは違い、前もって配備されていた警察のによって簡単に鎮圧された。 三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。 これで、クーデターによると自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。 「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。 私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。 それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。 しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。 — 三島由紀夫「小説とは何か 十一」 この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。 それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。 同年10月25日、の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請をに願い出て 、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った 11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが屋上で行なわれ、陸将らが祝辞を述べ、女優のやから花束を贈呈された。 三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し 、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。 三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという。 その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸でとらが来て、をしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる。 1月17日、三島は学習院時代の先輩・夫妻との会食の席で、50歳になったらを書きたいという今後の抱負を語った。 2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「」を書いた。 3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の・にの正式な作成方法を訊ねていた三島は 、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいたと疎遠になり、4月頃からら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細はを参照)。 3月頃、三島は村松剛に、「は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。 刊行されたの『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。 第四巻の取材のため、三島は5月に、、6月にに赴いてタイトルを決定し、7月から「」を連載開始した。 6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『』と『』のを母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し 、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。 なおこの時期、5月にドナルド・キーンがコペンハーゲンで1968年ノーベル文学賞の選考秘話(前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼の過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後「そのことを三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という。 7月7日の新聞では、「」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。 私はほとんど「生きた」とはいへない。 鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。 このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した。 同じ7月、三島は官房長官と防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で首相に提出されず葬られた。 川端宛てには、〈時間の一滴々々がのやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った。 同年8月、家族と共に伊豆のに旅行し、帰京後は執筆取材のためにのを訪れた。 8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・に預けた。 9月には評論『革命哲学としての』を発表し、同時期に対談集『』と『』も出版した。 9月3日に宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色のの呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした。 三島は再び暗い話を始めた。 日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。 は、九代にわたってが夭折した云云。 今夜は様子が違う。 延々とのろいの話。 日本全体がにかかっていると言い出す。 日本人は金に目がくらんだ。 精神的伝統は滅び、がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。 「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。 さらにこう説明した。 「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。 この呪いから逃れる道はない」 を飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。 どう解釈すればいいのか。 — 「三島由紀夫 死と真実」 この時期には、や『』の翻訳者・とも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にしたを「最後の真のだ」と敬愛していたという。 10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、村松が、「家庭の幸福は文学の敵。 それじゃあ、と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。 同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが 、自分の死後も子供たちに毎年が届くよう百貨店に手配し 、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた。 によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという。 10月に再演された『』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた。 その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。 帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。 王国なんてなかったんだよ〉だった。 11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。 小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。 の大寺院のことを、かつて「」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。 11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていたは、深夜三島に電話した。 で上映されて好評の『』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという。 11月22日の深夜午前0時前にが三島に電話し、横尾が装幀担当した『新輯 』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺のだろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという。 11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、、、は、午後6時頃からの料亭「」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした。 午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという。 自衛隊突入決行と自決 [ ] バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて) (昭和45年)、三島は内の総監室をら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、総監を人質にして籠城すると、からを撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後にした。 45歳没。 決起当日の朝10時30分、担当編集者のは平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「」の原稿を渡された。 小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。 この11月25日という決行日については、が摂政に就いた日であることと、天皇が「」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「」を復活させようという意味があったと考察する研究や 、三島が尊敬していたの刑死の日をに置き換えた日に相当するという見解もある。 また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉 として発表した『』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。 この日、の葬儀で東京に居たは、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。 呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。 三島の家族らは動転し、夫人はショックで寝込んでしまった。 三島のは、 散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く 小夜嵐 ( さよあらし ) の2句。 自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「」( 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」( 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈 限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。 に使われた自慢の名刀「」は刃こぼれをしていた。 刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の拵えを作らせ、それに納まっていた。 事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた。 刀を贈った友人のは、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日までで開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。 は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし 、以下のような追悼文を贈った。 息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。 疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。 あなたの忍耐と、あなたの決断。 あなたの憎悪と、あなたの愛情が。 そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。 それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。 あなたが「」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。 あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。 — 「三島由紀夫氏の死ののちに」 翌日の11月26日、三島がに託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。 どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた。 密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、ので三島は荼毘に付された。 なお、三島は律儀にに加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。 三島由紀夫の墓 翌(昭和46年)、三島の誕生日であるこの日、の平岡家墓地にが埋葬された。 自決日の49日後が誕生日であることから、三島がのためのの期間を定めていたのではないかという説もある。 同年1月24日に、で(葬儀委員長・、弔辞・ほか)が行われた。 8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。 は「 彰武院文鑑公威居士」。 遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。 文の字は不要。 」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。 告別式には、の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、も友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという。 人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。 憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した。 なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる。 香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。 しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。 三島と森田のには、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「」が毎年行われている。 三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(、、)が仮出所した翌年の(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も形式で毎年行われている。 1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「」が開館された。 2008年(平成20年)3月1日には、向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。 文学碑・追悼碑 [ ] の港に『』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。 1971年(昭和46年)1月30日、(現・)の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士」が建立され、除幕式が行なわれた。 碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている。 同年2月11日、三島の本籍地の(現・志方町)の八幡神社境内で、地元のの会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。 また、この地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。 は県知事・。 同年11月25日、(現・)の(元曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。 揮毫は三島瑤子()。 の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている。 碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている。 1973年(昭和48年)6月10日、(現・)のに『』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。 揮毫は。 1983年(昭和58年)1月9日、静岡県郊外に「三島由紀夫神社」が建立された。 1991年(平成3年)11月、(現・)のに『』の文学碑が村の有志により、建立された。 高さ1メートル、幅2メートルあまりのに、の風景描写の一節が刻まれている。 作風 [ ] 三島由紀夫の主要作品は、を多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、の『』から着想した『』、のや、・、のフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『』を典拠とした『』など、からその〈〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。 上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある。 また、社会的なや問題を題材にするなど、日本のやと共通する点はあったものの、その作風は彼らと違って時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、へのを持った幻想がなかったため、そういった面では明日など信じていない、、、などのに近い傾向がある。 上述でも判るように、三島はから、の日本文学に造詣が深く、な傾向の点では末期の文学の流れをくむ、夭折美学や的な鋭さの面ではとも大きな共通性があるが 、的にはやの影響を受けており 、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘したのに近いことが指摘されている。 『』などをしたことのあるは、三島は「(日本がにより)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし 、日本が「生来的・先天的・基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている。 そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえたは、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。 三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし 、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。 これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している。 二元論 [ ] 三島の作品は、『』『』『』『夜の向日葵』『』『』『』『』『』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『』では「を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、に接合していることが指摘されている。 文学のテーマも、三島自身が〈『』は私のほとんど的な的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように 、と、と、と、と、見る者と見られる者(者と行為者)、と、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある。 『』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には 、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる。 『』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは 、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかをは考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている。 近づけば近づくほど、逆に作者は限りなく作品空間から遠ざかるのだ。 芸術対人生の対立をのり超えたと信じた三島は、この地点で、転換されたレベルでの二項対立に新たに捕えられるのである。 それはの部屋の中でのようにに繰り返されるだろう。 「彼」は作者になりうるか、作者は「彼」になりうるか……。 この自己撞着のの無限のなす背理そのものが、以後の三島の文学空間を規定したのである。 その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ 、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず 、この〈生〉と〈死〉の関係性を「」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『』と『』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。 言葉の領域でもあった〈生〉と 、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは 、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している。 〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」という(円環)になる。 三島の『』が初掲載された『』には、の『』が同時掲載され、そこで蓮田は、ももなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明のだと論じている。 は、それは三島の行きついた「魂の形」をしていたとし 、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。 当時の的知識人たちに対する「反動イデオローグ」として、三島は「」(が名付けた)と問題視され 、また、からは、その〈抽象的情熱〉を 、・ロマン派や、三島が少年時代に培ったに通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた。 近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて以下のように語り 、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。 バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている。 — 三島由紀夫「小説とは何か 七」 こういった三島の思考は、反のであるが『』で「」を招来したイロニーと等価であり 、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている。 ニーチェの待望した「」「」的なものは、三島にとって『』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち 、の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉 、特攻隊の〈人間の至純の魂〉 、澄んだ『』の〈透明な兇器〉 、『』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉 、『』のなど、純一無垢のイメージを秘め、性を帯びた美的存在としてある。 寂寞のエンディング [ ] 遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが 、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される。 『世界の驚異』は、『』や、の『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈のゆれるも物悲しき、むせびなくの音のやうにかなでゆくの調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、や、やが描かれている。 火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。 あゝ果てゆく。 それはの野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。 らうそくの火はきえて了つた。 そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され(なしの)、最後にののを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている。 は、三島が子供の頃から豊かな才能とに恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうという的な傾向があると考察しているが 、三島自身も、〈知的(的)なもの〉と〈感性的〈的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し 、芸術を〈細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている。 現在あるところのものを一度破壊させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうどのの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスのから生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたの形でしかを把握することができないのではないかといふ感じがする。 さういふ点では文学もの秘儀のやうなものである。 には必ず死と破滅のにほひがする。 しかし死と破滅もそのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。 — 三島由紀夫「わが魅せられたるもの」 人工性 [ ] 三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される。 は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『』の序文でいち早く言及していた。 すべてであり、あるひはすべてであらう。 私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。 三島君の新しさは容易には理解されない。 三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。 三島君は自分の作品によつてなんのも負はないかのやうに見る人もあらう。 しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。 この冷たさうなは決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。 この脆そうなは生のを編み合せたやうな生々しさもある。 やの値段やを越えた所に、日常の奥底に、人間ののがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。 汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。 との対談の中でも三島は、が「芸術でいちばんやさしいことは、を流させることと、感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古のだ〉として 、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくてだよ。 (中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。 派が『』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している。 劇作家と小説家 [ ] 三島はでもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。 三島は、はよりも〈的なところ〉、〈よりの遊びに近いところ〉にあるとし 、〈告白の順番〉は、〈が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、だから〉と述べるなど 、日常的な現実空間をリアルに書く従来の作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され 、22歳の時にに宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類ののなかで、「」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本の〈的〉な告白のようなものや的な小説を批判している。 しかしながら、三島は自分自身を〈〉と規定し 、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから 、青海健は「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している。 三島は、〈戯曲のを強引に小説の法則へ導入〉して 、の言う「自然で自明な感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に 、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題が移行している『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説()」となっている。 青海は、三島にとって戯曲とは「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の」であるとし 、それが顕著なのが作家の阿里子(とも読める)と、の世界に生きている帝一がする『薔薇と海賊』だとしている。 すなわち、『薔薇と海賊』では「書き手とその作品世界とのな合体の夢」が的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも 、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される。 この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し 、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島はこの「分裂の不幸」を「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと、青海は考察している。 三島の持論 [ ] 憲法改正論 [ ] 三島はを、「一方では主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方ではの仮面の下に浸透した革命勢力の抵抗の基盤をなした」ものとして唾棄し 、この条文が「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であり、「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの」であると断じている。 そして、いかなる戦力(・)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても「丸腰」でなければならず「国家として死ぬ」以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで「牽強付会の説」を立てざるを得なくなり、こういったのような行為を続けることは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、ととの裂け目を拡大」するとしている。 このように三島は、と呼ばれる憲法第9条により、「国家理念を剥奪された日本」が「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること」になったことを 、「完全に遵奉することの不可能なの存在は、道義的退廃を惹き起こす」とし、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と批判している。 これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては「やや賛成」としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を「世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」とし、「日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の・・の自主性が「二次的副次的」なものになり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと」になるため、「第九条全部を削除」すべしと主張している。 さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、「」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、「信教の自由」に関する「の問題」(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、日本が独立国としての「本然の姿を開顕」できず、逆に「アメリカの思ふ壺」に陥り、憲法9条だけ改正してを双務条約に書き変えるだけでは、やアジア国家と並ぶだけの結果に終わると警告している。 三島は、外国の軍隊は決して日本の「的国家の態様を守るものではないこと」を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい「建軍の本義」を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに「」を創立し、憲法に「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される」という文言を明記するべきであると主張している。 自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。 現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。 憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。 なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なそのを失ふことになりかねないからである。 — 三島由紀夫「問題提起」 また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず「憲法違反」を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は「偽善のもと」、「憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ」と語っている。 自衛隊論 [ ] 上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、「日本国軍」の創立を唱えながら、「一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様」である国家という「一定の物理的保障」を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(その他)を借りるとしても、「決して外国の軍事力は、他国の的国家の態様を守るものではない」とし、に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。 三島は1969年(昭和44年)ののの際に自衛隊が行われなかったことに関連し、「を力を以て守りきれない段階に来て、はじめての出動によつてが明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している。 また、「改憲」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘し、本来は「的な国家」であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる「遠心力的」な「統治的国家(の主体)」と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される「求心力」的な「的国家(国民精神の主体)」の二極に分離し、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」状態にあるとしている。 現状では自衛隊の最高指揮権が日本のでなく、最終的には「にあるのではないかといふ疑惑」があり、現憲法の制約下で統治的国家の「遠心力」と祭祀的国家の「求心力」による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「 自衛隊二分論」を三島は説いている。 の 9割、の 7割、の 1割で「 国連警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。 この軍は統治国家としての日本に属し、によって体制にリンクする。 根本理念は的であり、身分はにおける日本人職員に準ずる。 陸上自衛隊の 9割、海上自衛隊の 3割、航空自衛隊の 1割で「 国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。 その根本理念は祭祀国家の長としてのへの忠誠である。 対間接侵略を主任務とし、も行う。 の「国土防衛軍」には多数のが含まれるとし、「」はそのであるとしている。 なお、三島はには反対している。 三島は、自衛隊が単なる「技術者集団」や「官僚化」に陥らないためには、「と」、「武士と」を結びつける「の原理」を復活し、「精神」を保持しなければならないとし、軍人に「セルフ・サクリファイス」(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構のに堕落すると説いている。 そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊のを受けることと、を直接下賜すること、文人のみのだけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。 核武装について [ ] 三島は、のと並ぶ史上最大の「虐殺行為」の被害をがアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」とで掲げていることに疑問を呈し 、「原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、の『 五内為ニ裂ク』といふ一節以外に、私は知らない」と述べている。 そして、そうした「民族的憤激」や「最大の屈辱」を「最大の誇り」に転換するべく「に象徴される工業力誇示」を進めてきた日本人だが、はたして「そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか」として、唯一の被爆国である日本こそがする権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。 日本人は、を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。 だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。 いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。 日本は核時代に向ふほかない。 単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。 核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。 彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。 良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。 われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。 そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。 日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。 そして自決前の『』の後半では、日本にとって不平等な NPT のことも語っている。 諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。 (中略)国家百年の大計にかかはるは、あたかもかつてのの再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切る一人、自衛隊からは出なかつた。 とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。 あと二年の内に自主性を回復せねば、のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカのとして終るであらう。 — 三島由紀夫「檄」 この警告については、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし 、三島自決の6年前にがに成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国がに加盟してとなったことに触れながら、「国家百年の大計にかかはる」と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。 そして、三島が「あと二年の内」と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)にがを受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が「永遠にアメリカのとして終る」ことが暗示されていたと西尾は解説している。 天皇論 [ ] 三島は、「天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない」とし、軍事の最終的指揮権を「天皇に帰属せしむべきでない」としている。 これは天皇が日本の歴史の「時間的連続性の、祖先崇拝の象徴」であり、「の祭祀」を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、「天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ」というのが三島の考えだからである。 日本の「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」である天皇は、「国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性のである」と説く三島は、「 文化概念としての天皇」という理念を説き、の造営や、におけるの法則などに見られるように、「オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」日本の文化では、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、とオリジナルとコピーの関係にはない」ため、天皇は神聖で「インパーソナルな」存在であると主張している。 日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣の原理」(刀)の栄誉が、「最終的に帰一する根源が天皇」であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、やのような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き 、天皇は「現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭なのシンボルでもあり得る二面性」を持つものとしている。 三島の天皇観は、「化への最後のトリデとしての意志であり、純粋日本の敗北のへの洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴」であり、昭和の天皇制はすでにが入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと三島は批判している。 さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような「週刊誌的天皇制」に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎたのことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼び、痛罵している。 三島は、個人に対しては、「反感を持っている」とし、「ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが 、この天皇のに対する思いは、『』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南したも批判している。 三島は、が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。 また、「幻の」に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は「没我の精神」であり、国家的や国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、などの祭祀の重要性を説いている。 天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後のとして、そこにいなけりゃならない。 それをいまから準備していなければならない。 (中略)天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。 そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。 その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。 これがぼくの天皇論の概略です。 — 三島由紀夫(との対談)「文武両道と死の哲学」 なお、三島はを首席で卒業した際、を拝受して昭和天皇に謁見しているが、1969年(昭和44年)5月に行われたとの討論集会において、その時の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと敬意を表しており 、終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。 灯火管制は止めて街を明るくせよ。 娯楽機関も復活させよ。 親書のの如きも即刻撤廃せよ」と御命令なさった「大御心」への感銘を綴っている。 ぼくらはつまり戦争中に生まれた人間でね、こういうとこに陛下が立ってて、まあ座っておられたが三時間全然微動もしない姿をみて、とにかく三時間全然木像のごとく微動もしない。 卒業式で。 その天皇から私は時計をもらった。 そういうね、個人的な恩顧があるんだな。 こんなこと言いたくないよ俺は。 言いたくないけれどもだね、人間の一人の個人的な歴史の中でそういうことはあるんだ。 そしてね、それはどうしても否定できないんだ俺の中でね。 それはとても立派だった。 — 三島由紀夫 1969年5月13日東京大学900番教室壇上において は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前にで天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが 、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている。 長く昭和天皇に側近として仕えたの日記『』の記述から、昭和天皇が三島やに少なからず関心を持っていたことが示されている。 なお、は三島がを容認しているメモをの「」のために残しているとして、昭和天皇が制度を廃止して十一家あった旧をさせたことなどにより、将来に必ずが起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが 、鈴木が見解の元としているの著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。 鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。 特攻隊について [ ] 三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、「近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の」として存在せしめようという考えであったが 、三島のへの思いも、彼らの「没我」の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。 三島の考える「純粋」は、小説『』で多く語られているが、その中には「あくまでは全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます」とあり 、評論『』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている。 三島はを「である」としていたが 、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「」についても、「あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。 ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである」としている。 この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。 「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的なになつた。 それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。 日本の全文化層、世界の全が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。 全く身近の問題だと思ひます。 — 平岡公威「宛ての葉書」(昭和20年4月21日付) 敗戦時に新聞などが、「幼拙な」や「戦術」と称し、神風特攻隊員らを「の駒を動かすやうに」功利、効能的に見て、特攻隊の精神がにより冒涜されて「の座と」が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた。 我々がの究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。 人々は特攻隊に対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒瀆の語を放ち出した。 — 平岡公威「昭和廿年八月の記念に」 また、三島は戦後に『』が特攻隊員のを「作為的」に編纂し、編者が高学歴の学生のの文章だけ珍重して政治的に利用している点に異議を唱え 、「テメエはインテリだから偉い、がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と唾棄している。 『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても「いはん方ない反感」を感じたとし、研究をしていた学生らが戦死した傍らにかの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど「甚だしくバカバカしい印象」だと酷評し、「日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的」であるとしている。 愛国心について [ ] 「愛国心」という言葉に対し、三島は官製のイメージが強いとして「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。 「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。 アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるものだと三島は主張し、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。 これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」としている。 恋がであるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。 しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。 さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。 — 三島由紀夫「愛国心」 国語教育論 [ ] 三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定されたを使わず、自身の原稿は終生、を貫いた。 三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部したために古典が読めなくなったとしている。 また、敗戦後に日本語を廃止してをにすべきと発言したについて触れ、「私は、日本語を大切にする。 これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。 戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と批判した。 国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが「教育の完全放棄」だとし、「の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。 ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。 これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と主張している。 そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し 、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、製造よりもつと罪が深い。 みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」との役人や教育学者を批判し 、自身の提案として「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、を入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか」を先生たちにやってもらいたいと述べている。 三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して「日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた」と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『』を暗唱させるべきだとしている。 また、『』の暗唱、を素読する本当の教え方が大事だとし、古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、「日本の文体」も非常に弱くなったとしている。 漫画・映画・サブカルチャー [ ] 生前、自身でも『』時代から・好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、、、らの漫画本があることが明らかになっている。 毎号、小学生の2人の子供と奪い合っての『』を読み、「猫のと毛虫のと奇怪な生物」ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が劇画に求めていた「破壊主義と共通する点」を看取し、「それはが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる」と賞讃している。 「おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画」を愛する三島は、「他人の家がでするのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況」こそが漫画であるとして、「漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない」と語っている。 三島は、漫画家が「家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである」として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、「又しても古ぼけたのやであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと」を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、「自ら突拍子もない教養」、「決して社会へ巻き込まれることのない、的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養」を開拓してほしいとしている。 かつて颯爽たる「」を想像したも、「」ではの御用漫画家になり果て、「」ですばらしいを見せたも「」の「こどもの国」や「」連作では見るもむざんな主義に堕してゐる。 一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。 「」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。 (中略)折角「」にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 」(1965年)を描くときは、と同時代に逆行してしまふからである。 — 三島由紀夫「劇画における若者論」 好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、の漫画誌『』連載の『』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある。 編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという。 また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『』と答えている。 (昭和29年)の映画『』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、によれば三島のみが「の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという。 次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、やらとも対談もした。 は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。 自由に冗談を言いあえる。 数少ないホンモノの人間ですネ。 (中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。 これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている。 にも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)にに入会する(会員番号12)。 1957年(昭和32年)6月8日には国際会館屋上での観測会に初参加した。 なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、UFO実在論を唱える別団体「」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている。 1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『』を発表したが、その1年半前には瑤子夫人と自宅屋上でを目撃している。 1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『』に寄稿し、「私は心中、近代を完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」と記した。 また、の『』を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評している。 家族・親族 [ ] も参照のこと。 祖父・() (3年)生 - (昭和17年)没 1892年(明治25年)、法科大学(現・)卒業。 に入省。 1906年(明治39年)7月、に就任し、1908年(明治41年)6月、庁長官に就任した。 に重用された人物であった。 太く濃い眉と意志的な眼が印象的な、人望の厚い人物で、樺太に銅像が建立された。 79歳で死去。 祖母・(戸籍名・なつ) (明治9年)生 - (昭和14年)没 東京府・判事・の長女。 ・・の孫。 17歳でと結婚した。 出血のため62歳で死去。 父・() (明治27年)生 - (昭和51年)没 平岡定太郎と夏子の長男(一人息子)。 1920年(大正9年)、法学部(現・東京大学法学部)科(独法)卒業し、(現・)に入省。 1942年(昭和17年)3月、長を最後に退官。 日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、会社は終戦で機能停止し、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖された。 肺に溜まったによる呼吸困難のため82歳で死去。 母・ (明治38年)生 - (昭和62年)没 漢学者・の次女。 学問所「」教授・の孫(母・トミが橋健堂の五女)。 橋家は・に代々仕えた。 19歳で平岡梓と結婚し、公威、美津子、千之の二男一女を儲けた。 のため82歳で死去。 妹・ (昭和3年)生 - (昭和20年)没 専門部在学中の17歳の時に、で疎開されていた図書館の本を運搬する作業中、なま水を飲んだのが原因でで早世。 弟・() (昭和5年)生 - (8年)没 1954年(昭和29年)、科卒業後、に入省。 やなど各国に駐在。 1987年(昭和62年)4月から駐大使となり、その後に駐大使などを歴任した。 引退後、のため65歳で死去。 祖父・() (2年)生 - (昭和19年)没 士の父・瀬川朝治と母・ソトの二男。 幼少より漢学者・に学び、学才を見込まれ、12歳の時に健堂の三女・こうと結婚、となる。 こうの死去後は、健堂の五女・トミを後妻とした。 1910年(明治43年)、の第5代に就任。 校長を辞職後は、()の校長となる。 故郷の金沢にて84歳で死去。 伯父・() (明治17年)生 - (昭和11年)没 倭文重の兄。 橋健三とこうの長男。 開成中学]、、東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)科と進み、1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府(のちの)の講師から副院長となる。 1927年(昭和2年)、(現在の医学部)に就任。 歌人の(の父)とは親友同士であった。 をこじらせ52歳で死去。 妻・ (昭和12年)生 - (平成7年)没 ・の長女。 英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。 三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。 のため58歳で死去。 長女・() (昭和34年)生 - 31歳の時に冨田浩司()と結婚。 富田との間に子供がいる。 長男・(元) (昭和37年)生 - 映画『』、『三島由紀夫映画論集成』(1999年)の監修、編集に携わった。 系譜 [ ] 平岡家 [ ] 祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区 三島は、〈私は血すぢではとの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが 、その祖父・のは、兵庫県大字上富木(現・上富木)で、その昔まだ村と呼ばれていた頃は、、が盛んな地域であった。 また、同じ兵庫県のに次いでも盛んで 、のは「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた。 近くにはの皇后・のがあり、その皇子・の誕生の地でもある。 古代、この地はで、の折にが龍船を泊めた。 その時に神功皇后が、野の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼び、その後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である。 - 頃(の頃)に、がこの地に観音城(別名、)を築城したため、からとなった。 のにあたり、城主・櫛橋は、の主・と共に抗戦し落城したため、多くの、が志方に土着化した。 なお、この地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、のあとに登場した論で候補地の一つに挙がったこともある。 のときも加古川流域はほとんど被害がなかった。 「平岡」姓 平岡家の・真福寺は(元年)の建立である。 によれば、平岡家の祖となる初代は - (時代)の 孫左衛門である。 二代目も孫左衛門をし、次は 利兵衛が三代続く。 その次の六代目の 平岡太左衛門(たざえもん)の四男が となり、三島の祖父・定太郎は太吉の二男である。 武士は出身地のの名からをつけたが後はもならい姓とした。 津速魂一四世孫胴身臣の後継。 『』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。 農民の平岡家もになってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが 、過去帳を見たによると、平岡姓は、四代目以降の五代目・利兵衛(3人目)からだとしている。 屋号「しおや」(塩屋) 五代目の利兵衛(3人目)のところから「しおや」()というが付いているが 、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目の利兵衛が農業のかたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売を始めたのではないかとされている。 曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」 七代目にあたるは、妻・つるとの間に、、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた。 三島の父・の従弟・小野繁(むめの息子)が真福寺の住職から聞き出してまとめた報告書には太吉の人物像が次のように記されている。 「平岡太吉は裕福な兼農家で、田舎ではいわゆる風流なで腰にはを帯びを持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名をののののに入れ勉学させ、次いでへ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」。 太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎の二男・平岡義一の妻)によれば、太吉は幼少(5、6歳)の頃、から禁じられていた(一説には)を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由で平岡一家は西神吉村宮前から志方村の上富木に移り住んだという。 その後、成長した太吉はで成功し、栽培も軌道に乗って裕福となり、豪邸を建てた。 赤門事件 平岡梓は、「僕の家は、を開けば、なるほど父方は百姓風情で事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べているが 、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという。 志方町中央の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、のがから君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て、の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない」と断じられ「所払い」になったという昔からのいい伝えの話だという。 梓から直接その伝承話を聞いたことがあるというは、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため真偽不明だとした上で 、その伝説を幼い頃から父親や祖父から聞かされたであろう三島の脳裏には、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識が刻まれていた可能性があるとしている。 福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉の鶴射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島に受け継がれていたとしている。 平岡家部落民説 『』の記事(1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元四国支社の男性記者 )は、平岡家の祖先が、であるかのような記載をしているが 、越次倶子が実際に過去帳を調べて写真撮影したものによれば、そういった記述は全く無く 、1964年(昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家のの写しにも、特別変った箇所はなかった。 は、もし過去帳や戸籍に部落民説を裏付ける記述があれば、意識の強かった時代、由緒あると定太郎の結婚は成立しなかったであろうとしている。 近年、過去帳を実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「のの下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし 、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている。 板坂剛の取材に答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。 他には何も書いてないですよ。 いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている。 平岡家系図 三島は〈私は血すぢではとの末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を・に見ている。 映画『』(1969年)で、士・の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎でを命ぜられた永井のが百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と宛てに綴っているが 、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・の祖父にあたるである。 永井尚志は、の総監理(所長)としての創設に着手するなど活躍し、海軍創設に甚大な貢献をなして、(2年)、・に叙任した人物である。 尚志はその後、、、となり、京摂の間、等志士とも交渉を持った。 (慶応3年)にとなり、では、としてと共にに立て籠り、に敗れて牢に入った。 後は解放され、権大書記官となった。 (夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、というより、ともいうべき人であった。 公がする際、その文を草案した人として名を知られている。 なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。 永井亨(夏子の弟で、・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の(藩主)の下ではたらき、、以下のの面々にも人気があったとされる。 晩年の尚志は、向島のという早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという。 夏子の父・は、(2年)9月に永井家一族の・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志のとなった。 戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った。 維新後は、十等出仕を命ぜられ、、を経て、(明治27年)4月にとなった人物である。 岩之丞は、の・の・の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた。 松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位ので、のであった。 松平頼位の長男・はの際に幕府からを命じられて33歳で死んだ人物である。 岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている。 三島は曾祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。 そこにはの女性に特有なな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している。 永井家系図 永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「」とすれば、橋家は三島にとって「」の血脈となる。 三島の母・の祖父・、曽祖父・、高祖父・ 橋一巴(雅号・鵠山)は、藩主・に代々仕えた・であった。 を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた。 高祖父・一巴以前の橋家は、(にある畔、の近く)の広大な山林の持主の(橋)一族である。 1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。 賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄のの橋家が元で、のの出身である。 曽祖父・橋健堂は、平民・の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「」、「集学所」(のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単にを修めるだけでなく、や洋式も教え、率いるに刺激された加賀藩が、命運を賭して創設したでもあった。 教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、から洋式兵学を吸収する立場の人物であった。 橋家系図 略年譜 [ ] (14年) 0000000000000000 1月14日の夜9時に永住町2番地(現・四丁目22番)で、父・と母・のとして誕生。 本名・平岡公威。 は祖父・の郷里・大字上富木119番地(現・兵庫県上富木)。 3月3日頃から祖母・が1階の自室で育て始める。 8月にで遊ぶ。 (大正15年・元年) 1歳。 1月に祖母の留守中、2階に這い上がろうとしてから転落。 眉間から大量出血し病院に搬送。 (昭和2年) 2歳。 1月に母の実家への年始参りで、の祖父・にを習いをする(以降、幼少時代ほぼ毎年恒例となる)。 (昭和3年) 3歳。 2月23日に・が誕生。 天気の良い日でないと祖母から外出許可が下りず、遊び相手も年上の女の子に限定。 この年、を決行した父に抱かれてでを至近距離で見る。 (昭和4年) 4歳。 3月に母に連れられに行き、を撮る。 この年の秋頃、両親に散歩に連れられ、の高い建物に興味を示す。 (昭和5年) 5歳。 1月19日に・が誕生。 同月、に罹りの一歩手前までいく。 に入れるなどが用意されたが、の・が診た際にし、一命をとりとめる。 8月22日に祖父・定太郎のがに建立。 祖父母・母らと銅像の前で記念撮影。 (昭和6年) 6歳。 4月にに入学。 と級友になる。 同月に(以降、毎年初等科恒例行事で参拝)。 、世界、、などを愛読。 5月にでのに行く。 12月に初等科機関誌『小ざくら』(年2回発行)にとが初掲載。 以降、毎号に習作(・俳句・短歌)を発表。 初等科低学年時代はのため学校は休みがち。

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平岡瑤子(ひらおかようこ)は三島由紀夫の妻!芳村真理から新事実キャンティ?wikiプロフィールや写真あり!爆報!THEフライデー

三島 由紀夫 身長

三島由紀夫と妻の瑤子さん出会い 1958年。 瑤子さんは大学生だった。 瑤子さんの写真を見て、三島はたいそう気に入り友人を介して紹介してもらったそうだ。 銀座で3人で食事の後、青山のナイトクラブへ行った。 そのナイトクラブで、三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った、と友人に報告した。 瑤子の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうなようすだったそうだ。 1958年。 明治記念館にて挙式。 媒酌人は川端康成。 三島は招待客の間を、「可愛いだろう」「可愛いでしょう」と自慢げに瑤子を紹介しながら巡り歩いていたという 瑤子さんは大学を中退して家庭に入りその後2人の子供をもうける。 三島の瑤子さんへの気持ちがうかがえる手紙 33歳の三島が新婚旅行中に英字で書いたもの。 便箋2枚が使われたその手紙は、『仮面の告白』英語版の出版社・社長に宛てられた近況報告だった。 冒頭「ここ2~3カ月、私の人生において重大なことがふたつ起きました」とし、母の手術と回復、そして以下のようなことを伝えた。 「6月1日に結婚し、今はハネムーン旅行中です。 妻・瑶子は21歳の大学生。 引用元:ダヴィンチニュース 瑤子さんプロフィール ひらおか ようこ 平岡 瑤子 旧姓 杉山 瑤子 生年月日 1937年2月13日 没 1995年7月31日(58歳没) 死因 肺真菌症による急性心不全 学歴 日本女子大学附属豊明小学校 日本女子大学附属中学校・高等学校 日本女子大学英文科中退 子供 紀子(長女)威一郎(長男) 両親 杉山寧(父)日本画家、元子(母) 三島夫妻の変わったエピソード 三島由紀夫と妻の瑤子さんは毎朝5時に起きて、風変わりなあることを仲よく行っていたという。 それは… UFOを探していたそうだ。 実際吉村真理も三島由紀夫に誘われ、浜離宮にUFOを探しに行き 「ベントラ ベントラ スペースピープル」 と唱えたことを覚えている。 (11月24日放映爆笑フライデー) 三島は何でも興味があることにはとことんはまり込む性格でした 三島の割腹自殺後の瑤子さん 三島の割腹自殺。 170112 NEWS23 三島由紀夫の未公開テープ「憲法9条2項がいけない」「日本人はごまかし、ごまかし生きてきた」 — ももじ 慰安婦像立った朝日新聞死ね。 momoji33 日本中が、朝から晩までその話題で持ちきりでした。 当然、家族はマスコミに追われる日々でしたでしょう。 妻の瑤子さんも子ども2人も、報道陣に囲まれ想像できない日々を送ったことでしょう。 「爆笑フライデー」では、当時三島由紀夫が割腹自殺した自衛隊市谷駐屯地の総監室に突入した9人のうちの一人の元自衛官(88歳)が出演しました。 三島と相対s、三島はくーでたーに邪魔なものを追い出したいために元自衛官(88歳)を切りつけました。 当時の傷あと」が背中に23cm、くっきりと残っていました。 瑤子さんの意外な行動 三島由紀夫の割腹自殺のあと、葬儀委員長は川端康成氏。 出席者は8000人でした。 背中を切られた元自衛官(88歳)は2週間入院しました。 そしてある日、官舎に瑤子さんが訪ねてきました。 すみません と、瑤子さんは深々と頭を下げたそうだ。 瑤子さんの後始末 事件の後、瑤子さんは三島由紀夫たちが立てこもってめちゃめちゃにしてしまった自衛隊の総監室を全額弁償しました。 その後、立野会の元メンバーの起こした人質立てこもり事件に、自ら犯人たちを説得して人質を取り戻しました。 夫を失っても悲しんでいる暇はありませんね。 作家でもあった三島由紀夫の遺作の編纂、保持に努めました。 1995年(平成7年)7月311日、肺真菌症の悪化により、東京女子医科大学病院で、急性心不全で死去なさいました。 三島由紀夫の子どもたち 長女 平岡紀子(ひらおかのりこ) 生年月日 1959年6月2日 学歴 学習院女子中、高等科 学習院大学文学部仏文科 職業 演出家 結婚 1990年富田浩司氏(外交官)と婚姻 子ども 2女1男 現在58歳威です。 父である三島由紀夫の没後20年に、三島由紀夫の戯曲『弱法師』と『葵上』の演出を手掛ける。 長男 平岡威一郎 生年月日 1962ねbb5月2日 学歴 御茶ノ水女子大学付属小学校、開成中学校、高等学校 職歴 映画の助監督、宝飾店軽々、作詞家 三島由紀夫は生前長男の威一郎を溺愛していたそうです。 威一郎さん、現在55歳です。 いろいろな職業を転々としていらっしゃいます。 現在の職業はは一般人としてしかわかりませんでした。

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三島由紀夫と妻!子供の現在と芳村真理や美輪明宏との関係について!!

三島 由紀夫 身長

[生]1925. 東京 [没]1970. 東京 小説家,劇作家。 本名,平岡公威 きみたけ。 学習院高等科を経て 1947年東京大学法科卒業。 第2次世界大戦中『』の影響を受けてに親しみ,短編集『花ざかりの森』 1944 を。 戦後 49年『』の成功で的を,『愛の渇き』 50 ,『禁色』 51~53 など問題作を次々に発表した。 徹した方法論のもとに緻密な世界を築いたが,そのは唯美主義から古典的均整を求める方向に移行し,『』や『橋づくし』 56 で一つのに達した。 的に右傾し,独自の文化防衛論を説くとともに,『』 61 ,『の声』 66 などを発表。 としてもすぐれ,『』 56 ,『』 57 ,『』 65 などの作がある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 小説家,劇作家。 本名平岡公威 きみたけ。 東京生れ。 東大法学部卒。 官吏を辞して創作に専念,長編《の》(1949年)で文壇に出た。 世の良識が不道徳,退廃とするものを,典雅な文体と構成の中に描いた作品が多い。 《愛の渇き》《金閣寺》《美徳のよろめき》《宴のあと》や,戯曲《白蟻の巣》《鹿鳴館》《喜びの琴》,戯曲集《近代能楽集》などがあり,広く海外にも紹介された。 また《憂国》《剣》《英霊の声》など憂国的心情からの小説があり,1968年憲法改正を求める組織〈楯 たて の会〉を結成,1970年11月25日東京市ヶ谷の自衛隊総監部を襲い,事成らず,割腹自殺。 《豊饒の海》四部作が。 市ヶ谷自衛隊で割腹自殺。 昭和期の小説家・劇作家。 東京都出身。 東大卒。 時代、16歳で「」に「花ざかりの森」を発表するなど、早熟なを著わし、東大在学中には文壇に入った。 卒業後勤めたを9ヶ月で退職し、本格的な作家生活を開始。 1949年(昭和24)「仮面の告白」で注目を集め、「禁色」「金閣寺」「サド侯爵夫人」など華麗で絢爛たる三島文学を築いた。 「楯の会」を組織するなど主義的な行動も示し、70年「の海」を書き上げたその日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地に赴き決起を訴えた後、割腹自殺。 出典 江戸・東京人物辞典について の解説 小説家。 本名平岡公威 きみたけ。 父梓 あずさ と母倭文重 しずえ の長男として大正14年1月14日東京四谷(現新宿区)に生まれる。 満年齢が昭和の年数と一致するという点にも時代との関係がみられる。 1931年(昭和6)学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学ぶ。 10代前半から小説を発表し、44年、小説集『花ざかりの森』を刊行した。 恩師清水文雄を通じて国文学の伝統を知り、日本浪曼 ろうまん 派の間接的な影響を受けていた。 44年、東京帝国大学法学部に入学、翌年勤労動員先の工場で日本の敗戦を知る。 戦争と三島との関係は、孤独な少年の夢みた滅亡の美への共感が、時代と協和音を奏でていたものと想定される。 46年(昭和21)川端康成 やすなり の推薦で短編『煙草 たばこ 』を発表、早熟の新人として認められ、長編『仮面の告白』(1949)で作家としての地位を確立した。 この時代の三島の作風は、民主主義の確立を目ざす動向に同調せず、華麗な美の創造を目ざしたが、その根底にはニヒリズムがあって、それが同時代の読者とのきずなになっていた。 続いて『愛の渇 かわ き』(1950)、『青の時代』(同)を発表したが、52年のギリシア訪問の影響で「外面の均斉」とギリシア的健康に共感し、これが『潮騒 しおさい 』(1954)に結実するとともに、作風も知的均斉を重んじるようになる。 『金閣寺』(1956)はこの時期の頂点を示す小説である。 やがて『鏡子の家』(1959)で戦後という時代への決算を小説の形で行う。 60年安保の翌年、短編『憂国』で二・二六事件の青年将校を描く(この作品はのち65年に自ら製作・脚色・監督・主演して、能形式により映画化した)。 その後、昭和への関心が強まり、評論『林房雄論』(1963)を通って『英霊の声』(1966)に至る。 三島は劇作家としても優れた才能を示し、『近代能楽集』(1956刊)、『鹿鳴館 ろくめいかん 』(1957)などを出していたが、その後『サド侯爵夫人』(1965)のような秀作もある。 また擬古典的な歌舞伎 かぶき 劇の新作にも優れた才能を示し、『鰯売恋曳網 いわしうりこいのひきあみ 』(1954)、『椿説弓張月 ちんせつゆみはりづき 』(1969)などは好評を博した。 小説は『宴 うたげ のあと』(1960)、『絹と明察』(1964)などがあったが、1960年代の後半に至って「文武両道」を唱えるようになると、「文」に対立する「武」の領域に実践が現れた。 すなわち自衛隊に体験入隊し、「楯 たて の会」を結成する。 この時期に最後の長編『豊饒 ほうじょう の海』(全4巻、1970完結)を書き続けたが、1970年(昭和45)11月25日午前、「楯の会」の学生森田必勝ほか3名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に至り、決起を呼びかけたが果たさず、総監室で割腹自殺した。 西欧的な知性に基づく様式感覚と昭和のナショナリズムとの両者に根ざしている三島の思想と文学は、晩年には戦後社会へのアンチテーゼとして後者のナショナリズムに賭 か けたとみられる。 これは唯美主義の本質をつく言葉であり,ワイルドにも,またその影響が濃厚な《禁色》の作家三島由紀夫や,同じくワイルドの《謎をもたぬスフィンクス》を種本に短編《秘密》を書いた谷崎潤一郎にも当てはまる。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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