ミッドナイト ゴスペル。 やい!哲学者!Netflixでミッドナイト・ゴスペルを観ろ

アニメ『ミッドナイトゴスペル』の感想

ミッドナイト ゴスペル

ミッドナイト・ゴスペル シミュレーターを使って、広い宇宙に散らばる不思議な世界をまわるスペースキャスター。 その目的は、生と死、そして存在にまつわる疑問を解き明かすこと。 ハイスペックのPCを介しそのシュミレーションシステムを起動すると仮想空間が生まれる。 主人公クランシーは「」を選択し多数の惑星の中から生命体と交流しインタビューをするという内容。 一言で言ってしまえば哲学フューチャーアニメなのだろう。 または仏教アニメ。 しかし、そう簡単に1つのジャンルとして分類できないのは、機械と精神を上手くシンクロさせたシュミレーションという生現実な近未来感とそこに寄り添うように生温かい人間の「生きている」という本質をチラつかせているからだろうか。 なんだか最近のような感覚もあるんだけど30年後もしくは100年後進んだテクの話のような感じ。 しかし何年経っても、いや何千年何億年経っても実態の無い「精神世界」の議論はしないと言ってるようだった。 それは我々が生きている限り、この輪廻を動かしているシステムや神と呼ばれる者について未だ理解が出来ないから。 理解が出来ないから人は悩むし、考える。 「自分とは何か」と迷走して、瞑想して、 自分を見つめ直し、人 自分 を許して人 自分 を助ける。 言ってしまえば、 狂気的で、哲学的で宗教的でスピリチュアルなアニメ。 ここでいう宗教観念みたいなものはたぶん仏教に近いもの、それか仏教へのアプローチを楽しんでいるようなアニメ構成。 まさに「生と死」とか「輪廻」がテーマだろうなーと思いますた。 王の味 ゾンビによって滅亡の危機にひんした星で、薬と瞑想 めいそう について大統領にインタビューするクランシー。 ゲストはドリュー・ピンスキー医師。 とを併用し続けると死ぬし、中毒者は働くことさえも出来なくなってしまう。 しかしは吸いすぎなければそのようなことは一切ない。 良い薬、悪い薬という概念ではなく、薬とは化学物質でありそこに存在しているということだけ。 つまり、薬と使用者の関係性の問題であり、使う人の「個体差」というものもあるので酒やBDZ などの組み合わせだけでも死ぬことがあるからである。 ドラッグとは単に負の感情のコンであり、ドラッグが悪いという概念はただの人が作り出した固定概念である。 瞑想する余裕やゆっくりとした時間が無い中でのドラッグはとても効果的で即効性はあるだろう。 と言うことを考えさせられました。 喜びのせん滅 囚人たちが実存的恐怖に苦しむ刑務所へとやってきたクランシーは、何度も繰り返される死を横目に現実世界の正体を探る。 ゲストはジェイソン・ルーヴ。 当たり前の話だが、それが仮に何世代もの輪廻を体験しても未だ理解できないミッションだとして、あなたが今を生きているのなら、あなたは何を試すか。 そしてその結果、何が満たされるのかについて考えさせられる。 銀のねずみ 母とともに、誕生から死にいたるまでの神秘的な生命の営みをたどるクランシー。 ゲストはダンカン・トルの実母である故ン・フェンディグ。 与えられた本質的な愛や愛情というものは壊れない。 愛で結ばれた、育まれたものは死なない。 肉体は消えるけど愛は残り続ける。 その先に何があるか。 それは「泣く」ということだけ。 「泣く」。 人は泣きながら生まれ、泣かれながら死んでいく。 djomn.

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アニメ『ミッドナイトゴスペル』の感想

ミッドナイト ゴスペル

Netflixで全8話が配信中の『ミッドナイト・ゴスペル』は、非常に特殊な作品だ。 主人公はクロマティック・リボンと呼ばれる世界に仮想世界農家として暮らすクランシー。 クランシーは、無数にある平行世界へとアバターを使ってダイブし、その世界で誰かのインタビューを行う。 この設定だけ聞くと、各話完結の冒険もののようにも聞こえるかもしれない。 しかし本作が特殊なのは、クランシーの行うインタビューが、実際に行われたものだ、というところだ。 本作の監督は『アドベンチャー・タイム』のペンデルトン・ウォード。 コメディアンのダンカン・トラッセルがポッドキャストで行っているインタビューに興味を持ったウォードが、そのインタビューから派生したアニメが本作なのだ。 インタビューに登場するのは、薬物依存症のスペシャリストからトラッセル本人の母まで幅広く、いずれの話題も死や心のあり方などスピリチュアルな方向に向かって深まっていく。 たとえば第1話「王の味」では、トラッセル演じるクランシーは、マッチョな体(ビーチ・ボディ)のアバターで、ゾンビだらけの滅びかけている世界に降臨する。 この大統領とクランシーの会話が、依存症のスペシャリストである医師、ドリュー・ピンスキーに対するトラッセルのインタビューで出来上がっているのである。 かくしてゾンビがホワイトハウスに迫る危機の中、2人はドラッグとその精神に与える影響について会話を交わしていく(とはいえ大統領の台詞にはゾンビに関係する内容もあり、単にインタビューそのままを使っているわけでもなさそうだ)。 この作品は3つのレイヤーで構成されている。 まず一番下に、ベースとなっているポッドキャストのインタビューがある。 次にクランシーが入り込む仮想世界がある。 そして最後に、クランシーが普段暮らしている仮想農家としての世界がある。 そしてこの3つのレイヤーは基本的にバラバラに存在している。 仮想世界を訪れたクランシーのアバターが傷ついたとしても、仮想農家の世界(現実)に戻ってくれば身体が傷ついていることはない。 第2話「士官とオオカミ」では、クランシーは角の生えた鹿イヌ(作家のアン・ラモット)にインタビューするが、クランシーのアバターと鹿イヌは工場で挽き肉状になっても会話を続け、さらにそこに新キャラクター(スピリチュアリストのラグー・マーカス)も加わってくる。 またインタビューの音声と仮想世界の内容も基本的に関係しない。 例えば第3話「家を持たない狩人」の舞台は、都市が水没した世界。 クランシーはそこで、頭の水槽に魚が入っている人物と会って魔術、禅などについてインタビューをする(実際のインタビューイは冤罪で刑務所に服役していたダミアン・エコールズ、ダミアン自身がオカルトに詳しい)。 だがその間に、そのキャラクターは、海底に沈んだ建物の中に入っていき、引き出しの中からネコ(彼の船の乗組員はネコなのである)を助け出す。 このように本作の会話と映像は、微妙に乖離している。 このように独立しているように見える3つのレイヤーだが、それぞれにわずかな接点もある。 例えば、クランシーは仮想世界から仮想農家の世界へと必ず靴を持って帰ってくる。 いわばその世界の証のようなものだ。 またアニメ仮想世界で」インタビューの会話が進む時は、キャラクターが口パクをする。 これはその言葉がキャラクターの言葉として発せられているということだ。 さらにインタビューの言葉だけでなく、ストーリーを進行させるための会話もある。 例えば第4話「自らの終わりに惑わされ」は、女戦士トゥルーディが恋人を取り返すための戦いというストーリーがある。 瞑想グループの主催者で心理学者であるトゥルーディ・グッドマンのインタビューは、このストーリーの中の合間に展開される(インタビューの合間にストーリーが進行するといってもいい)。 本作では作品を構成する要素がみな独立してバラバラにも係わらず、それがわずかな一点で接点を持つことで、絶妙に調和している。 そしてバラバラであるからこそ、インタビューイたちが語るそれぞれの哲学にリアリティが生まれている。 日本のアニメは「アニメは絵である」ということを忘れてもらい、作品世界の存在を信じてもらう方向に進化してきた。 さらに、平行世界にいけば、現実をカリカチュアしたのではない、さらに奇妙な姿をしたキャラクターもたくさん登場する。 そしてインタビューの内容も、インタビューイの名前こそ画面に示されるが、本人たちの肩書やバックボーンからは切り離され、発言そのもの、言葉そのものだけが使われている。 インタビューイたちについて知識の少ない日本人からみると、さらにことの言葉だけが切り出されている感覚は強くなる。 カートゥーン・タッチのキャラクターが、瞑想や解脱を通じて人生哲学を解く。 その言葉は、キャラクターのバックボーンから生まれたものではないからそこにはギャップがある。 リアリスティックに描かれているキャラクターが、そのバックボーンに基づいて哲学を語る。 観客はそれを自然に受け入れても、驚きは感じない。 なぜならそのようにそのキャラクターとエピソードができているからだ。 だが本作の場合は、そのような納得の回路は整備されていない。 しかし、このような本作の中で最終回である第8話「銀のねずみ」だけは特別だ。 最終回のゲストは、デニーン・フェンディグ。 クランシー役のトラッセルの母親だ。 だから最終回だけはずっとクランシーはダンカンと呼ばれている。 インタビューは、フェンディグの語るラッセルの出産から始まり、子供時代の思い出を重ねていく。 「母と息子」の関係がベースにあるため、誰もがキャラクターのバックボーンを想像しやすく、キャラクターも母親が子供を抱きかかえる姿からスタートするので、言葉と映像のギャップが少ない。 母と息子は、人はいかに生きるべきかというテーマと瞑想について言葉を重ね、ついに台詞の中で、フェンディグがステージ4のガンを患っていることが明かされる。 自分がいかに死と向かい合っているかを語るフェンディグ。 実際にフェンディグはこの取材の3週間後にこの世を去ったという。 親子関係の中に現れる人間の誕生と死。 この誰もが他人事でないリアリティのある事象は、それまでの7話分とは異なったインパクトで迫ってくる。 そして、アニメーションの持つ力を正面から発揮し、人生の深淵と生命の大きさを描き出して、シリーズを締めくくるのである。 序盤だけで本作を理解したつもりにならないほうがいい。 アニメ!アニメ! 藤津亮太.

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ミッドナイトゴスペル〜狂気と薬物と宗教哲学に満ちた第一話考察〜|ゆるふわぴんくチャン|note

ミッドナイト ゴスペル

Netflixで全8話が配信中の 『ミッドナイト・ゴスペル』は、非常に特殊な作品だ。 主人公はクロマティック・リボンと呼ばれる世界に仮想世界農家として暮らすクランシー。 クランシーは、無数にある平行世界へとアバターを使ってダイブし、その世界で誰かのインタビューを行う。 この設定だけ聞くと、各話完結の冒険もののようにも聞こえるかもしれない。 しかし本作が特殊なのは、クランシーの行うインタビューが、実際に行われたものだ、というところだ。 本作の監督は『アドベンチャー・タイム』のペンデルトン・ウォード。 コメディアンのダンカン・トラッセルがポッドキャストで行っているインタビューに興味を持ったウォードが、そのインタビューから派生したアニメが本作なのだ。 インタビューに登場するのは、薬物依存症のスペシャリストからトラッセル本人の母まで幅広く、いずれの話題も死や心のあり方などスピリチュアルな方向に向かって深まっていく。 たとえば第1話「王の味」では、トラッセル演じるクランシーは、マッチョな体(ビーチ・ボディ)のアバターで、ゾンビだらけの滅びかけている世界に降臨する。 この大統領とクランシーの会話が、依存症のスペシャリストである医師、ドリュー・ピンスキーに対するトラッセルのインタビューで出来上がっているのである。 かくしてゾンビがホワイトハウスに迫る危機の中、2人はドラッグとその精神に与える影響について会話を交わしていく(とはいえ大統領の台詞にはゾンビに関係する内容もあり、単にインタビューそのままを使っているわけでもなさそうだ)。 この作品は3つのレイヤーで構成されている。 まず一番下に、ベースとなっているポッドキャストのインタビューがある。 次にクランシーが入り込む仮想世界がある。 そして最後に、クランシーが普段暮らしている仮想農家としての世界がある。 そしてこの3つのレイヤーは基本的にバラバラに存在している。 仮想世界を訪れたクランシーのアバターが傷ついたとしても、仮想農家の世界(現実)に戻ってくれば身体が傷ついていることはない。 第2話「士官とオオカミ」では、クランシーは角の生えた鹿イヌ(作家のアン・ラモット)にインタビューするが、クランシーのアバターと鹿イヌは工場で挽き肉状になっても会話を続け、さらにそこに新キャラクター(スピリチュアリストのラグー・マーカス)も加わってくる。 またインタビューの音声と仮想世界の内容も基本的に関係しない。 例えば第3話「家を持たない狩人」の舞台は、都市が水没した世界。 クランシーはそこで、頭の水槽に魚が入っている人物と会って魔術、禅などについてインタビューをする(実際のインタビューイは冤罪で刑務所に服役していたダミアン・エコールズ、ダミアン自身がオカルトに詳しい)。 だがその間に、そのキャラクターは、海底に沈んだ建物の中に入っていき、引き出しの中からネコ(彼の船の乗組員はネコなのである)を助け出す。 このように本作の会話と映像は、微妙に乖離している。 このように独立しているように見える3つのレイヤーだが、それぞれにわずかな接点もある。 例えば、クランシーは仮想世界から仮想農家の世界へと必ず靴を持って帰ってくる。 いわばその世界の証のようなものだ。 またアニメ仮想世界で」インタビューの会話が進む時は、キャラクターが口パクをする。 これはその言葉がキャラクターの言葉として発せられているということだ。 さらにインタビューの言葉だけでなく、ストーリーを進行させるための会話もある。 例えば第4話「自らの終わりに惑わされ」は、女戦士トゥルーディが恋人を取り返すための戦いというストーリーがある。 瞑想グループの主催者で心理学者であるトゥルーディ・グッドマンのインタビューは、このストーリーの中の合間に展開される(インタビューの合間にストーリーが進行するといってもいい)。 本作では作品を構成する要素がみな独立してバラバラにも係わらず、それがわずかな一点で接点を持つことで、絶妙に調和している。 そしてバラバラであるからこそ、インタビューイたちが語るそれぞれの哲学にリアリティが生まれている。 日本のアニメは「アニメは絵である」ということを忘れてもらい、作品世界の存在を信じてもらう方向に進化してきた。 さらに、平行世界にいけば、現実をカリカチュアしたのではない、さらに奇妙な姿をしたキャラクターもたくさん登場する。 そしてインタビューの内容も、インタビューイの名前こそ画面に示されるが、本人たちの肩書やバックボーンからは切り離され、発言そのもの、言葉そのものだけが使われている。 インタビューイたちについて知識の少ない日本人からみると、さらにことの言葉だけが切り出されている感覚は強くなる。 カートゥーン・タッチのキャラクターが、瞑想や解脱を通じて人生哲学を解く。 その言葉は、キャラクターのバックボーンから生まれたものではないからそこにはギャップがある。 リアリスティックに描かれているキャラクターが、そのバックボーンに基づいて哲学を語る。 観客はそれを自然に受け入れても、驚きは感じない。 なぜならそのようにそのキャラクターとエピソードができているからだ。 だが本作の場合は、そのような納得の回路は整備されていない。 しかし、このような本作の中で最終回である第8話「銀のねずみ」だけは特別だ。 最終回のゲストは、デニーン・フェンディグ。 クランシー役のトラッセルの母親だ。 だから最終回だけはずっとクランシーはダンカンと呼ばれている。 インタビューは、フェンディグの語るラッセルの出産から始まり、子供時代の思い出を重ねていく。 「母と息子」の関係がベースにあるため、誰もがキャラクターのバックボーンを想像しやすく、キャラクターも母親が子供を抱きかかえる姿からスタートするので、言葉と映像のギャップが少ない。 母と息子は、人はいかに生きるべきかというテーマと瞑想について言葉を重ね、ついに台詞の中で、フェンディグがステージ4のガンを患っていることが明かされる。 自分がいかに死と向かい合っているかを語るフェンディグ。 実際にフェンディグはこの取材の3週間後にこの世を去ったという。 親子関係の中に現れる人間の誕生と死。 この誰もが他人事でないリアリティのある事象は、それまでの7話分とは異なったインパクトで迫ってくる。 そして、アニメーションの持つ力を正面から発揮し、人生の深淵と生命の大きさを描き出して、シリーズを締めくくるのである。 序盤だけで本作を理解したつもりにならないほうがいい。

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