祇園祭 疫病。 社説:相次ぐ祭り中止 疫病退散へ雌伏の時だ|社会|社説|京都新聞

祇園祭2020年:神輿と神輿渡御の解説

祇園祭 疫病

陰陽師のかかわり 天皇に近い役所、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮には陰陽師が配置されていました。 業務内容は天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づき予言するなど。 遷都の際にも、土地・方角などの吉凶を占うことで重要な役割を果たしました。 三方を山に囲まれ、夏は蒸し暑く、冬は冷え込む、寒暖差の大きい内陸性気候の土地です。 その後、平安京は急速に人口が増加しますが、上下水道が未発達で、汚水と飲料水が混ざるなど衛生状態が悪く、天然痘、インフルエンザ、赤痢、麻疹、コレラなどの感染症が幾度となく大流行。 今でこそ、衛生状態の悪さと高温多湿が原因で感染症が流行する事に頷けますが、当時は、この世に怨みを残して非業の死を遂げた霊魂が怨霊となり、疫病や災いを起こすものと信じられていました。 桓武天皇が恐れつづけたのは早良親王の怨霊で、延暦19年(800年)には崇道天皇と追号し祀りましたが、その後も祟りはおさまりませんでした。 ・御霊会のはじまり おさまらない祟りを鎮めるべく、貞観5年(863年)に朝廷によって怨霊を鎮魂するための御霊会(ごりょうえ)が、平安京の禁苑(天皇のための庭)「神泉苑」で初めて行われました。 しかし、翌年の貞観6年(864年)富士山が大噴火。 貞観11年(869年)には貞観地震(陸奥)と津波で多数の死傷者が出るなど、全国的に天変地異が続き、五穀も実らず、社会不安は深刻化する一方でした。 半数は桓武天皇の親族。 政治の闇を感じます。 ・祇園御霊会(祇園祭) 社会全体の空気として、怨霊の怒りを鎮めることが出来る、強い神仏が求められていたのでしょう。 そこに登場したのが、疫病にご利益のある牛頭天王(ごずてんのう)です。 貞観11年(869年)の御霊会では、卜部日良麿(うらべ の ひらまろ)が、当時の国の数を表す66本の矛(ほこ)を立て、「牛頭天王を祀る祇園社」から神輿3基を神泉苑に送り御霊会を執り行ないました。 結果、怨霊の祟りを治めることに成功、祇園社は朝廷・民間から尊崇されるようになります。 そのため、この御霊会が「祇園御霊会(祇園祭)」の起源と考えられています。 時代は下り、天禄元年(970年)には初めて祇園社に於いて御霊会が行われ、これまでは疫病流行時のみだった開催が毎年定例開催となりました。 疫病にご利益のある牛頭天王。 明治時代までは「祇園社」または「感神院」と呼ばれた神仏習合の寺社で、「牛頭天王(=スサノオノミコト)」を祀り、疫病鎮圧・病気平癒の神として朝廷や民衆から尊崇されていました。 「八坂神社」となったのは明治時代。 明治新政府の神仏分離令によって、御祭神の牛頭天王の名は仏教の神であるため外され、神道の神 スサノオノミコトの名前だけ残されました。 同時に「祇園社」の名称も「八坂神社」と改名されました。 【祇園社の神仏習合エピソード】• 比叡山延暦寺の末寺とされ、延暦寺の洛中の拠点でもありました。 比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることも多かったそうです。 風水の東方・青龍の位置に鎮座し、王城鎮護の神としても尊崇されました。 本殿の下には青龍の穴があり、青々とした水を湛えた穴は都の中心・堀川御池の神泉苑に通じていたと伝わります。 平安京は、陰陽道による四神相応の風水に適した地として選ばれました。 四神というのは、都の四隅・東西南北を守る神獣、青龍・白虎・朱雀・玄武の事です。 牛頭天王は、恐ろしく力強い仏や神が集約された日本独自の神様なのです。 きちんとお祀りして味方になってもらえば、強力なご加護がいただける神様として尊崇されました。 牛頭天王 インドで釈迦が説法を行った「祇園精舎」の守護神、中国では道教の神、朝鮮半島では熱病に効果のある栴檀(せんだん)を産出した「牛頭山」の神とも伝わります。 また、牛頭天王は祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれ、この地一帯が祇園と呼ばれるようになった由来とされています。 日本書紀には、スサノオノミコトは朝鮮半島の新羅国「ソシモリ」の地に降臨したという記述があります。 「ソシモリ」とは韓国語で「牛頭」を意味するため、牛頭山の神である牛頭天王が「牛頭」の地に降りたスサノオノミコトと同一視されたと伝わります。 ・厄除け粽(ちまき)の伝説 祇園祭と言えば、祇園祭の時期だけ販売される「厄除け粽」も有名。 厄除け粽は、笹の葉でくるんだ藁の束を裂いたイグサを巻いたもので「 蘇民将来子孫也(私は蘇民将来の子孫)」と書かれた護符が付いているのが特徴です。 京都の町を歩くと家の玄関先に飾られているのをよく見かけます。 厄除け・疫病除けのご利益があると言われる「粽」も「牛頭天王(=スサノオノミコト)」に由来しているのです。 裕福な弟、巨旦将来(こたんしょうらい)には、あっさり断わられましたが、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しいながらも手厚くもてなしてくれました。 そんな蘇民の心遣いに感激した牛頭天王は、「お礼に、お前の子孫を末代まで私が守ってあげよう。 その言葉を守った蘇民将来の子孫たちは末代まで繁栄し、巨旦将来は没落したということです。 「茅巻(ちまき)」も由来は同じで、後に同じ読み方の「粽(ちまき)」へと変化しました。 牛頭天王は、もともと疫病神ではありますが、蘇民将来の伝説から、ますます信仰が広がったのかもしれないですね。 神輿の渡御(神幸祭)に先立ち、露払いとして都大路を祓い清める役目を担った華麗な山鉾が巡行されるなど、町衆が参加し楽しむ祭りとして発展しました。 「年中行事絵巻」に、神輿の渡御を中心として、山車や芸能・獅子舞も一緒に巡行し人で賑わう様子が描かれています。 神輿の渡御を盛り立てるべく華麗な山や鉾が登場し、町衆が主体的に行動し楽しむ風流で賑やかな祭となっていきました。 応仁の乱以前は山鉾は58基を数えました。 しかし、応仁の乱で30年以上中断。 戦乱後、神輿の復興が間に合わず比叡山側からは神事の中止を直訴されますが、町衆は山鉾巡行だけでも開催したいと声明を出すなど、山鉾行事は町衆が主体の祭になっていたようです。 「祇園社記録」よると、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、材木座練絹座・小袖座・綿座・袴座・菓子座・釜座の七座が祇園社に所属。 年貢を納め、祭礼に奉仕することで生産、営業活動の権利が与えられました。 そのため、祇園社に公認を受けた感謝のあかしに山鉾を建造し、祇園祭を盛り立てたとも考えられています。 1708年(宝永5年)宝永の大火 山鉾も素朴な形式であったために早く復興。 1788年(天明8年)天明の大火 被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。 1864年(元治元年)禁門の変、どんどん焼け 山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山。 菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は長期間断絶した。 明治10年(1877年)太陽暦の採用により祭日が7月17日と24日に改定。 明治19年、20年、28年 (1886、1887、1895年)にコレラが流行。 その影響で祇園祭は延期。 第二次世界大戦で4年間の中断。 昭和28年(1953年)菊水鉾が90年ぶりに復興。 1980年代には中絶していた「休み山」(焼山)が次々復興。 昭和41年~平成25年 (1966年~2013年)前祭・後祭を統合した合同巡行。 平成26年(2014年)後祭が再開。 平成21年(2009年)には「京都祇園祭山鉾行事」がユネスコ無形文化遺産に登録され、1000年を超える祇園御霊会の伝統、古式を保つ努力が続けられています。 その中のクライマックスと言えば、山鉾巡行を思い描く人が多いと思います。 しかし、本来の意味から言うと、祇園祭の一番重要な神事は「神幸祭」なのです。 八坂神社から御祭神をお遷しした3基の神輿が、洛中を巡行しながら四条寺町の御旅所へ渡御、還幸祭で再び洛中を巡り八坂神社に戻ります。 豪快で荒々しいスタイルが特徴で、3基の神輿を総勢1000人以上の男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う光景は迫力いっぱいです! ・ 還幸祭は24日夕刻から 四条御旅所に滞在していた神様が八坂神社に還る神事です。 3基の神輿は16時頃から出発、それぞれのコースを巡行し、神泉苑の南にある三条又旅社で神饌を供える「奉饌祭(ほうせんさい)」をとり行った後、八坂神社へ戻ります。 そして、24時頃から境内で厳かに「御神霊遷し(みたまうつし)」が行われ、神輿にのせられた御祭神を本殿にお遷しします。 【5】祇園祭 楽しみ方 祇園社の神輿の渡御から始まった祇園御霊会(祇園祭)。 幾多の困難を乗り越えて、1100年以上続く華麗なお祭りです。 厄除け粽をはじめとして、手ぬぐいや、この時期しか買えない山鉾町グッズなど、お土産探しにもおすすめ。 祇園祭は多くの行事が目白押しで、すべてを見ることは不可能だと思われます。 興味あるポイントから攻める、スケジュールから決める、などなど、自分にあった方法でお楽しみください! 前祭(さきまつり):7月14日~16日 後祭(あとまつり):7月21日~23日 祇園囃子が流れる町の日が暮れて、駒形提灯が灯る山や鉾を鑑賞できる宵山。 町会所には山鉾の御神体(人形)や懸装品(織物など)が展示されます。 同時に、山鉾町の旧家では、表の格子をはずし秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を開放する「屏風飾り(屏風祭)」も行われます。 夏祭りの風情あふれる宵山。 夕涼みといきたいところですが、京都は無理です。 蒸し暑いし、人も多いし、覚悟してお出かけください。 ちなみに、宵々々山が比較的空いています。 【 祇園祭の屋台・露店】 毎年7月15日・16日の宵山(前祭)に立ち並びます。 営業時間は、昼頃から夜遅くまでのお店が多いです。 出店場所は下記の場所あたりになります。 定番の厄除け(長刀鉾、月鉾、船鉾、函谷鉾、他)をはじめとして、縁結び・夫婦円満・商売繁盛・不老長寿など、山鉾由来のご利益にあわせた粽もあります。 沢山の種類があるので、きっと今の自分に合った粽が見つかるのではないでしょうか。 また、売り切れ終了となりますので、事前にリサーチして早めに買い求めるのが確実です。 粽が買える期間• 前祭:7月14日~16日。 13日から販売の山鉾も有り。 後祭:7月21日~23日。 粽の飾り方と返納方法• 厄除けの目印なので、玄関先など目につきやすい場所に飾ります。 粽は1年間飾ったら翌年返納します。 各山鉾の返納箱、八坂神社、近くの神社にお返ししてもOKです。 祇園祭限定の御朱印帳も販売されるので、お気に入りを見つけて、山鉾めぐりのお供にするのも記念になる楽しみかたの一つですね。 前祭(さきまつり):7月17日 9:00~ 後祭(あとまつり):7月24日 9:30~ 華麗な山鉾が京都の町を巡行します。 前祭は四条烏丸から、後祭は烏丸御池から出発。 山や鉾は「動く美術館」とも呼ばれ、懸装品と呼ばれる装飾品で飾りつけられた豪華絢爛な美しさも見所です。 鉾の重量は、人や懸装品を含めて10トンを超える物もあり、人力で方向転換する辻回しは、巡行の最大の見どころの一つ。 ただ、辻回しのある交差点は人気スポットなので、よほど早い時間に行って場所を確保しないと、たどり着けません。 辻回しにこだわらなければ、割と近くで見ることが出来たりしますが、絶対しっかり見たい方は、有料観覧席をゲットしてください。 ・その他 祇園祭は1カ月間わたり、様々な行事が行われます。 行事のスケジュールは、祗園祭山鉾連合会のサイトでご確認ください。 宵山、山鉾巡行が週末と重なると、さらに混みます!というか混みすぎます。 最寄りバス停「祇園」下車すぐ• 京阪電車「祇園四条駅」6、7出口から東へ徒歩約5分•

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疫病退散のお祭りも中止に・・・祇園信仰と牛頭天王の話題

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日本三大祭りの一つで、疫病退散の祭りとして知られる八坂神社(京都市東山区)の「祇園祭」が、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大きな変容を余儀なくされている。 祭りのハイライトとなる山鉾(やまほこ)巡行と神輿渡御(みこしとぎょ)は中止、予定されていた神事は、感染防止対策仕様に形を変えて粛々と執り行う。 「今年は歴史に残る1年になる」と関係者。 祈りを続けてきた祭りの形をどう表すのか、知恵の絞りどころだ。 (田中幸美) 神賑わいは人賑わい 「(理事長に)就任してはじめての祭りをこのような形で迎えなくてはならないとは残念で仕方ない」 4月20日に八坂神社で開かれた記者会見で、山鉾巡行中止を発表した祇園祭山鉾連合会の木村幾次郎理事長(71)は無念の表情を浮かべた。 木村さんは昨年11月に理事長に就任したばかりだ。 山鉾巡行は、疫病をもたらす疫神をお囃子(はやし)や踊りなどで引き付けて山鉾に集める「神賑(にぎ)わい」の一面がある。 ただ、このにぎわいは神だけでなく人(観光客)も引き付けてしまう。 多くの人が集まる状況を避けるための巡行中止だった。 祇園祭と疫病の歴史は古く、明治12(1879)年~28(1895)年には計4回、コレラの流行により祭りの前倒しや延期をした過去がある。

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祇園祭、天神祭、神田祭の違いとは?日本三大祭の特徴を解説

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祇園祭歴史 祇園祭歴史を簡単に紹介しています。 祇園祭とは869年(貞観11年)に京都をはじめ全国に疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の祟りであるとしたのが起源です。 祇園祭歴史は平安時代前期に始まり、千年以上の歴史があります。 ただ室町時代に延暦寺や日吉大社の影響により、中止になったり、延期になったりした歴史もあります。 【祇園祭 日程】 祇園祭は7月1日の吉符入(きっぷいり) から31日の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの1ヶ月に渡って行われます。 ただ疫病は続いたことからその後も御霊会が度々行われ、八坂神社の主祭神でもある牛頭天王(ごずてんのう)=素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、無病息災を祈願しました。 ちなみに神泉苑の南端に八坂神社御供社が祀られています。 ちなみに神泉苑の東南端には現在八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ・又旅所(またたびしゃ))が造営され、7月24日の還幸祭(かんこうさい)では3基の神輿(中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿)が立ち寄り、八坂神社に戻ります。 なお中御座神輿(なかござみこし)には素戔嗚尊(すさのおのみこと)・東御座神輿(ひがしござみこし)には素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)・西御座神輿(にしござみこし)には素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神霊が移されています。 974年(天延2年)に東洞院高辻に住む秦助正(はたのすけまさ)が「汝の家を影向の地とせん 速やかに朝廷に奏上せよ」との八坂大神からの神託を夢の中で受け、円融天皇も同じ夢を見ていたことから秦助正の自宅が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)になり、神殿が造営されたとも言われています。 またその後官祭になったとも言われています。 ちなみに大政所御旅所は大政所神輿(素戔嗚尊)・八王子神輿(八柱御子神)を奉安しました。 999年(長保元年)に雑芸者・無骨(むこつ)が天皇の即位の礼の直後に行う新嘗祭・大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を造り、祇園祭に参加したの山鉾・山鉾巡行が起源とも言われています。 1069年(延久元年)に田楽50組が参加し、田楽・猿楽なども行われるようになったと言われています。 1136年(保延2年)に少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)が造営されたと言われています。 ちなみに少将井御旅所は少将井神輿(櫛稲田姫命)を奉安しました。 室町時代などの一時期に比叡山延暦寺の影響力により、八坂神社は延暦寺の守護神・日吉大社(ひえたいしゃ・ひよしたいしゃ)の末社にされ、日吉神社の祭礼・日吉祭(山王祭・さんのうさい)が行われない場合には中止させられたり、延期させられたりしたと言われています。 ・ 1467年(応仁元年)からの応仁の乱(~1477年(文明9年))によって一時途絶えました。 1500年(明応9年)に町衆の手によって再興されました。 1708年(宝永5年)の宝永の大火・1788年(天明8年)の天明の大火・1864年(元治元年)の禁門の変(元治の大火)が発生し、多くの山鉾が焼失したと言われています。 1967年(昭和41年)に7月17日の山鉾巡行(前祭)と7月24日の山鉾巡行(後祭)が統合され、7月17日の合同巡行になりました。 2009年(平成21年)にユネスコの無形文化遺産に登録されました。 2014年(平成26年)に山鉾巡行(後祭)が復活しました。 【粟田祭・粟田神社】・祇園祭歴史 粟田祭(あわたまつり)は粟田神社(あわたじんじゃ)の祭礼で、室町時代に祇園祭が行われなかった際、粟田祭が代わりに行われたとも言われています。 ちなみに粟田祭は1001年(長保3年)の旧暦9月9日の夜、一人の神童が八坂神社に現れ、「今日より7日後に八坂神社の東北の地に瑞祥が現れる。 そこに神幸すべし」と神人に告げ、お告げの通りに瑞光が現れ、御神幸が為されたのが起源とされています。 なお現在粟田祭は毎年10月に行われています。 粟田神社は古代の豪族・粟田氏が氏神として祀ったのが起源と言われています。 また粟田神社は876年(貞観18年)清和天皇が兵火や疫病への勅願を発し、勅使・藤原興世が八坂神社で祈願した際、大己貴命(おおなむちのみこと)の神託により、八坂神社の祭神・素戔鳴尊(牛頭天王)に縁がある現在の場所に造営されたとも言われています。 当サイトの情報はあくまで参考情報です。 イベントの内容などが変更になっている場合もあります。

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