コロンブス。 コロンブスの新大陸発見

クリストファー・コロンブス

コロンブス

STORE INFO• コロンブス• 〒648-0094 和歌山県橋本市三石台1-1-1• 営業時間• 9:00~21:00(L. 20:30) 土・日・祝は朝、7:30~OPEN• 定休日• 不定休• 電話番号• 0736-37-5945• アクセス• 最寄駅• 高野線 林間田園都市駅• 駐車場• 平均予算• ~999円 昼 1,000円 ~1,999円 夜• 座席数• 35 席• 個室なし• クレジットカード利用• 利用不可• 禁煙・喫煙• 全面喫煙可.

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コロンブスってどんな人

コロンブス

ジェノヴァ時代 [ ] 生誕 [ ] コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であった が、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。 通説(ジェノヴァ説)では、職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。 弟は1 - 2歳下にと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである。 父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、やの売買も行っていた。 ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント 海とのかかわり [ ] コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。 最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはから対立するの・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってに向かったという説もある。 1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ 、ローナ号で のへ行って()取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。 1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をやへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。 しかし8月13日 、この船団がの旗を掲げていたため、の沖で当時敵対していた艦船から攻撃を受け、船は沈没した。 コロンブスはにつかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴスまでたどり着いた。 なお、コロンブスが乗船していたのはフランスと連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある。 ポルトガル時代 [ ] リスボンでのコロンブス [ ] 彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてへ移った。 この時期は1477年春以降と考えられる。 そこには、製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。 1477年2月には、イギリスのを経ての、そしてまで向かった。 アイスランドには、かつてがに植民地を築いたという「伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない。 1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ )・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ )とした。 ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという。 しかし、フェリパの父はにあるの世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば階級の女性であった。 この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている。 西廻り航海の着想 [ ] 結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男に恵まれた。 1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャが を南下し、を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりとまで行った と考えられている。 ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや 、所蔵していた著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる 点がその根拠とされる。 また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。 それは、に漂着した白人漂流者がいたというものである。 この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。 『インディアス自然一般史 Historia General y Natural de las Indias 』を著したフェルナンデス・オヴェイドも1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。 コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。 このころ、コロンブスは積極的にやなどのや・、そして航海術の習得に努めた。 仕事の拠点であるリスボンでと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。 当時はすでには一般に信じられていたが、トスカネッリはの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はの試算よりもずっと短いと主張していた。 『東方見聞録』にあるの国・に惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。 また、現存する最古の地球儀を作ったとも交流を持ち意見を交換した説もある。 これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。 ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、• 地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。 地球の未知の部分はアジア東端から以西だけになった。 マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。 したがって未知の領域はさらに狭くなる。 6マイルと計算した。 したがって未知の領域は56. しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。 この考えの根底にはの地理観を引き継いだ中世の観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。 地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島からまでを実際の10,600に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。 王室への提案 [ ] 1484年末 、コロンブスはポルトガル王に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に 、ジョアン2世は興味をそそられた。 王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。 コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はがとの接触に成功し に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した。 再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず 、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく 、借金さえ抱えていた。 このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。 スペイン時代 [ ] コロンブスはリスボンから海路、スペインのに着き、そこからのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた。 5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもある のアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。 さらにコロンブスは ()の第2代・ () 、そして初代 ()(5代 () )ドン・ () と面会する機会を得た。 メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000相当の物資を準備することに合意した。 コロンブスが作成したと言われる地図。 これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている。 カトリック両王への売り込み [ ] コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えのへ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた。 1486年5月1日 、メディナセリ公が紹介してコロンブスはでイサベル1世とその夫()に謁見した。 コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。 計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。 1486年だけで二度 委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。 コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持ったや学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘 ()と 恋愛関係となり、1488年8月15日に ()が生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。 しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。 コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人であるのディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた。 コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、の発見もあって話がまとまることはなかった。 また、弟バルトロメをのやのの元に差し向け、計画の宣伝をさせた。 いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉の歓待を得て、バルトロメはの宮殿に数年間滞在した。 しかしこれらの行動も実を結ばなかった。 一方のスペイン王室は、1489年5月12日付でコロンブスが王室に謁見するときに必要な宿泊費を無料にする通達を出す など、不完全ではあるが金銭的援助を行い 、決して彼を邪険にしていたわけではなかった。 しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。 話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。 このわずか2週間後、コロンブスのもとに王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。 提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。 イザベル1世とコロンブス(カリフォルニア州議事堂) しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。 ここに ()が登場する。 であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。 1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったしたことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。 もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。 このとき、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。 女王の伝令は彼を追いかけ、15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。 この橋には、劇的ともいえる出来事を解説する銅版がある。 サンタ・フェ契約 [ ] 1492年4月17日、郊外のにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。 その内容は、• コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。 コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)および総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。 各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。 提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。 コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。 というものだった。 航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。 彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万を、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した。 これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった。 コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。 航海 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 に基づく疑問が提出されています。 ( 2017年12月)• に疑問が呈されています。 ( 2017年12月) 船出 [ ] 1492年、を(インディア)を目指して港を出航した。 このときの編成はのと、のの3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。 いったんへ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。 大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。 当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。 コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。 には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。 その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。 「新大陸」上陸 [ ] コロンブスの航路 そしての日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。 翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してと名づける。 最初に上陸した島でコロンブス一行は、たちから歓待を受ける。 アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。 コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。 しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。 彼はこう書き残している。 「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」 「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。 私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄をまったく持っていない。 彼らの槍は草の茎で作られている。 彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。 彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。 50人の男達とともに、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた」 「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。 逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。 彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。 彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。 我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した」 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在の島を発見した。 ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはと名づけた島に到達。 24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。 しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。 この入植地には39名の男性が残った。 年が明け、にピンタ号と再び合流する。 、スペインへの帰還を命じ、にパロス港へ帰還した。 帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。 コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。 この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。 また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。 国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。 「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。 このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」 1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。 折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。 インディアンへの大虐殺 [ ] 1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。 11月にと名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。 コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。 しかし白人入植者の間ではでの生活に不満の声が上がり、周辺諸島では、、、などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。 これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。 行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。 まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。 コロンブスがでしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、、、、、を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。 インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。 最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。 コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。 コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。 やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。 1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。 再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。 コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。 コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。 しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。 晩年 [ ] インディアンの殺戮に"大勝利"したあと、コロンブスは予定通り、捕らえたインディアンをとして本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。 驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。 コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。 金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。 金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。 コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。 インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。 コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。 そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。 5月、6隻の船で3度目の航海に出る。 今度は南よりの航路をとり、現在ののの河口に上陸した。 その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。 しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。 その後、北上してに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。 コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。 罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。 それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。 に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、11月にスペインへ戻った。 しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。 帰国後は病気になり、のにて死去。 その遺骨はの修道院に納められたがにの大聖堂に移された。 コロンブスの死後、ドイツの地理学者が手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、の名前が記されてしまった。 この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「」も用いられる)。 航海などの関係略年表 [ ]• 第1回航海出発( - 1493年3月15日)• バハマ諸島グァナハニ島に到達• キューバ島着• イスパニョーラ島着• 第2回航海出発( - 1496年6月11日)• によりスペインとポルトガルの境界線画定• 8月 市の建設• 第3回航海出発( - 1500年10月)• 第4回航海出発( - 1504年11月7日)• スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置• 、イスパニョーラ島で公認• イスパニョーラ島に黒人奴隷導入 評価 [ ] この記事にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2015年1月) 一般的にコロンブスの「功績」はアメリカ大陸を「発見したこと」と語られることが多いが、アメリカ大陸にはこれ以前からやなどのモンゴロイド系先住民族が1万年以上前から居住し独自の文明を築いていたことを考えると、「発見」という言葉自体がヨーロッパ中心で世界を見る視点に立脚した発言と言わざるをえない。 従って、中立的な視点では「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ「航海路を発見した」というのが、その真の功績であると言える。 コロンブスのアメリカ大陸到着以前はユーラシア大陸と南北アメリカ大陸の住人や国家、文明の間には相互の文化や経済、政治などに影響を与え合うほどの交流がほとんどなかったことから、「 を促進した」とする評価もできる。 そしてその評価の中には、聖書に地球が球体であると描写された記述があり、コロンブスの行動によりそれが正確であると立証されたこともあげられる。 なおコロンブス自身はアメリカ大陸を最後までアジアだと誤認しており、「新大陸」と気づくことはなかった。 その事を考えれば、1492年にコロンブスが「新大陸を発見した」ようにいわれることもおかしいともいえる。 歴史家の ()は、「ヨーロッパ白人は処女地に植民したのではない。 彼らは先住民族を侵略して、入れ替わったのだ」と述べ 、インディアン活動家のマイク・アンダーソンは「コロンブスの上陸の前に、そこには文化があった。 そして人々がいた。 そしてそこには政府があった」としている。 またはこの「遭遇」という言葉に対して、「探検への衝動は、世界の文明の中で決して均一に割り当てられたものではなかった」として、コロンブスがアメリカに到達し、インディアンがヨーロッパに到達しなかったことは、インディアンと白人が「同一水準で文明的な接触をする」という条件面での違いを隠すものだとしている。 しかし、ヨーロッパ白人もアメリカ大陸のインディアンも、双方が互いを知らなかった状況において、ヨーロッパ白人がアメリカ大陸に来訪したのを「アメリカ大陸を発見」と呼んでも、必ずしも不公平ではないという意見も白人の中にはある。 しかしながら、 ()と ()の夫妻が、のでコロンブスが北米に上陸する以前の年代にが持ち込んだとされる鉄釘を発見した。 これによりコロンブスが「西洋人として初めて」「新大陸を発見した」という説は覆った。 現在ではヴァイキングがアメリカ大陸に到達し、その地をと呼んでいた事実は定説となっている。 また、古代もおそらく南米に到達し、以前にのような南米の作物を旧世界に持ち込んでいた。 後世のコロンブスの発見に比べれば交流は限定的であるが、少なくともアメリカ大陸以外の住人がアメリカ大陸に来訪したのは、コロンブスが最初ではないのは事実である。 さらに言えば、と呼ばれる北極圏のグループの分布は、やを越えてユーラシア大陸・アメリカ大陸にまたがっており、アメリカ大陸が他とは隔絶した地域だという認識そのものが疑問視される。 否定的評価 [ ] 1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。 さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。 量的にもスケール的にも、コロンブスはやに並ぶ、虐殺目的で戦争を楽しんだもっとも悪名高い、征服者の一人と言えるだろう。 コロンブスのインディアンを見下した傲慢さや残虐さについては、に基づく歴史家たちは、これを典型的な西側の白人男性の、原住民に対する人種差別的偏見としている。 ()は、コロンブスはインディアンに対して、不合理な敵意に根ざした独特な「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現していると告発している。 ()は、「偏見を起因として他の種に対して交戦が見られるということは、ヨーロッパ文化としては空想的なことではない」としている。 またはコロンブスについて「政治的、経済的、文化的なという、西洋史のなかでも最大の実験を開始したのがコロンブスである」と述べている。 の記念祝日である10月12日、「」は、にとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。 1911年、インディアン運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。 オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、「 インディアンが白人のアメリカを発見した日! 」とのスローガンを掲げ抗議した。 現在も反「コロンブス・デー」運動は「(AIM)」などに引き継がれ、毎年この日になると全米各地で抗議行進やデモが行われており、この際多数のインディアンが逮捕されている。 インディアン団体「AIM」のコロラド支局はその公式サイトで、「Transform Columbus Day! (コロンブス・デーを変えろ! )」として、この記念祭の廃絶を求め、以下のように主張している。 コロンブスは何百万人もの先住民殺戮の責任者である。 コロンブスはアメリカを侵略する前は、アフリカの奴隷商人だった。 彼はアメリカ大陸でも奴隷売買を始めた。 彼はいかなる記念や顕彰の対象にも値しない。 休日にも、パレードにも、彫像にも。 コロンブスの日は、「発見」の意義を祝うものである。 今日も続く、先住民族の領土を盗むための法的な過程としての意義をだ。 コロンブスはアメリカ大陸に、今日も持続されている優位性として、自然環境における優位、異なる信仰・信念に対する優位、男性の女性に対する優位といった、他民族(白人)の優位の哲学を持ち込んだ。 AIMスポークスマンであるのらインディアン運動家は団体と連携し、コロラド州デンバーの「コロンブス・デー」に毎年、同州にあるコロンブスの銅像にバケツで真っ赤な絵の具を浴びせている。 インディアンによるこの「血の洗礼」は、州警察による逮捕者を出しながらも毎年行われている。 1992年の「コロンブス500年祭」に合わせ、ラッセル・ミーンズは「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。 コロンブスの前では、はまるでただの不良少年だ」、AIMコロラド支局代表のインディアン、グレン・モリスは、コロンブスを「殺人者であり、強姦者であり、今日も続く思想の大立者である」、は「生物学的、技術的、生態学的な侵入は、500年前のコロンブスの不幸な航海から始まった」とコメントしている。 作家で「 ()」の創設者でもあるは「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか?たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」と発言している。 が拡大すると、各地のコロンブス像も先住民の虐殺者の像として襲撃の対象となった。 市内の公園にあったコロンブス像は、同年6月9日にデモ参加者により引き倒された後、公園の池に投げ込まれた。 また、市内の公園に設置されていたコロンブス像も、何者かの手により頭部が破壊された。 磁気偏角の発見者? [ ] 上記のような歴史的・文化的業績への評価とは別に、コロンブスにはの発見者という功績を帰せられることがあった。 現存する第1回航海の記録である、息子エルナンデスの『コロンブス提督伝』との『コロンブス航海誌』双方の1492年9月13日の項に、「夜は北西を指していた羅針が、朝には北東を指していた」という記述がある。 これを受けて、J・C・ポッゲンドルフ『物理学史』(1879)やパーク・ベンジャミン『The Intellectual Rise in Electricity』(1895)のように、コロンブスを偏角の変化ないし偏角そのものの発見者として記載する資料がある。 しかしこうした傾向に対する反論は、A・クリフトン・ミッチェルらによって1930年代からなされてきた。 ミッチェルは『コロンブス提督伝』第2回航海の記述において、コロンブスがヨーロッパの偏角を想定して造られた羅針盤を携行していることに注目し、コロンブスが第1回航海で初めて偏角を発見したのだとしたら羅針盤の発達がありえないほど迅速であると指摘している。 つまり、1492年の以前からヨーロッパの航海士や羅針盤製作者には偏角の存在が知られていたと解するのが自然である。 とはいえ、コロンブスの航海記録が現存する西洋での最古の定量的な磁気偏角測定であることには変わりない。 出自に関する諸説 [ ] コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。 また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。 の日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。 ユダヤ人? [ ] 多く語られているものとしては、コロンブスはの片親から生まれたのではないかとする奇説である。 1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。 このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。 また、のではないかとする説も存在する。 しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。 ポーランドの王子? [ ] 詳細は「」を参照 新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。 造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。 「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。 これが『(Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている。 しかし、は『習俗論』(第145章)にて「これはの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した。 逸話の内容は、『ののクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。 ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。 誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。 当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。 もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。 その他 [ ]• クリス トーフォロ・コ ロンボ• クリス トポルス・コ ルンブス• クリス トバル・コ ロン• クリス トヴァン・コ ロンボ• クリスタファ・カ ランバス• これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。 航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事()、で敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い(、)という点が指摘されている。 しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している()。 では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。 でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。 、ただしでは西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。 では1483年末。 ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。 この行動について、は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。 同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。 によると「4月または5月」• (第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年ににて)に準拠する。 は1486年秋と1487年春と表記。 は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。 委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。 では「コロンブスに好意的」と言う。 ところがでは、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスをにかけるよう主張したとある。 の内容に準ずる。 ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。 では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。 出典 [ ]• JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME. 2010年3月15日閲覧。 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)• 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)• 『』(、1995年11月号)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)• 産経新聞 2020年6月10日. 2020年6月10日閲覧。 AFP 2020年6月11日. 2020年6月10日閲覧。 山本義隆『磁力と重力の発見』第2巻「ルネサンス」第11章3節 pp. 388 - 394• Dukechronicle. com, Duke Student Publishing Company 2009年10月12日. 2014年1月7日閲覧。 天才パズル作家は別に9つの点を4本の線でつなぐパズルなど2つを「コロンブスの卵」と名づけている。 脚注2 [ ] 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。 アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀• ポルトガル王室付き歴史家(1496年 - 1570年)『アジア』• ラス・カサス『インディアス史』 参考文献 [ ]• 『コロンブスは何を「発見」したか』〈〉、1992年5月。 『』1、・訳、〈 21〉、1994年7月5日。 ラス・カサス『』2、長南実・増田義郎訳、岩波書店〈大航海時代叢書 22〉、1994年8月4日。 ラス・カサス『』3、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 23〉、1994年9月5日。 ラス・カサス『』4、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 24〉、1994年10月5日。 ラス・カサス『』5、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 25〉、1994年11月7日。 ラス・カサス『』全7巻、編、長南実訳、岩波書店〈〉、2009年3月17日。 - コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。 コロンブス『』訳、岩波書店〈岩波文庫 青428-1〉、1977年9月16日。 林屋永吉「訳者解説」、『』 岩波文庫、1977年、pp. 273-297。 林屋永吉「訳註」、『』 岩波文庫、1977年、pp. 253-272。 コロンブス『』林屋永吉訳、岩波書店〈岩波文庫 青428-2〉、2011年2月16日。 『』岩波書店〈〉、1979年8月20日。 『』監修、・訳、〈 21〉、1992年10月14日、192頁。 ロデリック・ナッシュ『人物アメリカ史』 上 、訳、〈〉、1989年4月。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - コロンブスの名に由来して命名された国• - コロンビア北部の山• - 「コロンブス」の英語読みで、コロンブスの名に由来する地名など• - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧• - コロンブス以前にへ達していた• - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる• - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分• - 新大陸発見により新旧相互の世界にもたらされた動植物・疫病・物品等• - コロンブスの航海に同行• コロンブスの名を付したの軍艦• - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。 - コロンブスを描いた1949年のイギリス映画。 - コロンブスを描いた1992年のフランス・スペイン・イギリス合作映画。 - コロンブスを描いた1992年のスペイン・イギリス・アメリカ合作映画。 外部リンク [ ]• - (2002年10月8日アーカイブ分)• 江戸時代のコロンブス伝(日本漢文の世界).

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コロンブスの銅像を撤去せよ!~新大陸 “発見”と大虐殺

コロンブス

ジェノヴァ時代 [ ] 生誕 [ ] コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であった が、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。 通説(ジェノヴァ説)では、職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。 弟は1 - 2歳下にと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである。 父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、やの売買も行っていた。 ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント 海とのかかわり [ ] コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。 最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはから対立するの・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってに向かったという説もある。 1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ 、ローナ号で のへ行って()取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。 1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をやへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。 しかし8月13日 、この船団がの旗を掲げていたため、の沖で当時敵対していた艦船から攻撃を受け、船は沈没した。 コロンブスはにつかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴスまでたどり着いた。 なお、コロンブスが乗船していたのはフランスと連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある。 ポルトガル時代 [ ] リスボンでのコロンブス [ ] 彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてへ移った。 この時期は1477年春以降と考えられる。 そこには、製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。 1477年2月には、イギリスのを経ての、そしてまで向かった。 アイスランドには、かつてがに植民地を築いたという「伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない。 1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ )・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ )とした。 ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという。 しかし、フェリパの父はにあるの世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば階級の女性であった。 この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている。 西廻り航海の着想 [ ] 結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男に恵まれた。 1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャが を南下し、を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりとまで行った と考えられている。 ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや 、所蔵していた著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる 点がその根拠とされる。 また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。 それは、に漂着した白人漂流者がいたというものである。 この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。 『インディアス自然一般史 Historia General y Natural de las Indias 』を著したフェルナンデス・オヴェイドも1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。 コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。 このころ、コロンブスは積極的にやなどのや・、そして航海術の習得に努めた。 仕事の拠点であるリスボンでと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。 当時はすでには一般に信じられていたが、トスカネッリはの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はの試算よりもずっと短いと主張していた。 『東方見聞録』にあるの国・に惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。 また、現存する最古の地球儀を作ったとも交流を持ち意見を交換した説もある。 これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。 ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、• 地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。 地球の未知の部分はアジア東端から以西だけになった。 マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。 したがって未知の領域はさらに狭くなる。 6マイルと計算した。 したがって未知の領域は56. しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。 この考えの根底にはの地理観を引き継いだ中世の観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。 地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島からまでを実際の10,600に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。 王室への提案 [ ] 1484年末 、コロンブスはポルトガル王に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に 、ジョアン2世は興味をそそられた。 王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。 コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はがとの接触に成功し に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した。 再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず 、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく 、借金さえ抱えていた。 このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。 スペイン時代 [ ] コロンブスはリスボンから海路、スペインのに着き、そこからのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた。 5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもある のアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。 さらにコロンブスは ()の第2代・ () 、そして初代 ()(5代 () )ドン・ () と面会する機会を得た。 メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000相当の物資を準備することに合意した。 コロンブスが作成したと言われる地図。 これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている。 カトリック両王への売り込み [ ] コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えのへ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた。 1486年5月1日 、メディナセリ公が紹介してコロンブスはでイサベル1世とその夫()に謁見した。 コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。 計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。 1486年だけで二度 委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。 コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持ったや学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘 ()と 恋愛関係となり、1488年8月15日に ()が生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。 しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。 コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人であるのディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた。 コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、の発見もあって話がまとまることはなかった。 また、弟バルトロメをのやのの元に差し向け、計画の宣伝をさせた。 いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉の歓待を得て、バルトロメはの宮殿に数年間滞在した。 しかしこれらの行動も実を結ばなかった。 一方のスペイン王室は、1489年5月12日付でコロンブスが王室に謁見するときに必要な宿泊費を無料にする通達を出す など、不完全ではあるが金銭的援助を行い 、決して彼を邪険にしていたわけではなかった。 しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。 話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。 このわずか2週間後、コロンブスのもとに王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。 提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。 イザベル1世とコロンブス(カリフォルニア州議事堂) しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。 ここに ()が登場する。 であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。 1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったしたことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。 もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。 このとき、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。 女王の伝令は彼を追いかけ、15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。 この橋には、劇的ともいえる出来事を解説する銅版がある。 サンタ・フェ契約 [ ] 1492年4月17日、郊外のにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。 その内容は、• コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。 コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)および総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。 各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。 提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。 コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。 というものだった。 航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。 彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万を、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した。 これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった。 コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。 航海 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 に基づく疑問が提出されています。 ( 2017年12月)• に疑問が呈されています。 ( 2017年12月) 船出 [ ] 1492年、を(インディア)を目指して港を出航した。 このときの編成はのと、のの3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。 いったんへ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。 大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。 当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。 コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。 には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。 その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。 「新大陸」上陸 [ ] コロンブスの航路 そしての日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。 翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してと名づける。 最初に上陸した島でコロンブス一行は、たちから歓待を受ける。 アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。 コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。 しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。 彼はこう書き残している。 「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」 「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。 私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄をまったく持っていない。 彼らの槍は草の茎で作られている。 彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。 彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。 50人の男達とともに、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた」 「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。 逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。 彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。 彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。 我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した」 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在の島を発見した。 ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはと名づけた島に到達。 24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。 しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。 この入植地には39名の男性が残った。 年が明け、にピンタ号と再び合流する。 、スペインへの帰還を命じ、にパロス港へ帰還した。 帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。 コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。 この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。 また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。 国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。 「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。 このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」 1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。 折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。 インディアンへの大虐殺 [ ] 1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。 11月にと名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。 コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。 しかし白人入植者の間ではでの生活に不満の声が上がり、周辺諸島では、、、などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。 これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。 行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。 まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。 コロンブスがでしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、、、、、を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。 インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。 最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。 コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。 コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。 やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。 1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。 再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。 コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。 コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。 しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。 晩年 [ ] インディアンの殺戮に"大勝利"したあと、コロンブスは予定通り、捕らえたインディアンをとして本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。 驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。 コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。 金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。 金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。 コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。 インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。 コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。 そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。 5月、6隻の船で3度目の航海に出る。 今度は南よりの航路をとり、現在ののの河口に上陸した。 その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。 しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。 その後、北上してに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。 コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。 罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。 それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。 に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、11月にスペインへ戻った。 しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。 帰国後は病気になり、のにて死去。 その遺骨はの修道院に納められたがにの大聖堂に移された。 コロンブスの死後、ドイツの地理学者が手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、の名前が記されてしまった。 この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「」も用いられる)。 航海などの関係略年表 [ ]• 第1回航海出発( - 1493年3月15日)• バハマ諸島グァナハニ島に到達• キューバ島着• イスパニョーラ島着• 第2回航海出発( - 1496年6月11日)• によりスペインとポルトガルの境界線画定• 8月 市の建設• 第3回航海出発( - 1500年10月)• 第4回航海出発( - 1504年11月7日)• スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置• 、イスパニョーラ島で公認• イスパニョーラ島に黒人奴隷導入 評価 [ ] この記事にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2015年1月) 一般的にコロンブスの「功績」はアメリカ大陸を「発見したこと」と語られることが多いが、アメリカ大陸にはこれ以前からやなどのモンゴロイド系先住民族が1万年以上前から居住し独自の文明を築いていたことを考えると、「発見」という言葉自体がヨーロッパ中心で世界を見る視点に立脚した発言と言わざるをえない。 従って、中立的な視点では「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ「航海路を発見した」というのが、その真の功績であると言える。 コロンブスのアメリカ大陸到着以前はユーラシア大陸と南北アメリカ大陸の住人や国家、文明の間には相互の文化や経済、政治などに影響を与え合うほどの交流がほとんどなかったことから、「 を促進した」とする評価もできる。 そしてその評価の中には、聖書に地球が球体であると描写された記述があり、コロンブスの行動によりそれが正確であると立証されたこともあげられる。 なおコロンブス自身はアメリカ大陸を最後までアジアだと誤認しており、「新大陸」と気づくことはなかった。 その事を考えれば、1492年にコロンブスが「新大陸を発見した」ようにいわれることもおかしいともいえる。 歴史家の ()は、「ヨーロッパ白人は処女地に植民したのではない。 彼らは先住民族を侵略して、入れ替わったのだ」と述べ 、インディアン活動家のマイク・アンダーソンは「コロンブスの上陸の前に、そこには文化があった。 そして人々がいた。 そしてそこには政府があった」としている。 またはこの「遭遇」という言葉に対して、「探検への衝動は、世界の文明の中で決して均一に割り当てられたものではなかった」として、コロンブスがアメリカに到達し、インディアンがヨーロッパに到達しなかったことは、インディアンと白人が「同一水準で文明的な接触をする」という条件面での違いを隠すものだとしている。 しかし、ヨーロッパ白人もアメリカ大陸のインディアンも、双方が互いを知らなかった状況において、ヨーロッパ白人がアメリカ大陸に来訪したのを「アメリカ大陸を発見」と呼んでも、必ずしも不公平ではないという意見も白人の中にはある。 しかしながら、 ()と ()の夫妻が、のでコロンブスが北米に上陸する以前の年代にが持ち込んだとされる鉄釘を発見した。 これによりコロンブスが「西洋人として初めて」「新大陸を発見した」という説は覆った。 現在ではヴァイキングがアメリカ大陸に到達し、その地をと呼んでいた事実は定説となっている。 また、古代もおそらく南米に到達し、以前にのような南米の作物を旧世界に持ち込んでいた。 後世のコロンブスの発見に比べれば交流は限定的であるが、少なくともアメリカ大陸以外の住人がアメリカ大陸に来訪したのは、コロンブスが最初ではないのは事実である。 さらに言えば、と呼ばれる北極圏のグループの分布は、やを越えてユーラシア大陸・アメリカ大陸にまたがっており、アメリカ大陸が他とは隔絶した地域だという認識そのものが疑問視される。 否定的評価 [ ] 1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。 さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。 量的にもスケール的にも、コロンブスはやに並ぶ、虐殺目的で戦争を楽しんだもっとも悪名高い、征服者の一人と言えるだろう。 コロンブスのインディアンを見下した傲慢さや残虐さについては、に基づく歴史家たちは、これを典型的な西側の白人男性の、原住民に対する人種差別的偏見としている。 ()は、コロンブスはインディアンに対して、不合理な敵意に根ざした独特な「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現していると告発している。 ()は、「偏見を起因として他の種に対して交戦が見られるということは、ヨーロッパ文化としては空想的なことではない」としている。 またはコロンブスについて「政治的、経済的、文化的なという、西洋史のなかでも最大の実験を開始したのがコロンブスである」と述べている。 の記念祝日である10月12日、「」は、にとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。 1911年、インディアン運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。 オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、「 インディアンが白人のアメリカを発見した日! 」とのスローガンを掲げ抗議した。 現在も反「コロンブス・デー」運動は「(AIM)」などに引き継がれ、毎年この日になると全米各地で抗議行進やデモが行われており、この際多数のインディアンが逮捕されている。 インディアン団体「AIM」のコロラド支局はその公式サイトで、「Transform Columbus Day! (コロンブス・デーを変えろ! )」として、この記念祭の廃絶を求め、以下のように主張している。 コロンブスは何百万人もの先住民殺戮の責任者である。 コロンブスはアメリカを侵略する前は、アフリカの奴隷商人だった。 彼はアメリカ大陸でも奴隷売買を始めた。 彼はいかなる記念や顕彰の対象にも値しない。 休日にも、パレードにも、彫像にも。 コロンブスの日は、「発見」の意義を祝うものである。 今日も続く、先住民族の領土を盗むための法的な過程としての意義をだ。 コロンブスはアメリカ大陸に、今日も持続されている優位性として、自然環境における優位、異なる信仰・信念に対する優位、男性の女性に対する優位といった、他民族(白人)の優位の哲学を持ち込んだ。 AIMスポークスマンであるのらインディアン運動家は団体と連携し、コロラド州デンバーの「コロンブス・デー」に毎年、同州にあるコロンブスの銅像にバケツで真っ赤な絵の具を浴びせている。 インディアンによるこの「血の洗礼」は、州警察による逮捕者を出しながらも毎年行われている。 1992年の「コロンブス500年祭」に合わせ、ラッセル・ミーンズは「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。 コロンブスの前では、はまるでただの不良少年だ」、AIMコロラド支局代表のインディアン、グレン・モリスは、コロンブスを「殺人者であり、強姦者であり、今日も続く思想の大立者である」、は「生物学的、技術的、生態学的な侵入は、500年前のコロンブスの不幸な航海から始まった」とコメントしている。 作家で「 ()」の創設者でもあるは「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか?たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」と発言している。 が拡大すると、各地のコロンブス像も先住民の虐殺者の像として襲撃の対象となった。 市内の公園にあったコロンブス像は、同年6月9日にデモ参加者により引き倒された後、公園の池に投げ込まれた。 また、市内の公園に設置されていたコロンブス像も、何者かの手により頭部が破壊された。 磁気偏角の発見者? [ ] 上記のような歴史的・文化的業績への評価とは別に、コロンブスにはの発見者という功績を帰せられることがあった。 現存する第1回航海の記録である、息子エルナンデスの『コロンブス提督伝』との『コロンブス航海誌』双方の1492年9月13日の項に、「夜は北西を指していた羅針が、朝には北東を指していた」という記述がある。 これを受けて、J・C・ポッゲンドルフ『物理学史』(1879)やパーク・ベンジャミン『The Intellectual Rise in Electricity』(1895)のように、コロンブスを偏角の変化ないし偏角そのものの発見者として記載する資料がある。 しかしこうした傾向に対する反論は、A・クリフトン・ミッチェルらによって1930年代からなされてきた。 ミッチェルは『コロンブス提督伝』第2回航海の記述において、コロンブスがヨーロッパの偏角を想定して造られた羅針盤を携行していることに注目し、コロンブスが第1回航海で初めて偏角を発見したのだとしたら羅針盤の発達がありえないほど迅速であると指摘している。 つまり、1492年の以前からヨーロッパの航海士や羅針盤製作者には偏角の存在が知られていたと解するのが自然である。 とはいえ、コロンブスの航海記録が現存する西洋での最古の定量的な磁気偏角測定であることには変わりない。 出自に関する諸説 [ ] コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。 また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。 の日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。 ユダヤ人? [ ] 多く語られているものとしては、コロンブスはの片親から生まれたのではないかとする奇説である。 1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。 このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。 また、のではないかとする説も存在する。 しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。 ポーランドの王子? [ ] 詳細は「」を参照 新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。 造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。 「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。 これが『(Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている。 しかし、は『習俗論』(第145章)にて「これはの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した。 逸話の内容は、『ののクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。 ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。 誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。 当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。 もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。 その他 [ ]• クリス トーフォロ・コ ロンボ• クリス トポルス・コ ルンブス• クリス トバル・コ ロン• クリス トヴァン・コ ロンボ• クリスタファ・カ ランバス• これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。 航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事()、で敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い(、)という点が指摘されている。 しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している()。 では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。 でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。 、ただしでは西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。 では1483年末。 ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。 この行動について、は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。 同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。 によると「4月または5月」• (第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年ににて)に準拠する。 は1486年秋と1487年春と表記。 は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。 委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。 では「コロンブスに好意的」と言う。 ところがでは、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスをにかけるよう主張したとある。 の内容に準ずる。 ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。 では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。 出典 [ ]• JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME. 2010年3月15日閲覧。 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)• 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)• 『』(、1995年11月号)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)• 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)• 産経新聞 2020年6月10日. 2020年6月10日閲覧。 AFP 2020年6月11日. 2020年6月10日閲覧。 山本義隆『磁力と重力の発見』第2巻「ルネサンス」第11章3節 pp. 388 - 394• Dukechronicle. com, Duke Student Publishing Company 2009年10月12日. 2014年1月7日閲覧。 天才パズル作家は別に9つの点を4本の線でつなぐパズルなど2つを「コロンブスの卵」と名づけている。 脚注2 [ ] 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。 アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀• ポルトガル王室付き歴史家(1496年 - 1570年)『アジア』• ラス・カサス『インディアス史』 参考文献 [ ]• 『コロンブスは何を「発見」したか』〈〉、1992年5月。 『』1、・訳、〈 21〉、1994年7月5日。 ラス・カサス『』2、長南実・増田義郎訳、岩波書店〈大航海時代叢書 22〉、1994年8月4日。 ラス・カサス『』3、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 23〉、1994年9月5日。 ラス・カサス『』4、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 24〉、1994年10月5日。 ラス・カサス『』5、長南実訳、岩波書店〈大航海時代叢書 25〉、1994年11月7日。 ラス・カサス『』全7巻、編、長南実訳、岩波書店〈〉、2009年3月17日。 - コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。 コロンブス『』訳、岩波書店〈岩波文庫 青428-1〉、1977年9月16日。 林屋永吉「訳者解説」、『』 岩波文庫、1977年、pp. 273-297。 林屋永吉「訳註」、『』 岩波文庫、1977年、pp. 253-272。 コロンブス『』林屋永吉訳、岩波書店〈岩波文庫 青428-2〉、2011年2月16日。 『』岩波書店〈〉、1979年8月20日。 『』監修、・訳、〈 21〉、1992年10月14日、192頁。 ロデリック・ナッシュ『人物アメリカ史』 上 、訳、〈〉、1989年4月。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - コロンブスの名に由来して命名された国• - コロンビア北部の山• - 「コロンブス」の英語読みで、コロンブスの名に由来する地名など• - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧• - コロンブス以前にへ達していた• - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる• - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分• - 新大陸発見により新旧相互の世界にもたらされた動植物・疫病・物品等• - コロンブスの航海に同行• コロンブスの名を付したの軍艦• - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。 - コロンブスを描いた1949年のイギリス映画。 - コロンブスを描いた1992年のフランス・スペイン・イギリス合作映画。 - コロンブスを描いた1992年のスペイン・イギリス・アメリカ合作映画。 外部リンク [ ]• - (2002年10月8日アーカイブ分)• 江戸時代のコロンブス伝(日本漢文の世界).

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