少年 の 日 の 思い出。 少年の日の思い出: 感想(評価/レビュー)[小説]

少年の日の思い出のエーミールは悪い奴なのか!?私の感想を紹介

少年 の 日 の 思い出

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2009年6月) 『 少年の日の思い出』(しょうねんのひのおもいで 原題: Jugendgedenken は、がに発表した。 では、同年にのがされた。 1年生のに掲載されていることで、日本でのは高い。 この作品は以降、「ヘルマン・ヘッセ昆虫展」として具現化され、全国30都市以上で展覧されている。 さらにはで開催された際、軽井沢演劇部によりにもなり、ほかでも上演された。 また、この昆虫展をきっかけに、ヘッセ自身が採集した(パルテベニヒカゲ)が在住のコレクター所有のチョウ類の中から発掘され、にてヘッセ昆虫展に合わせ一般公開された。 これ以外にも『蝶』、『蛾』、『小さな蛾』、『小さな蛾の話』などに改題の上、発表されている。 1931年に日本のである高橋健二がヘッセを訪問し、別れ際に「列車の中で読みたまえ」と渡された新聞の切り抜きが『Jugendgedenken』である。 高橋ははじめ、この物語に『少年の日の億出』のを付けて翻訳したが、後に『少年の日の思い出』に変更された。 高橋が『Das Nachtpfauenauge』に対して『少年の日の思い出』の邦題を付けたとの誤解もあるが、高橋はあくまで『Jugendgedenken』を訳したのであり、『少年の日の思い出』の邦題も特に不自然なものではない。 に高橋健二訳が、日本のに掲載された。 それ以来、現在のに至るまで70年間以上も掲載され続けており、このヘッセの作品は、日本で最も多くの人々に読まれた外国文学作品と言える。 一方、ドイツで発行されたやに収録されているのは、すべて1911年の初稿である『Das Nachtpfauenauge』であり、『Jugendgedenken』はドイツではほとんど知られていない。 これは、先述の通りヘッセが高橋に新聞の切り抜きを渡したために、ヘッセの手元には『Jugendgedenken』が残っておらず、ヘッセの膨大な遺品・資料の整理をしたフォルカー・ミヒェルスでさえも分からなかったためである。 後に、この新聞はの高校教師により、の地方新聞社・マインポストのマイクロフィルムから見出され、ヘッセ昆虫展において初公開された。 この新聞コピーが日本にあることを突き止めたのは、この昆虫展を制作・運営した理事で当時であった新部公亮である。 新部はまた、大阪より発掘されたパルテベニヒカゲを、名誉教授・(昆虫展の監修者)とともに、ヘッセの採集品であることを証明してみせ、さらには在住のが所有していたヘッセの直筆2点を借り受け、において世界初公開した。 内1点の「Agno See」と題された水彩画は、フォルカー・ミヒェルスの勤務する社に電送され、版「ヘッセ水彩画カレンダー」の4月分を飾った。 ドイツ・スイス以外の国に存在する直筆画としては初めての採用であった。 蛾の名前 [ ] ヤママユガ 1931年当時、この物語の鍵となる(Nachtpfauenauge、直訳では「夜の孔雀の目」)には和名が存在せず、高橋は「楓蚕蛾(ふうさんが)」と訳していた。 後に日本昆虫協会副会長を努めるほどの好きなドイツ文学者となるが、大学時代(1950年代)にドイツ語の資料を調べたところ、ドイツで「Nachtpfauenauge」 と呼ばれる蛾は複数おり、「Mittleres(中型) Nachtpfauenauge」 、「Wiener(大型) Nachtpfauenauge」 、「Kleines 小型 Nachtpfauenauge」 の3種が問題の蛾の候補に挙げられた。 このうちWiener Nachtpfauenaugeはポケットに入れるには大きすぎる事、Kleines Nachtpfauenaugeは希少性が低い事から、Mittleres Nachtpfauenaugeこそがエーミールの蛾であると断定し、岡田によってそれぞれ「クジャクヤママユ」「オオクジャクヤママユ」「ヒメクジャクヤママユ」の和名が付けられた。 一方、クジャクヤママユであれば行わない『敵に対する威嚇行動』が作中で説明されている点については、Nachtpfauenaugeと名前の似ている、のAbendpfauenauge(、ヨーロッパウチスズメ)の行動をヘッセが混同していた可能性を岡田は指摘している。 なお、右のクジャクヤママユ図は、ヘッセが少年時代に飽かず見ていた19世紀末の銅版画図鑑から採ったそのものである。 岡田は(ごろ)、指導教授であった高橋に請われて蛾について講釈した折に、「楓蚕蛾」から「クジャクヤママユ」への修正を進言した。 高橋の訳であるの「ヘッセ全集 2」では、クジャクヤママユではないが、同じで日本固有種の「」と表記されている。 岡田は後に、『Jugendgedenken』の初稿である『Das Nachtpfauenauge』を『クジャクヤママユ』の邦題で翻訳している。 『Jugendgedenken』も岡田によって新たに訳され、12月に、これを収録した「少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集」が出版された。 登場するその他の蝶・蛾 [ ] ワモンキシタバ 私が客に見せた、物語の発端となるの蛾( Catocala fulminea(Scopoli、1763))。 からにかけての各地に分布し、ドイツではアッパーライン渓谷とシュヴァーベン高原を中心にしている。 ドイツでは「黄色いリボン(Gelbe Ordensband)」と呼ばれる。 採集の楽しみを回想する冒頭に例示されたの蝶( Papilio machaon Linnaeus, 1758)。 全域と北西部の広範囲に分布する。 日本ではとともによく見られるで、ナミアゲハが生息しないドイツでは代表的なアゲハチョウの一種にあたる。 エーミールを深く嫌悪するきっかけとなったの蝶( Apatura metis Freyer, 1829)。 ユーラシア大陸全域に分布するが、ドイツではSchillerfalterと呼ばれ、流域からの渡り個体が見られる程度の希少種。 日本のコムラサキとは別の亜種とされる。 は、初期の出版物に「ニムラサキ」というが頻発していた事実を指摘し、その原因は高橋が翻訳時に用いた独和辞典の誤植にあることを突き止めた。 あらすじ [ ] 原文であるドイツ語には、単語で「蝶」と「蛾」を区別することがない。 そのため、以降は「蛾」のことも「蝶」と著す。 が寝静まる頃、 私は蝶集めを始めたことを客に自慢する。 客の申し出を受け、私はワモンキシタバのを見せる。 客は少年時代の思い出をそそられ、少年時代は熱心な収集家だったことを述べる。 が、言葉と裏腹に思い出そのものが不愉快であるかのように標本の蓋を閉じる。 客は非礼を詫びつつ、「自分で思い出を穢してしまった」ことを告白する…。 僕 客 は仲間の影響で蝶集めを8・9歳の頃に始め、1年後には夢中になっていた。 その当時の熱情は今になっても感じられ、微妙な喜びと激しい欲望の入り混じった気持ちは、その後の人生の中でも数少ないものだった。 両親は立派な標本箱を用意してくれなかったので、のに保存していたが、立派な標本箱を持つ仲間に見せるのは気が引けた。 そんなある日、僕は珍しいを捕らえ、標本にした。 この時ばかりは見せびらかしたくなり、の向こうに住んでいるの エーミールに見せようと考えた。 エーミールは「非の打ちどころがない」模範少年で、標本は美しく整えられ、破損したをでする高等技術を持っていた。 僕はそんな彼を嘆賞しながらも、気味悪く、妬ましく、「悪徳」を持つ存在として憎んでいた。 エーミールはコムラサキの希少性は認めたものの、展翅技術の甘さや脚の欠損を指摘し、「せいぜい20程度」と酷評したため、僕は二度と彼に獲物を見せる気を失った。 僕の熱情が絶頂期にあった2年後、エーミールが貴重なクジャクヤママユのを手に入れ、羽化させたという噂が立った。 本のでしか出会ったことのないクジャクヤママユは、熱烈に欲しい蝶であった。 エーミールが公開するのを待ちきれない僕は、一目見たさにエーミールを訪ねる。 留守の部屋に忍び込み、展翅板の上に発見する。 展翅板からはずし、大きな満足感に満たされて持ち出そうとした。 部屋を出たのち、近づくメイドの足音に我に帰った僕は、思わず蝶をポケットにねじ込む。 罪の意識にさいなまれ、引き返して元に戻そうとしたが、ポケットの中で潰れていることに気づき、泣かんばかりに絶望する。 逃げ帰った僕は 母に告白する。 母は僕の苦しみを察し、謝罪と弁償を提案する。 エーミールに通じないと確信する僕は気乗りしなかったが、母に促されてエーミールを訪ねる。 エーミールが必死の復元作業を試み、徒労に終わっていることを眼前にしながら、僕はありのままを告白する。 エーミールは舌打ちし、「 そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。 」と皮肉を呟く。 僕は弁償としておもちゃや標本をすべて譲ることを提案するが、エーミールは「結構だよ。 僕は、君の集めたやつはもう知ってる。 そのうえ、今日また、君がちょうをどんなに取りあつかっているか、ということを見ることができたさ。 」と冷淡に拒絶した。 収集家のプライドを打ち砕かれた僕は、飛び掛りたい衝動を押しとどめて途方に暮れながら軽蔑の視線に耐えた。 一度起きたことは償いのできないことを悟った僕を、母が構わずにおいたことが救いだった。 僕は収集との決別を込めて、標本を一つ一つ、指で粉々に押し潰した。 登場人物 [ ] ぼく (主人公) 蝶や蛾の収集に熱中していた少年。 貧乏なのでボール紙を標本箱にしており、友達に見せるのをためらっている。 『クジャクヤママユ』では「ハインリヒ・モーア」と名前が設定されている。 エーミール 隣の家に住む、先生の息子。 非の打ち所が無い、模範的な少年の様だが、それ自体が主人公にとって悪徳と捉えられている。 小さいながら、きれいに整理された蝶や蛾を所持しており、修理法も会得している。 私 物語冒頭に出てくる、大人になった「ぼく」の友人。 子供ができた影響で、また蝶の収集を始め、それを見た「ぼく」が昔の思い出を語り始める。 「ぼく」の母 「ぼく」に対し、エーミールに謝りに行くよう促した。 書籍 [ ] Jugendgedenken (少年の日の思い出) [ ]• 高橋健二訳• ヘッセ全集 2 車輪の下 (新潮社、1982)• 岡田朝雄訳• 少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集 草思社、2010 Das Nachtpfauenauge (クジャクヤママユ) [ ]• 8 Suhrkamp、2001• 岡田朝雄訳• 蝶 同時代ライブラリー (岩波書店、1992)• 第6巻 臨川書店、2006 脚注 [ ] [].

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小説読解 ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」その10~まとめ 文学作品に悲劇的結末が多いわけ~

少年 の 日 の 思い出

【教科書に載っている文学作品】 教科書。 とくに、中学校から高校にかけての国語の教科書に載っている作品の多くは、主人公が必ずと言っていいほど、不幸になっています。 この「少年の日の思い出」もそうですが、三年で読む、過去の人間関係が大人になってしまうと続けれられない現実を知る「故郷」、高校では普通の人間がたった数分の出来事で犯罪者になってしまう「羅生門」。 自己の心の中の猛獣に負け、外見までもが獣に変化してしまう「山月記」、友人を裏切った罪の重さに耐えかね、自分をも殺してしまう「こころ」、心から愛した人を裏切らなければならなかった「舞姫」。。。 ヘルマン・ヘッセ、魯迅、中島敦、芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外…… どの作家も、歴史に名前を刻む人達ばかりです。 何故、彼らはこのような多くの不幸な物語を紡いだのか。 更に古文に目を向けて考えると、千年も語り継がれている「源氏物語」も、登場人物の殆どが何らかの形で不幸になっています。 源氏が愛した最愛の姫。 紫の上も、最後の最期まで源氏に愛されているかを信じ切れず、その不信の中死んでいき、源氏はその紫の上を失ってから、初めて、本当に自分が愛していた存在は彼女だったのだと気付きます。 遅すぎだろうと思うのですが、長い物語の結末に用意されている悲劇。 海外に目を向けてみても、悲劇で終わっている物語は、本当に多いです。 ある意味、文学作品がそのような悲劇に満ち満ちていたからこそ、反動なのか。 舞台芸術や映画、娯楽小説、漫画、アニメなどの作品は、ハッピーエンドの物が多いのでしょう。 人間、どこかしらでバランスを取るものなのですね。 【文学作品に悲劇が多いわけ】 文学作品は非常に悲劇が多い。 それは、芸術だからとか、真実を描いているから、という意見も、確かに一理ありますが、私の考えは少し違います。 文学を含め、多くの芸術に言えることですが、人は何か行動を起こす時は明確な目的がある筈です。 創作者も同じです。 何か目的があって、悲劇を語る。 自分の感情を、言葉や形、メロディ、映像に乗せて、語っていく。 その目的は何なのか。 少なくとも人の気分を落ち込ませる為ではありません。 よりリアルに、現実感を、臨場感をもって、他人事とは思えない物語を紡いでいく。 そうやって読者を話の世界の中に引き寄せておいて、ずどんといきなり不幸にたたき落とす。 その行動を通して、読者に何をさせるのが目的なのか。 それは、 私たちに何かを考えさせたいからではないかと、思うのです。 【人は、命令されるとやりたくなくなる】 勉強しなさい。 頑張りなさい。 早起きしなさい。 良い子でいなさい。 言う方は、簡単です。 けれど、言われた立場ならば、どうでしょうか。 子どもはこうやって命令されることが多いと思うのですが、こう言われると、やりたくなくなるのが人というものです。 何故ならば、でも書きましたが、命令系というのは、「その行動をしていない」と指摘されているからです。 これを言われて、気分が良くなる子どもがいるでしょうか? 大抵は、気分悪く、下を向き、「ちっ、うるせぇなぁ」と吐き捨てるだけです。 これは文学作品も同じ。 人を裏切ってはいけない。 一度やってしまったことは、取り返しなど付かない事だ。 だから、行動に移す前は良く考えなさいと、言う事は簡単です。 けれど、それを言われても、 「あー、はいはい。 そうですよね。 わかっちゃいるんですよ。 でも、そんなの、解っていたって中々できない。 出来るんなら、苦労しないんです」 と思うのが、現実です。 命令系では、人間の心に響かないんです。 【思考は現実化する】 自己啓発の名著、というよりも、成功の手引き書のベストセラーとして有名な、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」 最新の脳科学からも、これは真実だと言う事が立証されつつあります。 日々、考えていることや思っていることが、現実化していく。 出来ると思えることは出来るし、出来ないと思った瞬間に出来ない現実が未来として確定されてしまう。 なぜなら、人と言うのは、膨大な無意識の中で考え、感じていることが表面の行動として浮かび上がってくるわけですから、毎日考えていることが本当に現実化されていくのです。 だからこそ、命令系の言葉を沢山聞いていると、求められている行動ができない自分を毎日意識する。 意識させられることになり、 本当に出来ない人間になっていく。 これは教育学で有名な、 ピグマリオン効果とも連携しています。 周囲がその子に期待をかけ、あなたは出来る。 やれると信じて接していると、それに相応しい自分になろうと本当に素晴らしい能力を発揮するようになっていく半面、この逆の効果。 ゴーレム効果という恐ろしい効果も生みます。 周囲から、 「お前はダメな子だ」「君は馬鹿だ」「能力が無い」「才能が無い」「ブスだ」「太っている」「魅力が無い」と言い続けられると、本当に将来。 そうなってしまうという効果。 日々、浴びせられている言葉に、意識が感化され、そして思考が現実化していくのです。 そのことを、小説家たちは最新の心理学の結果など知らずとも、その鋭い人間観察と洞察力で人間の根幹を見抜いていた。 だからこそ、そうなってほしくないからこそ、小説家は悲劇を紡いだのでしょう。 【悲劇を見た後の人間の意識とは】 思い返してみてください。 今まで、あなたが涙した悲劇の数々を。 主人公がどうしようもなく不幸になっていく過程を描いた小説や漫画を読んでいて、その主人公に感情移入すればするほど、 「ちょっと待てよ! 何でそんなことするんだよっ!! 」 と思い、「そうじゃない! そっちじゃないよ」と必死に止めようとしたことは、ないでしょうか。 そして、悲劇に終わってしまった結果を見た後。 考えたことはありませんか? どうやったら、上手くいったんだろう……って。 あの時にこうしていれば。 あの時に周囲に助けを求めていれば。 話していれば。 もっと違った結果になったのではないか。 考えた経験は、ないでしょうか? 人と言うのは、基本的に幸福を願うものです。 だからこそ、小説の主人公に不幸になってほしいとは思わない。 悲劇に突き進んでいく主人公の姿を見て、無意識に人々は考えてしまうのです。 主人公が幸福になったであろう道を、無意識に考えてしまう。 芸術は、人の心を動かすものです。 それが癒しであれ、感動や感激であれ、人は何かしら心を動かすものに惹きつけられる。 悲劇に人間が惹きつけられるのは、残酷すぎる物語の世界を体感することによって、どうすればこの不幸を回避できたのだろうかと、無意識に思い、その問いかけを頭の中に残すことによって、初めて人間は物語の中で描かれなかった「主人公が幸福になる道」を考えます。 「どうやったら……」と考え、問いかけることによって、人間の意識は初めてそこに向かいます。 そして、意識は現実化する。 「不幸な選択肢ではなく、幸福になる選択肢を考えろ」と言われても、人は考えるのが嫌になる。 けれど、不幸になっていく主人公に胸を痛め、同じような絶望を疑似体験することによって、「どうすれば上手く行ったのだろう」と、初めて能動的に考えられるようになります。 明確な正解など、この問いかけにはありません。 多種多様の答えが存在するでしょう。 けれど、 自主的に考える。 答えを求めようとして初めて、 人はそうでない未来を現実化出来るのではないでしょうか。 誰かの強制ではなく、命令でもなく、自分の力でそれを引き寄せる、現実化する力を得ることが出来る。 多くの戦争物が語るのは、その残虐性。 理不尽性です。 容赦ない映像や描写によって悲惨な光景を描き出すことによって、「二度とこの悲劇を繰り返してはならない」「では、どうすればいいのか」と、心を揺り動かすために、彼らはその物語を紡いでいる。 【少年の日の思い出の主人公が回避できた未来】 では、この「少年の日の思い出」の主人公が回避できた未来は、どんな未来でしょう。 エーミールと和解し、良い思い出として蝶の収集をうっとりと高揚感を得ながら見つめることが出来る未来。 この冒頭の主人公のように、自分は悪漢なのだ。 卑怯な下劣な人間なのだと、自分を責め続け、大好きだった蝶を見られないような傷を残し、ため息を吐きながら昔の傷を誰かに話して、つかの間の安らぎと慰めを必要とする大人とは、違う未来。 そんなの、不可能じゃないかと思うかもしれません。 そもそも、盗みをしなければ良かったという意見もあるでしょう。 エーミールに関わらなければ良かったのだというのも、選択肢の一つです。 けれど、私たち人間は、時にとんでもない間違いを犯してしまう存在です。 衝動や、咄嗟のことで、理性とは違う部分が表面化し、気が付いた時にはやってしまった。 取り返しのつかない事になってしまったことなど、沢山あるでしょう。 その間違いを犯してしまった後。 どうやって話せば、エーミールは心を開いてくれたのか。 二人の共通項は何でしょう。 鼻持ちならない優等生のエーミールと、人と自分を比べてばかりの主人公。 共通項などなさそうな二人の唯一の接点は、そう。 蝶です。 これは、人から怒られないようにするための秘策でもあるのですが、何か罪を犯してしまった人が、自分で自分を罰している場合。 周囲は、それ以上責めるようなことは言えなくなってしまうものです。 不合格に絶望し、その通知を見ながら涙している人間に、「だからあれほど勉強しろと言ったのに! 」「こんな点数とって恥ずかしくないの!? 」と、あなたはとどめのような一言を。 追い打ちをかけるような言葉を言えるでしょうか? ところが、悲しむのではなく、「いや、仕方がなかったんだよ。 咄嗟のことだったし。 本当は、そんなつもりなんかなかったんだ! 」と言いわけに終始されると、「いや、違うだろ! 」と感じませんか? となると、二人が和解する接点も、蝶であったことに気がつくはずです。 主人公は、蝶が壊れたことを悲しんでいますが、エーミールの前でそれを見せていません。 あの魔の一瞬。 階段で咄嗟に蝶をポケットに入れてしまった後。 エーミールの部屋に引き返し、ボロボロになった蝶を見て、心を痛めていた姿をエーミールに見せるべきだったのです。 ボロボロになった蝶を見ているのも、辛い。 自分がしてしまった行為の結果を、その心の痛みを、エーミールに見せるべきだった。 自分の保身などどうでもいい。 自分の価値など、問題ではない。 あれほど欲していた、見るだけで幸せだった蝶を、壊してしまった。 かけがえのないものを、自分の欲望の為に壊してしまった。 その悲しみに胸を痛めている姿を見れば、エーミールは少なくともわざと主人公が蝶を壊そうとしたのではないという事は、通じるはずです。 もちろん、怒りは相当なものでしょう。 けれど、軽蔑はされなかったはずです。 けれど、蝶を失った悲しみよりも、主人公が優先したのは、自分が如何に悪漢として扱われないか。 その項目ただ、それだけです。 だから、エーミールは怒った。 主人公が、蝶を失って悲しんでなどいないと感じたから、責め立てたのです。 軽蔑と言う、無言の視線をもって、主人公を断罪した。 そして、主人公はその後。 自分で自分を罰するがごとく、蝶を全て潰してしまった。 蝶をもう集めようとしない。 収集をしない事によって、自分を罰するつもりだったのでしょうが、それで本当に満足するのでしょうか? この主人公は、「何もしない」という事。 蝶も集めず、集めていた収集を捨てることによって、自分を罰し、その傷を大人になってまで抱えている存在ですが、このように「仕方がなかったんだ」と全てを受け止めることは、ある意味では全てを諦める姿勢と良く似ています。 仕方がなかった。 他にどうしようもなかった。 本当にそうでしょうか? とんでもないことをしてしまった、というのならば、エーミールのようにクジャクヤママユの幼虫から羽化させ、出来たものをエーミールに渡せばいいだけの話です。 もちろん、それで許してもらう事には繋がりませんが、少なくとも自分の努力でどうにかできる範囲です。 同年代の少年のエーミールに出来たのならば、この主人公に出来ないはずはありません。 そうやって行動したことによって、受け止めて、何もしない事よりも得る物は大きいです。 展翅の技術や、収集の向上もさることながら、やれるだけはやったという達成感や満足感も得られるかもしれません。 少なくとも、蝶を見るだけで胸が痛むような大人には、なっていないはずです。 もちろん、時間と努力は相当必要でしょう。 エーミールが許してくれる保証は、ありません。 けれど、自分で行動することによって変えられる未来を放棄し、傷付いたと被害者のままで居ることは、この人物にとって幸福なことなのでしょうか? 周囲の環境や人によって幸・不幸は決められていて、それを受け止めるしか人間には、術が無いのでしょうか。 ヘッセは、その環境や状況を受け入れて、そのまま自滅する主人公を多く描いています。 彼は、そうやって破滅する主人公の姿を通して、そうではない未来を、あなたがた読者には選びとってほしいと願い続けて、小説を書いたのではないでしょうか。 もし、あなたが不用意な一言で何かしら友人と壁が出来てしまったのならば、相手が何に傷付いていたのか。 何に怒っているのかを考えてみる切っ掛けになればと、思います。 ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。 もう一度最初から読む。

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少年の日の思い出: 感想(評価/レビュー)[小説]

少年 の 日 の 思い出

起こったこと• 先生の息子・エーミールが珍しいヤママユガをつかまえる• ぼくは どうしても見たくなりエーミールの家を訪れたが、彼はいなかった• 気の迷いか、ぼくはヤママユガを持ち出して 盗んで しまう• ぼくは思い直して元に戻すが、ヤママユガは壊れてしまった• その日のうちに、ぼくはエーミールに謝りに行く• エーミールは ぼくを軽蔑する• ぼくは 自分のチョウやガの収集を粉々にしてしまう エーミールに軽蔑されたことが、ぼくにとっては悔しく苦い思い出になったのですね。 ぼくと対象的なエーミール ぼくと対象的なエーミール。 彼は非のうちどころがない、あらゆる点で模範少年です。 ぼくは彼をねたみ、憎んでいました。 初めて『少年の日の思い出』を読んだとき、穏やかならぬものを感じました。 相手がエーミールでなかったのなら、ここまで苦い思い出にはならなかったのかもしれません。 羨ましがったり妬んだり。 他人と自分を比べてしまうと、そんな感情が生まれます。 仕方ないことだけど・・・。

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