お経 浄土宗。 勤行 (浄土宗)

開経偈

お経 浄土宗

ごばい/後唄 一 前唄()に対する語で、の終結部で唱えるのでこの名がある。 俗に処梵ともいう。 仏徳をしてを終えるときに用いる。 「 処如 しょせかいじょきょこう 如不着水 じょれんかふちゃくすい 心超於彼 しんせいせいちょうよひ 礼無上尊 けいしゅれいぶしょうそん」(『超日明経』上、)。 この際に唱える「」は能化の意では使用していない。 呂曲・ 調出音徴 いちこつちょうしゅっとんちょう。 「」の かっさつ・の次に唱える。 これとは別に、天下泰平・万民豊楽等を祈念するようなに、「 日月清明 風雨以時 災厲󠄂不起」のを用いた場合、の終結部で「国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲」のを唱えて対とすることもある。 の旋律は、マクリが先行した色回しや、マクリ・イロ・タレを一息で大きく緩やかに唱える大回しが特色となっている。 曲調は律曲・出音羽。 の常用『』にはを略節とし、西山派においては後ののことをと称している。 「 処如 しょせかいじょきょこう 如不着水 じょれんかふちゃくすい 心超於彼 しんせいせいちょうよひ 礼無上尊 けいしゅれいぶしょうそん」。 染まることのないなる心を持った仏にするの意。 がに伝えたとするにありを用いて唱える。 『』では「律曲 出音 しゅっとん羽」と指示している()。 には、明応四年(一四九五)の伝えた「」とともに伝わり、『』(下・三一一)には承応二年(一六五三)の恵隆の譜が載る。 『』と『』(、一九九八)には流等が五線譜として採譜されている( 出音変徴 そうじょうしゅっとんへんち)。 前唄()に対してのであるが、のみが唱えられることもある。

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仏教の宗派の違い(教え)

お経 浄土宗

【もくじ】 ・ ・ ・ 浄土真宗のお経 浄土宗では法然が数多くの経典の中から選んだ、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』の3つを教義のよりどころとしており、浄土真宗もそれにならっています。 浄土真宗のお経でよく使われるのは、親鸞が書いた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中にある『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』、『無量寿経』上巻にある『讃仏偈(さんぶつげ)』と『重誓偈(じゅうせいげ)』です。 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ) 『正信念仏偈』の内容は、念仏を正しく信じることの喜びをたたえ、阿弥陀如来への帰依が表されたもので、浄土真宗の信仰と行いの基本となっています。 後半ではインド・中国・日本の七人の高僧をたたえて、ともに念仏の信心に生きていくことをすすめています。 讃仏偈(さんぶつげ) 『讃仏偈』は、親鸞の七百回忌の際に、日常勤行に取り入れられた偈文です。 法蔵菩薩が世自在王仏の徳をたたえた内容が記されています。 重誓偈(じゅうせいげ) 『重誓偈』は、法蔵菩薩がすべての生きとし生ける者を救おうと説いた48の願いの後、それを要約して実現を誓った内容が記されたものです。 それが実現できないときは、「わたしは仏になりません」とも「誓われて」おります。 重ねて誓われているので、重誓偈といいます。 浄土真宗の通夜・葬儀で読まれるお経 通夜や葬儀では、必ず読まなければならないお経が決まっているわけではありませんが、よく用いられるものはあります。 通夜では、インド・中国・日本の浄土七高僧の教えをたたえた親鸞の歌である『高僧和讃(こうそうわさん)』がよく読まれるようです。 また、本願寺派では『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』や『念仏和讃』、大谷派では『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』や『念仏和讃』といったお経を読むことが多いです。 葬儀では、本願寺派では『三奉請(さんぶじょう)』というお経で阿弥陀仏などを迎え、『正信偈』や『念仏和讃』が読まれて、『回向(えこう)』で終了するのが一般的です。 大谷派では、『伽陀』を歌って阿弥陀仏などを迎え、『勧衆偈』、『正真念仏偈』『和讃』などが読まれることが多いようです。 ここではお経の特徴をご紹介しましたが、浄土真宗の葬儀についての記事もありますので参考にしてください。 天台宗のお経 天台宗では、釈迦が「すべてのものは仏になる」と説いた『妙法蓮華経』が根本の聖典とされています。 特に『自我偈(じがげ)』、『観音経(かんのんぎょう)』、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』などがよく用いられるようです。 自我偈(じがげ) 『妙法蓮華経』の「如来寿量品第十六章」に記されている経典で、法華経の要とも言われる部分です。 仏の命は永遠であることが説かれています。 また、すべての人々を仏にすることが仏の願いであり、常に人々のことを思い続けていることが記されています。 観音経(かんのんぎょう) 『妙法蓮華経』の「観世音菩薩普門品第二十五章」に記されている経典です。 観音菩薩が神通力を発揮して、生きとし生けるものを救済する旨が説かれています。 「南無観世音菩薩」と唱えれば、さまざまな厄難から逃れられるとされています。 般若心経(はんにゃしんぎょう) 数ある般若経典に説かれていることの心臓部を最も簡潔にまとめた経典で、一般的にもよく知られているものです。 真実を見つめる知恵(=般若)を持てば、一切にこだわらない「空(くう)」の境地になり煩悩を断ち切ることができると、悟りを開くための教えが説かれています。 般若心経についてや、天台宗の葬儀についての記事もありますので、気になる方はご覧ください。 浄土宗のお経 浄土宗では、数多くのお経の中から法然上人が選んだ『無量寿経(むりょうじゅきょう)』二巻、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』一巻、『阿弥陀経(あみだきょう)』一巻の3つが、「浄土三部経」とされています。 無量寿経(むりょうじゅきょう) 『無量寿経』は浄土三部経の大部分を占めるお経で、「大経」とも呼ばれています。 阿弥陀仏の修行時代の、生きとし生けるものすべてに対する救済の願いと、その願いが成就してからのご利益が述べられています。 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう) 『観無量寿経』は、「王舎城の悲劇」と言われる物語が説かれているものです。 釈迦の時代の国王妃、韋提希(いだいけ)夫人が後継者をめぐる激動の人生の末、釈迦の手で極楽浄土に往生する話が記されています。 阿弥陀経(あみだきょう) 『阿弥陀経』には、極楽浄土がその国の人々には何の苦労もなく、ただ楽を受けられる場所であることが記されています。 また、念仏の教えが正しいことを証明し、阿弥陀仏が説法して修行する人を守ることが説かれています。 浄土宗の葬儀についての記事もありますので参考にしてください。 葬儀に関するお問い合わせは「小さなお葬式」へ 葬儀に関するご準備は事前に行うことが大切です。 いざという時困らないように、葬儀全般に関する疑問は、「小さなお葬式」へお問い合わせください。 24時間365日専門スタッフがお客様のサポートをさせていただきます。

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勤行 (浄土宗)

お経 浄土宗

浄土宗と浄土真宗の違い は、平安時代の終わりに上人の開かれたです。 当時、あまりに急速に広まったために権力者からの弾圧を受け、 法然上人の教団はちりぢりばらばらになりました。 そのためは、法然上人のお弟子によって、色々なに分かれています。 現在も残るのは、 1.弁長の鎮西派、 2.証空の西山派、 3.のの3つです。 その中、現代で1番多いのは、で、 現在といわれているのは、 そのほとんどが2番目に多い、鎮西派です。 どのような違いがあるのでしょうか? 浄土宗と浄土真宗の3つの違い 1.本尊 の本尊は、の木像や絵像ですが、 はの名号のみを本尊とします。 (この違いを分かりやすく、の8代目、蓮如上人は、 「他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。 当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり」 と言われています) また、西山派では、本尊は阿弥陀如来ですが、さらに、では何かのご縁で阿弥陀如来以外の仏やを本尊としてもさしつかえないとしています。 2.出家と在家 には、仏教の伝統があり、もあります。 は、親鸞聖人の肉食妻帯により、 しなくても救われることを明らかにされ、 ももありません。 3.臨終行儀 では、臨終行儀を行いますが、 では、臨終行儀を行いません。 なぜこのような違いが出てくるのでしょうか? 浄土宗と浄土真宗の共通点 も、も、共通しているのは、 の本願の救いを求めることです。 なぜなら、お釈迦さま自身も含めて、 のお弟子である、やのような諸仏には、 でのできる、過去世からをしてきたすぐれた人でなければ 助ける力がないとお釈迦さまが説かれているからです。 私たちのようなややのに満ちた者は、 罪が重すぎて浮かばせることができないのです。 ちょうど、海で溺れている人が、 浮かばせる力のない浮きにすがったら、 浮きも一緒にどんどん沈んで行くようなものです。 そこで、私たちを助ける力のある 諸仏の王であるに助けてもらおうとするのが、 の共通するところです。 このように、の本願の救いを求めるのは共通しているのですが、 そのの本願の信じ方が違います。 一体どのように違うのでしょうか? 1.浄土宗鎮西派の信じ方 は本願に、このようにお約束されています。 「 どんな人も私の与える信心を獲てを称える者が、 もし真実の浄土へできぬことがあれば、私は仏の座を捨てよう」 ところが弁長の鎮西派では、 まったくのお力だけで助けてもらえるということはありえないだろうと疑って、を称えた功徳によってを願います。 に助けてくださいと祈願して、 一日5万回6万回とを称えることによって、 信心決定し、臨終にの来迎にあって、 へ往き、正定聚のに生まれます。 「 正定聚」とは仏になるに定まった人ということです。 ただし、この世でどれだけを称えたかによって、 どんなに生まれるかは差別があります。 さらに、の本願にお約束された行ではない 以外のも、諸仏に共通の本願なので、浄土できる教えます。 そして、もあります。 このように、鎮西派の教えには、のやのが混じりこみ、 のみを勧められた法然上人の教えとは大きく異なります。 浄土宗の有名な僧侶の事例 実際、ので浄土できるのでしょうか? ので往く浄土は「 報土」という万人共通の浄土ですが、 ので往く浄土は、報土の周りの「 化土」といわれるところです。 を称えているといっても、の場合は、人それぞれ違いがあります。 を何回称えたのかなど、その人のその人のたねまきによって にしたがって、 生まれる化土は千差万別だとお釈迦さまは説かれています。 ですから、の塊で、罪の重い私たちは、 ちょっとやそっとのでは化土へは往けません。 化土へ往けるほどを称えていれば、 死んで化土へ往けます。 それは一日何万べんものを 死ぬまで称え続けなければなりません。 明治時代、の管長で、本山の知恩院の住職もつとめた 福田行誡(ぎょうかい)というは、 一日何万べんものを死ぬまで称えていたと言われます。 その福田行誡は、臨終に、 「 化土へ往ければいいがな……」 と言って死んだそうです。 これが阿弥陀仏の本願を疑う心です。 このように、疑いのあるのでは、 報土は絶対にできませんし、 化土へ往けるかどうかも、死んでみないと分かりませんから、 死ぬまではなくなりません。 2.浄土宗西山派の信じ方 証空の開いた西山派では、の諸行ではできず、 まったくによって救われるとしています。 ところが、まったく他力というもの、人間には仏性があり、その仏性を主体として、願生心をおこして阿弥陀如来のお力で救われるといいます。 これを「 領解(りょうげ)」とか「 安心(あんじん)」といいます。 安心や領解が起きれば、諸行をの中におさめて、は往生の為になるといいますので、 「 諸行を生け捕りにした」 と言われています。 このように、自分で願生心をおこす所や、救われた後に自分でやる善が往生のためになるところは、やはりが混じり込んでいます。 このように、自分の心と口と身体の行いが、救われるのに役立つとするのは、諸行といい、 の本願にかなわないため、 自力では真実の浄土はできません。 3.浄土真宗の信じ方 親鸞のではどうかというと、 のお約束を疑いなく信じ、 生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、 生きているときに、この世で正定聚のになります。 これが大安心、大満足の絶対の幸福です。 そして、死ねばへ往って仏に生まれます。 報土です。 そのため、真のであるということで、 といわれます。 このように、浄土宗と浄土真宗の一番大きな違いは、自力がまじるのか、まったく他力なのかという所にあります。 それによってその他の色々な違いが出てきますし、一番重要な救われるかどうかも変わります。 では、どの宗派が正しく教えを継承しているのか、法然上人に判定して頂きましょう。 法然上人の教えを正しく継承しているのは? まず、法然上人は、 「 浄土門に入らんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし」(選択本願念仏集) と教えられています。 浄土門に入るには、雑行をすてて、正行に帰しなければなりません。 「 正行」とは、阿弥陀如来に向かっての正しい行を正行といいます。 「 雑行」というのは、ここではそれ以外の行をいいます。 ですから、御本尊は阿弥陀如来ではない仏や菩薩はなげすてなければならないのに、さしつかえないとなると、浄土門とは言えません。 まず大前提として、阿弥陀如来に助けて頂くのが浄土門であり、浄土宗です。 では法然上人は、阿弥陀如来をどのように信じなさいと教えられているでしょうか。 まず自力というのはどういうことかというと『 和語燈』にはこう教えられています。 「 自力というは我が力を励みて往生を求むるなり。 他力というは唯仏の力をたのみ奉るなり」(和語燈) 自分の力を励んで助かろうとするのは自力といいます。 他力というのは、ただ仏の力をたよりにすることです。 唯というのは、二つも三つもない、唯一つということで、仏の力だけに打ち任せるということです。 そして、このように教えられています。 「 我らが往生はゆめゆめ我が身の善悪には依り候まじ。 偏に仏の御力計にて候べきなり」(和語燈) 往生は自分の善悪には決してよらず、まったく阿弥陀仏の御力だけによる、ということです。 また、こうもいわれています。 「 我が力にて生死を離れん事、励み難くして、偏に他力の弥陀の本願をたのむなり」 自分の力で生死を離れることはできないから、ひとえに阿弥陀如来の本願他力によれ、と教えられています。 救われるのは100%阿弥陀仏のお力である、ということです。 念仏についてはこう教えられています。 「 他力の念仏は往生すべし。 自力の念仏は全く往生すべからず」(和語燈) 他力の念仏は助かるけれど、自分の力が往生のためになると思って称える念仏では、助からないということです。 このように、法然上人は、自力では助からないと教えられているので、現在残っている宗派で、法然上人の教えを正しく継承し、自力をすてて他力に帰せよと教えられるのは、浄土真宗となります。 それで歴史上、自力を徹底的に捨てよと教えられる浄土真宗では、 以外でも、たくさんの在家の人がに救われてきました。 それらの喜びの身となった人をといわれます。 そのことを宗教哲学者の柳宗悦さんは、 「 もとより妙好人はに現れるはずであるが、 なぜか系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである」 と言っています。 なぜ浄土真宗で救われた人が多いのか なぜ妙好人が浄土真宗から圧倒的にたくさん現れるのかという疑問の答えは、浄土宗には自力がまじりますが、浄土真宗は、純粋な他力だからです。 そのことを浄土真宗の8代目の蓮如上人は、こう教えられています。 「 されば自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す。 わが聖人は雑行をえらびたまう。 この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。 この謂あるが故に別して真の字を入れたまうなり」(御文章) 「 雑行」というのは、ここでは自力のことです。 「 自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す」というのは、浄土真宗以外の浄土宗は、自力を許すということです。 「 わが聖人は雑行をえらびたまう」というのは、親鸞聖人は、自力を捨てよと厳しく教えられるということです。 「 真実報土の往生」というのは、本当の極楽往生のことですが、自力では本当の極楽には往生できません。 自力を捨てるから、生きている時に阿弥陀仏に救われ、死ぬと同時に、極楽へ往って仏に生まれるのです。 このように、本当に救われるのが浄土真宗だから、浄土宗に真の字を入れて、浄土真宗といわれるのだ、と教えられています。 ではどうすれば、生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、 に救われ、死んでへ往けるのかについては、 仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめておきました。 ぜひ読んでみてください。 メニュー•

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