マッチ する つか の ま 海 に 霧 ふかし。 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司短歌代表作品

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 煙草の銘柄は?

マッチ する つか の ま 海 に 霧 ふかし

マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや いうまでもなくの代表作のひとつである。 田沢拓也という人の『虚人 伝』では、下敷きとして富沢赤黄男の「一本の マッチをすれば 湖は霧」があって、その盗用だと決めつけられているらしいが、ばかばかしい了見の狭さだ。 古今、新古今の「」の概念を田沢某はどう理解しているのだろう。 この歌の画像的イメージは上の句にあるが、時代情況の切り取りは下の句が果たしている。 意味だけをとらえれば、のメッセージは明らかに下の句によって伝えられる。 歌は意味だけにあるのではなく、画像的イメージや韻律の音楽性と一体となってしか全体が表現されないけれども、この句の場合「意味」を担っているのは下の句だけで、上の句は逆に画像的イメージのみを伝えようとしている。 たんなる情景描写でしかなかった「一本の マッチをすれば 湖は霧」に「身捨つるほどの祖国はありや」を加えたことで、歌は、「祖国」という感情をわかせるのはオリンピックとワールドカップの時だけという、寒々しいの基層を問うものとなった。 世界の先進国にして、国旗と国歌が暴力右翼のシンボルであるような国はない。 王族が残る国は数多いが、個々の王家の発祥が古代神話に埋もれていて、暴露が小学生にさえタブー視されているのは日本しかない。 つい先年までロンドンのバッキンガム宮殿にはでなく、王旗だけがかかげられていた。 それは、バッキンガム宮殿が英国(厳密には)市民の土地ではなく、市民と激しく対立し、武力抗争と懐柔和平をくり返した征服者の城塞であることを象徴していた。 征服者の祖先は西暦何年にどこから来て、さらに彼はどこの国の誰の子供であり、父の親戚はどこの国で何をした男なのかも、みんなが知っている。 現在の女王がバッキンガム宮殿にいられるのは、抗争と和平のくり返しの果てに結ばれた両者の「契約」の結果なのだ。 いまの皇居に日の丸でなく、菊の紋章旗を掲げるとよい。 西暦700年頃までは武力抗争と懐柔和平をくり返した征服者が日本にもいて、その血につながる性格の優しい子孫たちが住んでいることの意味を、多くの人が少しは考えるようになるだろう。 かれらの祖先の、による第十六代は由来の王である。 その征服者の子孫も、のち一、二度血統の連続性が怪しくなったし、室町以降江戸末期までは、床の間に飾りおくべき最大貴族としてしかに扱われなくなった。 はに入るまでがあることすら知らなかったらしい。 それがこの一世紀、国内求心力の欠如を隠したい政府によって「神」の地位まで一挙に格上げされたが、その不決断と臆病と政治的無能がたたって数百万の国民が死に追いやられてしまった。 それにもかかわらず、彼は無罪放免され、国民統合の象徴として存在を保障された。 現在はそうした彼の長男家族が、祖先を冷遇した江戸時代のエンペラーの住居跡に、なにごともなかったように国民の大多数に愛されながら住んでいる。 しかも、明治初年の東京遷都は当時の政府が正式に宣布したことではない。 京都から「」してそのままに居続け、それがいつの間にか既成事実化しただけのことである。 彼らには、自らの家系の正確な由来を学校教育を通じて全国民に明らかにし、親政を放棄した過去の無責任さを、自分の言葉で表明して、いまの地に住み続けてほしい。 「自分たちは、時の勢いに押されれば右でも左でも自在に動く空箱のように、実体は空虚である」と。 そのことによって戦前・戦後史の暗い部分の多くが照明を当てられるだろう。 そして、その家系の地位が将来にわたって何ら検証されることなく安泰であることの意味を考える人が増えるだろう。 空っぽの箱に対してが「臣・茂」と頓首再拝し、その亜流達の名をわれわれが投票所で書き続けていることの意味を。 さて、身捨つるほどの祖国はありや、である。 だいぶ前だが法案が可決されたことがあった。 その際政府は「スポーツ振興財源を確保する資金調達法のひとつである」として「」法案だとは決して言わなかった。 ギャンブルを公営してでも税収が欲しいのだとはっきり言ってをなぜ呼び起こさなかったのか。 退却や敗戦を転進、と言い換える精神構造は、微塵も変わっていない。 つねに問題は先送りし、相手の戦闘能力にどうにもならなくなったところで玉砕して、やっとことの重大さを認識するといういつものやり方である。 これまで首相は煮え切らないコーディネーターにすぎず、国の運命を引っ張る鉄の意志を持った宰相ではなかった。 実態が空箱のような象徴と、やド・ゴールのような存在感をまったく持たないコーディネーターのために、いったいだれが「身を捨つるほどの祖国」を感じるだろう。 oshimayukinori.

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寺山修司 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 『寺山修司歌集』

マッチ する つか の ま 海 に 霧 ふかし

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。 思春期から青年期に移行する頃だったと思います。 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」 これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。 現代語での解釈はNo. 1さんのおっしゃっている通りだと思います。 ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、 解釈は確かに難しいものなのかもしれません。 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」 作者の寺山修司には、 くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあります。 きっと霧のかかる海を眺めながら、一服をしようとしたのでしょう。 孤独と不安を感じ、自分が何者かを確かめたい欲求は、 青年期には誰もが、ふとどこかで立ち止まった時、 少なからず体験しているのではないでしょうか。 そこで突然湧き上がった思いが 「身捨つるほどの 祖国はありや」 という表現になったのだと思います。 身を捨てるほどの情熱を傾けるものよ、現れてくれ・・! という彼の心の叫びだと、若い私は思っていました。 今でも、ボランティアを志願する多くの若者の尊い気持ちは、 これに近いのかもしれません。 ずっと私は、この時寺山は煙草を吸いながら涙を流していたのだ、 という情景を思い浮かべていましたが、10年ほど経った今は、 彼は静かに、ただ海を見つめていたのかもしれない、と思います。 寺山がどう思って作ったのかということより、 この珠玉の言葉が私の中で、私と共に変わっていくことを感じます。 彼の言葉がオーケストラとすれば、私はただの客ですから、 これでいいと思っています・・答えにならないですね(笑) 仕事に忙殺され、豊かな心をきっとすり減らしている今の私は、 思いがけずこの歌に出会えたことが何よりうれしく、 もうすぐ今夜も徹夜になりそうな、嫌な気分が晴れてきました。 ヘンかもしれませんが、お礼を言いたい気持ちです。 ありがとうございました。 ご回答ありがとうございます。 私も昨晩はほぼ徹夜仕事でした。 体を大事に頑張りましょう。 私は今自分の仕事で壁にぶち当たっているのですが、気が付くとなにとはなしに、この詩を何度も反芻していることがあります。 自分の中でどういう意味があるのかも分かりませんが、何か妙に気になると同時に不思議な平静をもたらします。 私は、自分を縛り付けるものなど無いんだから、とにかく進んでいこう、という意味だと思っています。 ある意味では決意、また一方で諦観に似た感情を感じています。 人によって、また精神状態によっても受け取り方が違うのがこの詩なのかもしれませんね。 珠玉の言葉、わたしもそうだと思います。 無から紡ぎ出された文学の偉大ささえ感じます。 ありがとうございました。 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」 こういう短歌でした。 寺山修司さんは詩人で劇作家でもあって、短歌も若い感性でみずみずしさがあふれていて、それでいて愉鬱桜佐を表現する徳治の世界をもっていた人です。 1960年代のカリスマと言いいいのでは。 でも若くしてなくなられたので、これからさらなる活躍が期待されていたのに残念です。 ではこの短歌を素直に解釈してみると・・・ <マッチを擦ったその瞬間、海には深い霧が立ちこめていたことに気づく。 命を投げ出すほどの祖国というものが自分にはなるのだろうか。 > こう書いてみると前半部と後半部とのつながりがあまりないように思えてくる。 作者はあらためてこの国に目を向けてみると、自分はこの国に命を捧げるかどうかと聞かれたらないと答えるかな?自分にはそういう祖国がない気がするという感じかと思っていた。 調べてみて意外なことがわかってきました。 「寺山修司は青森の国民学校の3年生のとき、天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送を聞いた。 そのときのことを、「つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた」(『作家の自伝』/A新聞)とあり、 「「身捨つるほどの祖国はありや」と謳った彼は、終戦がなければ、いつかは自分も戦場に出向かなければならない、その意味はあるのだろうか、と自分に問いかけていたのだろう。 」 次のホームページの中にありました。 子ども頃に終戦を迎えた作者の戦争に対する考え方が述べられていると考えられますね。 ここで次のような話が出てきました。 寺山さんはこの短歌を盗作したと考えられているのです。 確かに本歌を利用した短歌が多いようです。 「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」 修司 「一本のマッチをすれば海は霧」 富沢赤黄男 もとは俳句だったのですね。 それに「身捨つるほどの祖国はありや」をくっつけてきたと言うことになります。 無理矢理つけたと言うことでしょうか。 彼は戦後日本がアメリカに流されていく姿を見て安保闘争に参加こそしなかったが、日本の現状に疑問を感じ、あるべき姿はどうなのかを自問自答していたのであろう。 そして「この国命をかける価値があるのか、いやないといえよう」と感じ詠んだのであろうという見方もできるということがわかりました。 「霧」は日本の将来への不安をあらわしていたのでしょうか。 ともかくも、夕暮れ時の海を前にマッチをする。 霧に包まれている。 と言うシーンは目に浮かぶ。 美しいもはかないたんかと言えよう。 解釈するのは難しいですね。 参考URL: Q 宮澤賢治「永訣の朝」の下記部分の解釈を教えてください。 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」 あめゆじゅとは霙 みぞれ のことですか?本当にそんな方言があるのでしょうか。 「これらふたつのかけた陶椀に」 なぜふたつなのか?一つは賢治のぶんでしょうか。 とし子が2椀欲しがったのか。 お金持ちなのに、欠けた陶椀を使い続けてきたのはなぜか。 「ふたきれのみかげせきざいに」 御影石材でしょうか?どうして「ふたきれ」なのか? ふたつの陶椀、雪と水とのまっしろな二相系など、意図的に「二」を使っているのか? 4. 「わたくしはそのうへにあぶなくたち」 御影石材が踏み石や飛び石のことならば、あぶなくはないので、これは別のものと考えるべきなのか。 水のたまるような形状をした庭石のことでしょうか? 4. 「松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべものをもらっていかう」 これは霙じゃなく雪ですよね。 松の枝に霙はたまりませんから。 みぞれがたまっているのは「みかげせきざい」の上。 みぞれは、「雪がとけかけて雨まじりに降るもの。 」広辞苑 半分溶けた雪のことを「あめゆじゅ」というのか? それとも、とし子はみぞれを所望したが、賢治は気を利かせて雪をとってきたのか。 あるいは、雪ではなく、松の枝から滴り落ちる水を陶椀で受けたのか? 「たべもの」「アイスクリーム」という表現があるので雪と思いますが。 「(Ora Orade Shitori egumo)」 「おら、おらで、一人、逝くも」と解釈しますが、どうしてローマ字表記なのか? 「おらおらでしとりえぐも」では通じないと考えたのか、現代的感覚を読者に訴えたかったのか。 けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゅとてちてけんじゃ) うすあかくいっさう陰惨な雲から みぞれはびちょびちょふってくる (あめゆじゅとてちてけんじゃ) 青い蓴菜のもやうのついた これらふたつのかけた陶椀に おまへがたべるあめゆきをとらうとして わたくしはまがったてっぽうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゅとてちてけんじゃ) 蒼鉛いろの暗い雲から みぞれはびちょびちょ沈んでくる ああとし子 死ぬといふいまごろになって わたくしをいっしゃうあかるくするために こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから (あめゆじゅとてちてけんじゃ) はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを…… …ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまってゐる わたくしはそのうへにあぶなくたち 雪と水とのまっしろな二相系をたもち すきとほるつめたい雫にみちた このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらっていかう わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (Ora Orade Shitori egumo) ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あああのとざされた病室の くらいびゃうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまっしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになって おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ 宮澤賢治「永訣の朝」の下記部分の解釈を教えてください。 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」 あめゆじゅとは霙 みぞれ のことですか?本当にそんな方言があるのでしょうか。 「これらふたつのかけた陶椀に」 なぜふたつなのか?一つは賢治のぶんでしょうか。 とし子が2椀欲しがったのか。 お金持ちなのに、欠けた陶椀を使い続けてきたのはなぜか。 「ふたきれのみかげせきざいに」 御影石材でしょうか?どうして「ふたきれ」なのか? ふたつの陶椀、雪と水とのまっしろな二相系など、意図的に「二... A ベストアンサー 1. 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」 私はネイティブではないですが、岩手県花巻の方言で、「雨雪取ってきて欲しいな」、といった ちょっと甘えた言い方らしいですね。 「これらふたつのかけた陶椀に」 死去のとき、「妹」は24歳。 病床で彼女と賢治は昔の思い出話などしていたのでしょう。 「欠けた陶椀」は二人が子どもの頃、あるいはママゴト遊びの中で使用したものと推測。 1のセリフも、もしかしたらその思い出話の中に出た言葉だったのかもしれないですね。 その昔の事を再現してくれという願いにも読み取れます。 「ふたきれのみかげせきざいに」 「2」が繰り返されるのは私と妹の「二人」を暗喩する数字でしょう。 「2」から「1」になるという事を際立たせています。 「わたくしはそのうへにあぶなくたち」 濡れた御影石の表面は滑りやすいので、アブナク、です。 「松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべものをもらっていかう」 「あめゆじゅ」は雨と雪。 賢治が採ったのは松の枝に積もったみぞれ交じりの雪。 「(Ora Orade Shitori egumo)」 草稿では平仮名だったそうですね。 妹の今際の言葉として、文字の意味ではなく「音として記録」した、という解釈ができるでしょう。 ~~~ 言葉の美しさを愛した詩人で、「永久の未完成これ完成である」なんて言葉が残されてますが、完成した作品に何度も手を入れていたような方です。 改稿も本人にとっては「そうしたほうが好ましい文章になった」というだけのことで、作品は彼のフィーリングがその一時結晶化した結果に過ぎない。 作品を売って金にしたわけでもなし、彼の念を文書に表せればそれで十分、「解釈」なぞは後の人が勝手にすればいいというのが彼のスタンスではなかったでしょうか。 彼の作品は各人が思い思いに韻を楽しみ、言葉に酔えばいいのでしょう。 lib. hokudai. pdf 1. 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」 私はネイティブではないですが、岩手県花巻の方言で、「雨雪取ってきて欲しいな」、といった ちょっと甘えた言い方らしいですね。 「これらふたつのかけた陶椀に」 死去のとき、「妹」は24歳。 病床で彼女と賢治は昔の思い出話などしていたのでしょう。 「欠けた陶椀」は二人が子どもの頃、あるいはママゴト遊びの中で使用したものと推測。 1のセリフも、もしかしたらその思い出話の中に出た言葉だったのかもしれないですね。 その昔の事を再現してくれという... Q 下の二つの短歌の解釈を自己流でしてみたのですが、間違いないでしょうか。 ある方に聞かれたのですが、こういう解釈で良いと思われますか? あるいは、他の解釈が浮かばれた方がいらっしゃいましたら是非教えて下さい。 1、『マッチ擦る つかのま 海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや』 ーーーーーーーーーー 寺山が、好きだったトレンチコートの襟を立てて埠頭に佇んでいる。 彼方には、大きな船が太い鎖の先に連なる赤錆色の錨を海底深く降ろし停泊している。 霧が深い夜で、遠くで霧笛が聞こえる。 煙草を吸おうとしてマッチに火をつけると、朱赤の煌きに自分を含めた周囲の大気だけがぼんやりと浮かび上がった。 そのさらに外側は濃い霧に包まれたままだ。 その霧に包まれながら一瞬浮かびあがった自らのシルエットに、 「俺は俺自身以外の何者でもない」という、「俺というものの本質」を唐突に意識した。 「社会的人間って何だ?」 「第一、国家って何だ?」 「こんな国、捨ててやる!」などと思うことすら愚かしい、個人を束縛しようとする単なる機構にすぎないではないか。 ーーーーーーーーーー といったような感慨が沸き起こった末の作品であるように感じます。 2、『海を知らぬ 少女の前に 麦藁帽の われは両手を ひろげていたり』 ーーーーーーーーーー 寺山、子供の頃の回想でしょうか。 もしかすると初恋の思い出かも。 夏休みのある一日、理由ははっきりと覚えていないが偶然その少女と二人きりになった。 少女は海を見たことがなかった。 寺山は何度か見たことがある。 少女:「海ってどんなものなの? 」 寺山少年:「すっげくおっきいんだ。 」 少女:「すっげく、って・・・、どのぐらい? 」 寺山少年:「・・・。 こ~んなぐらい。 」 と言って、幼い彼は精一杯手を広げた。 ーーーーーーーーーー 下の二つの短歌の解釈を自己流でしてみたのですが、間違いないでしょうか。 ある方に聞かれたのですが、こういう解釈で良いと思われますか? あるいは、他の解釈が浮かばれた方がいらっしゃいましたら是非教えて下さい。 1、『マッチ擦る つかのま 海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや』 ーーーーーーーーーー 寺山が、好きだったトレンチコートの襟を立てて埠頭に佇んでいる。 彼方には、大きな船が太い鎖の先に連なる赤錆色の錨を海底深く降ろし停泊している。 霧が深い夜で、遠くで霧笛... Q 寺山修司の短歌が爆笑問題の番組で紹介されていました。 相当なもののようですが、学がなく古い言葉を知らない自分にとっては考えても考えても妥当な意味を見い出せません。 言葉が古くてわからんのです。 短歌集のような本があるようなので読んでみたいのですが、おそらくほとんど意味がわからずに終わると思います。 でもそのままじゃぁつまらんなぁと思い始めていて今日日。 yahoo. わからん・・・。 単に死んだ母の髪をとかしてると抜けまくって切ない気持ちだ、という意味じゃぁないですよね?? 浅はかだしなぁ・・・。 さっぱりです。 以上、宜しくお願い致します。 寺山修司の短歌が爆笑問題の番組で紹介されていました。 相当なもののようですが、学がなく古い言葉を知らない自分にとっては考えても考えても妥当な意味を見い出せません。 言葉が古くてわからんのです。 短歌集のような本があるようなので読んでみたいのですが、おそらくほとんど意味がわからずに終わると思います。 でもそのままじゃぁつまらんなぁと思い始めていて今日日。 yahoo. A ベストアンサー 「新しき仏壇」の歌 補足で… 説明不足ですいません。 仏壇を買いにいった弟は水子だと解釈してます。 この世に生を受けなかった子供が仏壇を買いに行っても余り違和感はないと思って、断りなく書きましたが、あれは水子なんじゃないかと思ってます。 この歌を間引きとしたのは寺山の下の歌からの連想です。 問引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子 おとうとの年齢については、余り関係はないんじゃないのかと解釈してます。 元々、この世に生を得てないのですから… 余談ですが、地方で地獄沢とか地蔵河原とかいう地名のところは、昔、間引きした子供を流した川の名残だそうです。 水子地蔵がズラッと並んで、赤い風車の群れがカラカラまわるような、なんとも土俗的な光景を寺山の「おとうと」の歌からイメージしまっす。

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巷間知られた寺山修司の代表歌であろう。 ことの成り行きで寺山修司を書かざるを得なくなったが、正直言って荷が重い。 寺山修司は、僕らの思考力を突き抜けた天才詩人である。 歌才、詩才、戯曲、演劇活動、そして競馬やボクシングなどのスポーツ評論までこなし、そのどれもが人々のどきもを抜く発想で貫かれていた。 いうなれば全身芸術家といっても過言でなかったろう。 僕は寺山修司と会ったことがない。 会いたいと何度も願ってはいたのに会いに行かなかった。 彼の目の前に立つ前に、寺山の作品をを知りすぎたともいえる。 昭和40年代、20そこそこの若造が、寺山に会ってどんな言葉を交わすことができるのだろう、と、それを考えるだけで足がすくんだ。 寺山の書いた「家出のすすめ」は昭和40年代の若者に圧倒的な支持を受けたが、当時の文学少女たちはあまり寺山を支持しなかったような気がする。 その理由は、彼が太っていたことと、覗き見趣味という奇行にあったものであろう。 中原中也、立原道造、石川啄木、詩人は痩せて、病弱でなければならなかったのである。 後に風呂の覗き見で警察の世話にもなっている。 これについては誤解を恐れずにいうならば理解できてしまう。 彼の好奇心の強さは、一般人の想像をはるかに超えたものであった。 単なる裸を見たいということであれば、「天井桟敷」という劇団を主宰していた。 なんでもありのような前衛劇を行うその楽屋では劇団員の女優さんたちの裸はいやでも目にはいる。 与えられる裸体ではなく、あえて犯罪行為という壁をこえて目にする裸体こそが、彼の芸術的エネルギーにとって必要なのだった、と思う。 寺山修司を語るには生い立ちを追ってみると、彼の思想の基礎が浮かび上がる。 調べた範囲で簡単に追ってみよう。 寺山修司は1935年青森県大三沢市に生まれている。 ちなみに父・八郎は特高警察の刑事であったが敗戦の年、昭和20年にアルコール中毒のため、セルペス島にて死んでいる。 以来母の手で育てられているが、昭和24年13歳のときに青森県歌舞伎座に引き取られ、楽屋裏の生活が始まっている。 歌舞伎座とは名ばかり、旅回りの一座と起居を共にすることもあったという。 このころ母は生活の糧を求めて九州の炭坑町へ移り住んでいる。 このあたりまでの生活は、先に紹介した永山則夫に近いものがあったようだ。 その後の作品中でも両親への怨念がしばし感じられる。 しかし、永山との違いは、自分を失うことがなかった。 永山への関心は自分の境遇とも重ねてのことだったのかも知れない。 昭和26年4月に青森高校に入学。 学校新聞、そして文学部に参加。 雑誌「青蛾」発行した。 この青森高校での活動が、後の寺山の人生に大きくかかわっていったのである。 と書き出して、長くなりそうなので彼の詩の一編を紹介してつづきはまたにしたいと思う。 ゴメン! ひとの一生かくれんぼ あたしはいつも鬼ばかり 赤い夕日の裏町で もういいかい まあだだよ 百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる かもめは飛びながら歌をおぼえ 人生は遊びながら年老いてゆく 人はだれでも 遊びという名の劇場をもつことができる どんな鳥だって 想像力より高く飛ぶことは できないだろう わかれは必然的だが 出会いは偶然である 野に咲く花の名前は知らない だけど野に咲く花が好き 人生はたかだか レースの競馬だ!.

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