信楽 こう やま きよこ。 陶芸家・神山清子さんと語る「私と陶芸」セミナー開催報告

神山清子

信楽 こう やま きよこ

1936年生まれなので、現在83歳。 まだご健在で元気に活動されている。 自分自身の窯の前で 生い立ちは? 若い頃のプロフィール 彼女は一家全員九州の出身。 佐賀県の佐世保とのこと。 父親がそこの炭鉱で働いており、そのせいで朝鮮人労働者も多くいて、彼女は子供の頃、朝鮮人と間違えられてよくいじめられたと聞く。 小さい頃はよくいじめられるので、地面に絵を書いて1人で遊んでいたらしい。 戦前、九州の炭鉱ではあまりの仕事の厳しさに朝鮮人たちが夜逃げするような事態が起こった。 清子の父親はその朝鮮人の逃亡の手助けをして警察に捕まってしまうことも。 結局、九州にはいられなくなって、その土地を逃げ出すことに。 逃げている時は助けた朝鮮人が、逆にかくまってくれて滋賀県まで逃げ伸びたようだ。 信楽の陶芸の街に住み着いた一家は、陶芸に関わる仕事を始めたが、あまりうまくいく事はなく、山から薪を切り出しては陶芸家に売って生計を立てていたようだ。 清子は、中学を出た後は親の勧めもあって和裁や洋裁などの学校に通ったらしい。 しかし10代の頃から絵を描きたい希望を持っていた清子はあちこち仕事を転々とした後、信楽に戻って陶芸の会社に就職することに。 そこで絵付けの技術を学び、給料をもらいながらも、絵付けに関してはかなりの腕前に達していたようだ。 ただし、実家にいて会社勤めをしていても 父親は極めて封建的で、 なけなしの給料も全て取り上げられたと聞く。 しかしそんな中で21歳の時、会社の同僚で陶芸を目指していた男性と結婚をすることに。 父親に反対されての結婚だったが、夫が婿入りすることで父親の了解を取り付けている。 実際は婿入りではなく、清子が神山姓を名乗り、同居することで決着がついている。 給料が安かったことで、生活はいつも逼迫しており清子は夜12時 1時でもアルバイトをしていたようだ。 陶芸家である夫は、ある程度の人気が出たこともあって、弟子なども取り始めて活動するように。 実は、この辺がある意味本当の不幸の始まりで、 夫は不倫のあげく、交通事故を起こして不祥事が村全体に知れ渡ってしまうのだ。 清子は夫の不倫は目をつぶるつもりでいたようだが、成り行き上、清子だけがはじき出される格好になって、1人で暮らさなければいけないようになった。 かなり苦しんだようで、自殺未遂なども起こしたと記述にはあった。 清子は父親のこともそうだが、どうやらあまり男運が良くないようだ。 男と関わるたびに苦労を背負う羽目になっている。 清子は、 子供が2人いて、息子が清子と競い合うように陶芸家として活動するように。 母親をライバルのように考えていた息子は、それでも離婚などのときには母親の味方をして、数少ない清子の苦労の理解者と言える。 神山清子の一生の中で、とても重大なことだが、 この 息子が29歳になった時に白血病を発症して31歳でなくなってしまうのだ。 清子が54歳、56歳の時である。 その時から骨髄バンクの必要性を世の中に訴える活動を始めたのだ。 現在も滋賀県の 骨髄バンクの啓蒙のための活動の会長をしていると聞く。 それは息子が亡くなった後も、白血病のことで清子に様々な質問や、相談が持ち込まれたから。 苦労して始めた陶芸だが、彼女の1番の功績として 自然釉を復活させたこと。 ある時、たまたま古い窯で発見した、 昔ながらの信楽焼は 釉薬を使わずに土そのものが溶けて出てきた風合いが、独特の美しさを表していた。 彼女はその技術を現代に蘇らせたことでよく知られる。 失敗に次ぐ失敗で借金もかさみ、八方塞がりになってしまった頃、本来1週間ほどで釜焼きは終了するのだが、それをやけくそで、16日間続けて焼き続けたところ、首尾よく成功したのだ。 そのことで神山清子の知名度は一気に広まっていく。 陶芸家として 息子賢一さんと離婚した夫易久さん 彼女は、家庭的にはあまり幸せな境遇ではなかったと思う。 小さい頃は屈託なく明るく育ったかもしれないが、封建的な父親は彼女を自分流の考えに当てはめようとして、彼女の希望などにあまり目を向けなかったと言える。 そして恋愛結婚のはずだったが、夫には裏切られるのだ。 そしてこともあろうに、彼女は驚くほどの貧乏くじを引いてしまう。 彼女が夫と2人で苦労して作った自分たちの窯を去る形で、離婚をしなければいけなかった。 周りの夫の愛人や夫の弟子たちは体裁良く立ち回って彼女の味方にはなってくれなかったのだ。 そして、息子が彼女と同じ陶芸家を目指したが、志半ばで白血病で倒れることに。 息子の最後の言葉は、 「 お母さんはもう自分のために生きて欲しい。 」 清子がどのくらい苦労してきたかがこの言葉でよく理解できる。 清子は息子の死を乗り越えて、さらに創作活動に邁進するのだ。 まとめ 朝ドラ以外でも映画に取り上げられた。 スカーレット用に新しく窯を新調 神山清子の半生はまさに波瀾万丈である。 彼女の反省を題材にした映画が封切られている。 主役を演じたのは 田中裕子。 この他に彼女の半生をもとに小説も書かれている。 アマゾンで1600円ほどで売っている 興味のある方は一読するのも良いだろう。 調べてみた限りでは彼女は日本の文化を代表する1人と言えるはず。 日本には様々な芸術家がいるが、陶芸家の世界では、彼女は女性としてまさに草分けなのだ。 彼女が陶芸家を目指した頃、その世界は男尊女卑の極みだった。 そのような中で困難や迫害に耐えて彼女は今日の成功を得ている。 なつぞらで描かれた 奥山玲子も大変な先駆者には違いないが、その彼女に勝るとも劣らない優れた芸術家だと改めて教えられる。 さて陶芸家の彼女はたくさんの作品を発表しているので、最後に思う事は 実物をとにかく見てみたい。 私のささやかな希望が許されるのならば、 優れた作品をこの手に取って実際に触れてみたいのだ。 kuwa3972.

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神山清子さんの作品はどこで購入できる?コーヒー茶碗は?自然釉の壺は?ショッピングサイトを調べてみた

信楽 こう やま きよこ

NHKの朝ドラ「スカーレット」の川原喜美子(戸田恵梨香)のモデルとなる陶芸家・神山清子の立志伝です。 「神山」というのは夫の姓で、旧姓は金場である。 父・金場繁は香川県の出身で、炭鉱で働いていた。 父・金場繁は情に厚い人だったが、酒と博打が好きで、神山清子と母・金場トミは借金のカタに取られて、店に売り飛ばされそうになったこともあった。 母親の金場トミは、良家のお嬢様で、何もせず、家事や家計は神山清子がやっていた。 さて、この頃は日韓併合中で、日本の炭鉱で大勢の朝鮮人が働いており、「金場」という名字が朝鮮人の名乗る名前に似ていたせいか、神山清子は学校で「朝鮮人」と言われて虐められていた。 あるとき、厳しい労働に耐えられなくなった朝鮮人たちが炭鉱を脱走した。 そのとき、父親は朝鮮人の脱走を手助けしたため、父親は警察に追われ、一家を連れて炭鉱町を逃げ出した。 その後、神山清子らは、行く先々で朝鮮人に匿われながら逃走し、戦争末期の昭和19年(1944年)9月に滋賀県の日野へとたどり着いた。 神山清子は、母・金場トミが作る服が朝鮮服(チマチョゴリ)に似ていたため、滋賀県でも「朝鮮人」と言われて虐められ、泣いて帰ったが、母・金場トミから理由を聞かれても、服が原因で虐められたとは言えず、何も答えなかった。 しかし。 神山清子は、子供の頃から負けん気が強く、「朝鮮人」と言われて虐められても、泣き寝入りはせず、相手の親のところに行って文句を言ったり、校長室に駆け込んで、対策を訴えたりしていた。 やがて、日野町で終戦を迎えると、昭和22年(1947年)2月に滋賀県甲賀郡雲井村字勅旨(滋賀県信楽町勅旨)へと移った。 神山清子が小学3年生の時だった。 戦時中に金属が不足していた関係で、陶器が金属の代用品となり、信楽では火鉢が飛ぶように売れ、「火鉢景気」に沸いていた。 父親は有り金をはたいて信楽で山を買い、亜炭の採掘を始めたが、亜炭の採掘は上手くいかず、木を切って薪にして、陶芸家に売るようになった。 進路 さて、佐世保時代から虐められていた神山清子は、1人で地面に絵を描いて遊んでおり、絵を描くことが好きになっていたので、将来は絵描きになりたいと考えていた。 その次に成りたいと思ったのは婦人警官だったので、派出所のおまわりさんから柔道を習った。 そのおかげで丈夫な体を手に入れた。 長距離走が得意で、滋賀県ではちょっとしたものだった。 その一方で、虐められていた神山清子は、みんなに認めて貰うため、勉強を頑張っており、いつもテストは100点で成績は1番だった。 先生からの信頼も厚く、毎年、学級長にも選ばれていた。 神山清子は中学1年生の秋に稲穂のスケッチした絵が、美術教師に認められ、月に1度、美術教師から絵を習うようになり、滋賀県の絵画コンクールで金賞を取った。 すると、美術教師は神山清子に美術大学への進学を勧め、高校の学費は信楽町が出してくれることになった。 しかし、封建的な父・金場繁は「女は裁縫と料理が出来ないとダメだ。 勉強など必要ない」と言い、神山清子は信楽中学を卒業すると、和裁・洋裁学校へ入れらるのだった。 弟子入り 神山清子は独立したいという気持ちを持っていたが、ひとまず父親の言うことを聞いて和裁・洋裁学校へと入った。 朝5時に起きて花を病院へ持って行き、花を売りって学費を稼ぎながら、和裁・洋裁学校へと通った。 このころ、神山清子は、京都へ行って本格的な絵の勉強をしたいと思っていたが、家庭の経済事情で京都へ行くことはできないため、絵の勉強をしながら、信楽で絵の師匠を探していた。 地元の信楽で絵の仕事と言えば、信楽焼の絵付けしの仕事があったので、信楽で一番良い絵付け師を探して、京都から来た日本画家の絵付け師(吉竹栄二郎?)に、弟子にして欲しいと頼んだ。 絵付け師は「女の弟子は取らない」と言って拒否したが、神山清子は諦めずに朝6時に起きて絵付け師の職場に押しかけた。 10日ほどすると、絵付け師は話を聞いてくれたが、やはり、弟子にはしてくれなかった。 絵付け師の娘が弟子と男女の問題を起こして失敗していたので、女の弟子は取らない主義なのだという。 その代わり、熱意を認めてくれ、北村という絵付け師を紹介してくれた。 こうして、神山清子は北村の弟子になれたが、子供の面倒や雑用ばかり、絵付けの仕事など教えてくれなかった。 しかし、神山清子は雑用の合間に、見よう見まねで絵付けの仕事を覚えていき、やがて、下書きから上絵まで任されるようになった。 神山清子は嬉しかったが、北村は怒ると直ぐに物を投げつけるため、嫌になって1年で辞めた。 近江化学陶器に就職 昭和29年(1954年)、神山清子は18歳の時に日本画家の絵付け師(吉竹栄二郎?)の紹介で、陶器製造会社「近江化学陶器」に就職した。 神山清子はデザイン部に配属され、吉竹栄二郎に絵付けを学び、日根野作三からクラフトデザインを学んだ。 弟子ではなく、正社員だったので、給料は出たが、「お前なんかは教えてやっているんだから、本当なら授業料もってこなきゃいかん、それなのに出しているんだから」と言われる程で、給料は少なかった。 神山清子は仕事が始まる2時間前に職場に行って売り物にならない火鉢で絵付けの練習をして、昼休みは自宅に戻って家事をし、仕事が終わると、自宅に戻って新聞紙で筆運の練習をした。 しかも、給料が安かったので、夜の12時や1時までアルバイトをしたが、父親は「ただめし食わせて大きくさせてやったんだから、その分返すのが親に対する務めだ」と言い、神山清子の給料を全て取っていた。 神山清子は「この頃は娘十八番茶も出花という頃でしたが、お化粧などしたことがありません。 現代の子供には、こんな話とうてい理解できないでしょう」と苦労を語る。 神山清子の結婚 神山清子が「近江化学陶器」に入って1年が過ぎ、デザイン部が拡大され、神山清子は主任的な立場になった。 正式な役職ではないが、近江化学陶器では女性初で、ようやく給料も人並みになった。 このとき、型押し部に居た神山易久がデザイン部へと移ってきた。 神山易久は、中学時代の1年先輩だった。 神山易久は中学時代の美術コンクールで、いつも2位で、1位が神山清子だった。 このため、神山易久はライバル視していたが、神山清子は自分の絵に必死で神山易久のことを知らなかったという。 さて、神山易久が神山清子のデザイン画を褒めたので、神山清子は神山易久に好意を持つようになった。 若い2人が恋に落ちるのには、それほど時間はかからなかった。 しかし、父親が結婚に反対した。 父親は苦労して土地を手にしていたので、結婚するなら養子が欲しかったし、神山家の金銭的な事情も気に入らなかったようである。 神山易久は養子に入る事を承諾したが、神山清子が養子に反対し、最終的に神山清子が神山易久の籍に入り、2人は金場家で同居するということで、結婚した。 神山清子が21歳のことだった。 結婚しても仕事を続けたが、それでも生活が苦しいので、和服や反物を売りながら生活をしていた。 やがて、神山清子は、長女・神山久美子と長男・を儲けたが、仕事を辞めることは出来ず、子供を負ぶって出勤し、工場にむしろをしいて子供を寝かせ、仕事に励んだ。 それでも、1度も休んだことがなく、度々皆勤賞をもらい、残業代を目当てに、遅くまで仕事をさせてもらったので、「働き者の清ちゃん」と呼ばれていた。 陶芸家への道 神山清子が「近江化学陶器」に就職してから10年が過ぎたころ、家電の発達により、電気式の暖房器具が普及してくると、火鉢の需要が激減し、「近江化学陶器」は経営が傾き始めた。 このころ、「近江化学陶器」では、火鉢からタイル製品や植木鉢に転換しており、絵付け師の需要も減っていた。 このため、神山清子はアッサリと会社を辞め、信楽焼の伝統的な狸や灯籠の型押しの下請けを始めたが、初めは狸の置物を10個作っても、8個は潰れて前にお辞儀してしまうという有様だった。 時間が経つと手慣れてきたが、下請けなので、大したお金にもならず、他に仕事はないものかと考えるようになっていた。 そのようななか、台所で考え事をしていた神山清子は、「台所用品を一番知っているのは私たち女だ。 信楽焼には食器は無いけれど、信楽の土で食器を焼けないだろうか」と思った。 女性ならではの発想だった。 そこで、皿を作って知り合いの窯で焼かせてもらうと、味のある皿が焼けた。 皿は毎日、料理を盛り付けるのに使うので、神山清子は日々研究して、次々に新しい皿を焼いていたとき、子供たちが泥遊びをしているのを見て、「編み込み」という手法を思いつき、「編み込み皿」を焼いた。 すると、知り合いから公募展に出品することを勧められたので、公募展に出品してみると、日本クラフト展や朝日陶芸展に入選して、神山清子は信楽の女流陶芸家として一気に注目を集め、陶芸家として華々しいスタートを切ったのである。 神山清子は、絵の世界を目指していたが、陶芸の道に進むことには何の抵抗もなかったという。 女流陶芸家 神山清子は自分の窯を持っておらず、酒やお金を持っていき、知り合いの電気釜で焼かせてもらっていた。 しかし、作品がコンクールに入選したとき、審査員が窯を見たいというので、慌てて15キロの小さな電気釜を30万円で購入することにした。 展覧会に出品した作品を1つ5万円で売って購入費用に充てようとしたが、全く売れないので3万円まで値下げして10万円を用意し、残りは月賦にしてようやく、電気釜を購入した。 応援してくれる人も居たが、女性が窯に入ると「汚れる」と言われていたので、女性で窯まで持つ人は居らず、「植木鉢を焼くような汚い土で食器を作っても売れない」「女なのに生意気だ」という批判も起こった。 夫・神山易久が会社を辞める 夫・神山易久は、「近江化学陶器」に残っていたが、神山清子が辞めた8年後にライバル会社「日本陶飾」の社長に引き抜かれ、ライバル会社「日本陶飾」に移った。 夫・神山易久は自分のデザインを持って「日本陶飾」に移ったので、「近江化学陶器」の社長が激怒したという。 夫・神山易久は「日本陶飾」の社長から、重役の次にぐらいの待遇をだと言われていたので、自由気ままに重役出勤をしていた。 しかし、社長以外は誰も夫・神山易久を偉いと思っていなかったので、人間関係が上手くいかず、「日本陶飾」も4年ほどで辞めた。 そして、神山清子が堅実に仕事を増やしていたので、夫・神山易久も神山清子の工房で食器を作るようになった。 食器類は値段が安いので、数をこなさなければならず、2人は懸命に働いた。 寸越窯(ずんごえがま) やがて、神山清子は、電気釜ではなく、古代穴窯で信楽焼を作りたいと思うようになるが、穴窯を作る資金が無かった。 幸い、父親の山を買ってくれるという人があったので、父親が山を売り、資金として提供してくれた。 神山清子は、そのお金で、夫・神山易久と共に、レンガを重ねて土を被せた半地上式の穴窯を作り、「寸越窯(ずんごえがま)」と名付けた。 この「寸越窯」が神山清子の運命を大きく変えることになる。 幸運 「寸越窯」が完成してしばらくすると、高山という陶芸家が、自分の作品を古式穴窯で焼いて欲しいと頼んできたので、「寸越窯」で焼いてあげた。 すると、高山が、京都に信楽焼の好きな美術商が居ると言い、美術商のK氏を紹介してくれたので、神山清子らは夫・神山易久の作品を持っていった。 すると、K氏が夫・神山易久の作品を気に入り、支援を約束して、芸術家がお金の心配なんかしてはいけないと言い、無条件で大金を貸してくれた。 売る方は引き受けるので、どんどん焼けというのである。 K氏が無条件で次々にお金を貸してくれるので、夫・神山易久はK氏をいつでもお金を引き出せる銀行と勘違いして、一躍スター気取りとなった。 夫婦で個展を開いて「おしどり展」などと呼ばれていたのだが・・・。 離婚 K氏から支援を受けるようになった頃から、夫・神山易久は弟子の女性と不倫関係になった。 神山清子が弟子の女性に「陶器の勉強をやるのか、恋愛をやるのか。 主人との関係は知っているけど、いまさら何も言わない。 陶芸をやるのなら、ここへ来ている間は恋愛関係をストップしなさい」と注意すると、弟子の女性は「陶芸をやります」と答えた。 しかし、女性が夫・神山易久に言いつけたらしく、神山清子は夫・神山易久から激しく叱責された。 弟子の女性は甘えるように夫・神山易久に寄り添った。 そうした一方で、夫婦で展覧会に出品するが、入選するのはいつも神山清子の方だった。 夫・神山易久は、神山清子が展覧会で入選する度に不機嫌になっていき、終いには、窯に縄を張って「生理のある女は入るな」と言い、神山清子を閉め出して、窯への立ち入りを禁じた。 神山清子は、真冬に水をかけられたり、鉄の棒を振り回された事もあったという。 弟子は上手く立ち回り、神山清子だけが孤立し、妻の座も陶芸活動も奪われてしまった。 神山清子は自分の作品を作るために、みんなが寝静まるのを待って、土置き場の隅っこで隠れて展覧会に出品する作品を作った。 さて、夫・神山易久が交通事故に巻き込まれたことから、弟子との不倫が明るみになった。 信楽町は小さい町だったので、直ぐに噂は広まった。 離婚問題で2年間、苦しみ抜いた神山清子は、ある冬の日、何時間も裸足で森をさまよったが、死のうとした瞬間に足が動かなくなったという。 そんな神山清子を救ったのが、長男・神山賢一だった。 長男・神山賢一が「お母さん、お父さんのことは忘れて、良い仕事をして欲しい」と言ってくれたので、離婚を決心し、夫・神山易久と離婚した。 38歳のことである。 かみやま・せいし先生 神山清子は陶芸の師匠がいなかったが、離婚後は色々な陶芸家が尋ねてきて助言をしてくれるようになった。 中には、言い寄ってくる男もいた。 このころ、陶芸家は男性ばかりだったので、神山清子の事を男性だと思い、「かみやま・せいし」と読み、「かみやま・せいし先生は居られますか」と尋ねてきた。 応対に出た神山清子は、「かみやま・せいし先生」の弟子と間違われたので、気まずくなって適当に誤魔化して帰ってもらった。 その人は何度、会いに来ても「かみやま・せいし先生」が会ってくれないため、終いに怒りだしてしまった。 そこで、神山清子が仕方なく、「かみやま・せいし」ではなく、「こうやま・きよこ」と読むことを教え、自分が「こうやま・きよこ」だと明かすと、その人は絶句した。 信楽自然釉(しがらきしぜんゆう) 神山清子が夫と離婚して間もなく、長男・神山賢一が古い寸越窯跡で陶器の破片を見つけた。 それは、釉薬(うわぐすり)などを使わない古代の自然釉(しぜんゆう)で、なんとも綺麗な色をしていた。 すると、神山清子は、自然釉(しぜんゆう)に魅入られ、自然釉の研究に没頭した。 離婚の後でお金が無く、弟子から借金をして、子供のお年玉を使い込み、パンの耳を食べ、農家にキャベツをもらいに行き、全てを自然釉につぎ込んだ。 しかし、失敗の連続で、まったく色が出なかった。 そこで、今度、色が出なかったら、しばらく休業して出稼ぎに出ようと思い、最後は全財産をはたいて薪を買い、通常なら3日から6日間のところを、ヤケクソで16日間も炊き続けた。 すると、16日間も炊き続けたことが功を奏し、釉薬(うわぐすり)を使わずに色を出すことに成功した。 土の中の石が溶け出して、焼き物にかかった灰と反応し、宝石のような色に変化したのだ。 こうして、神山清子は自然釉(しぜんゆう)による古代の信楽焼きの再現に成功し、「信楽自然釉」と名付けた。 そして、古代の信楽焼きを再現したことがNHKなどで取り上げられ、神山清子の名前は全国へと広まっていくのだった。 神山清子と韓国 神山清子は44歳の時に、韓国の窯場から陶芸の指導して欲しいという依頼を受けた。 神山清子は、韓国の陶芸に憧れており、韓国の土や職人の仕事を見たいと思っていた。 また、戦時中に父親が警察に追われて逃げ出したとき、行く先々で朝鮮人に匿ってもらっていたので、韓国人(朝鮮人)を尊敬しており、韓国人への恩返しとして、陶芸の指導を引き受けた。 神山清子は、韓国で半月ほど滞在して窯場で陶芸を教え、韓国人と交流を深めて、帰国後も韓国人との文通を始め、次回の交流を楽しみにしていたのだが、朴大統領暗殺事件などの影響もあり、文通も途絶えてしまった。 白血病を発症 神山清子の長男・神山賢一は、小さい頃から信楽焼を手伝っていたこともあり、自然と信楽焼の道を目指し、信楽工業高校(信楽高校)の窯業科を卒業して、滋賀県立信楽窯業試験場でロクロや釉薬などを学んだ。 そして、長男・神山賢一は滋賀県立信楽窯業試験場で3年の修行を経て、神山清子の元に戻り、天目茶碗の制作に励み、陶芸家として歩み始めた。 平成2年(1990年)2月16日、長男・神山賢一は29歳の誕生日を迎えたが、その4日後の2月20日に作品を作っている最終に倒れ、病院に運ばれた。 そして、検査の結果、長男・神山賢一は慢性骨髄性白血病と診断された。 神山清子が54歳のことである。 2日後、長男・神山賢一は大津市の赤十字病院に転院し、神山清子は改めて、医師から、白血病は血液のガンだと教えられた。 赤血球の形(HLA)が合ったドナーから骨髄を移植するしか治療方法は無く、ドナーが見つからなければ、長男・神山賢一は死ぬと言い、2年半の余命宣告を受けた。 神山清子は医師からの説明を聞いて激しく動揺するが、長男・神山賢一は、自分が白血病だと気づいていたのだった。 このとき、公的な骨髄バンクは存在しておらず、民間の「東海骨髄バンク」が存在するのみだったが、ドナー数も少なく、時間もかかった。 そこで、長男・神山賢一の知人らが平成2年(1990年)7月に「神山賢一君を救う会」を設立し、ドナー探しと募金活動を開始した。 さらに、市民団体などの協力により、「神山賢一君支援団体連絡協議会」が発足した。 そのようななか、神山賢一の名前を公表したことにより、「私たちも救って欲しい」「募金を使う権利は私たちにもある」として、全国の白血病患者からHLAのデータが送られてきた。 そこで、長男・神山賢一は、他の白血病患者も救うことに決め、活動の範囲を拡大し、骨髄バンク運動を開始する。 神山清子と神山賢一は、親子展を開いて骨髄バンクの必要性を訴え、ドナー提供を呼びかけ、4ヶ月で約3000人のドナー希望者が集まった。 しかし、非血縁者でHLAが適合する確率は数万分の1とも言われており、長男・神山賢一の適合者は見つからなかった。 血液検査の費用は1人につき1万3500円。 現在は血液検査の費用は国が負担してくれるが、当時は保険も適用されず、全額が個人負担だったため、「神山賢一君を救う会」は総額7000万円という借金を抱えて解散した。 神山清子は、全国各地の白血病患者に借金返済を強力して欲しかったが、自分で借金を被ることにして、「神山賢一君を救う会」の解散後も、作品を売りながら借金を返済し続けた。 その一方で、骨髄バンク設立を期待する声は大きくなっており、神山賢一は、全国各地の白血病患者を「救う会」の拠点となる「骨髄バンクと患者を結ぶ会」を設立し、会長に就任して、骨髄バンク設立運動を本格的に開始するのだった。 急性白血病に転化 神山賢一は骨髄バンク運動を続ける一方で、陶芸にも励み、「滋賀県立陶芸の森」で開催された「世界陶芸祭」に天目茶碗、神山清は壺を出展した。 神山賢一は世界の陶芸を間近で見られる事を楽しみにしていたが、信楽高原鉄道が脱線事故を起こして大騒ぎになったため、翌日、世界陶芸祭は途中で中止となった。 さらに、それから数日後に、神山賢一と交流していた白血病患者と母親が、無理心中するという悲劇が起きた。 その後、神山賢一は急性白血病へ転化したため、赤十字病院に再入院。 民間の「東海骨髄バンク」でも適合者が見つからなかったため、叔母・静子の骨髄を移植することになった。 このころ、神山清子は牛尼瑞香を弟子を取り、牛尼瑞香の協力を得て、陶芸を続けなら病院に通う一方で、骨髄バンクの必要性を訴える活動を続けた。 長男・神山賢一の死 神山清子の妹・静子は二座不一致でHLAが完全に一致はしなかったが、完全に一致していなくても骨髄移植すれば、白血病が治るケースがあった。 そこで、神山清子が妹・静子に相談すると、妹・静子が協力を約束してくれたので、長男・神山賢一は名古屋の赤十字病院へ移って骨髄移植を受け、容体は回復に向かった。 さらに、その年(1991年)の12月に、骨髄バンク運動が実を結び、念願の「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が設立された。 しかし、平成4年(1992年)2月に長男・神山賢一は白血病が再発してしまう。 そこで、神山清子は献体登録すると言い、長男・神山賢一にも献体登録を勧め、2人で献体登録をした。 医学に貢献したいという気持ちもあったが、献体すれば、遺体は死後2年間はそのままの状態で安置されるので、病院へ行けば、いつでも長男・神山賢一に会えると言う理由が大きかった。 さて、神山清子は、神山賢一の生き様を信楽自然釉で残しておこうと思い、入院前に神山賢一が作った壺を信楽自然釉で焼き、病院へ持って行った。 既に神山賢一は信楽自然釉の壺を見て嬉しそうだったが、もう壺を持つ力もなくなっており、目から出血していたので、血の涙を流しているように見えた。 ある日、長男・神山賢一が国宝級の「天目茶碗」が展示されている徳川美術館に行ってみたいと言うので、神山清子は長男・神山賢一を車椅子に乗せて、徳川美術館へ連れて行ったが、休館日だったため、入る事が出来ず、名古屋城を観に行った。 その後、神山賢一は衰退していき、神山清子の子守歌を聴きながら、平成4年(1992年)4月21日に死去した。 神山賢一は31歳、神山清子は56歳だった。 長男・神山賢一は献体登録していたので、死後、滋賀医科大学に献体に出され、2年後に役目を終えると、比叡山延暦寺で献体法要され、帰宅した。 さて、長男・神山賢一は生前に「(骨髄バンク運動は)僕で終わっていい。 あとは自分の仕事をして」と言っていた。 しかし、神山清子は白血病患者から電話を受けたり、関係者が尋ねてきたりするので、平成6年(1994年)に「滋賀骨髄献血の和を広げる会」が発足すると、会長に就任し、陶芸の制作活動を行いながら、骨髄バンクの普及のために活動を続けた。

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神山清子の夫・神山易久の立志伝

信楽 こう やま きよこ

NHK連続テレビ小説「スカーレット」は、実在の陶芸家・神山清子(こうやま・きよこ)さんの半生がモチーフとなり、フィクションで物語が創作されていきます。 この記事では、神山さんの半生を綴った「母さん子守歌うたって」などを参考に神山さんの足跡をまとめます。 神山清子・簡単な人生略歴 はじめに、神山清子さんのごく簡単な半生をまとめます。 以下、登場人物を敬称略とします。 神山(旧姓・金場)清子は、1936年(昭和11年)長崎県佐世保生まれ。 終戦直前、炭鉱で働いていた父が朝鮮半島出身労働者の逃亡を手助けしたとして警察に追われる身となり、一家で滋賀・信楽へと逃げ延びています。 信楽で柔道と絵が大好きな少女として育った清子は、父の考えにより和裁学校に行かされたものの、絵描きへの夢が捨てられずに信楽焼の絵付け助手を始めます。 その後、陶器会社勤務を経た後に27歳で陶芸家として独立。 研究の末に古(いにしえ)の「信楽自然釉」を復興・完成させ、当時としては希少な女性陶芸家として、一躍マスコミの脚光を浴びています。 私生活では、陶器会社時代に出会った陶芸職人の男性(神山姓)と結婚。 久美子、賢一という二人の子供に恵まれます。 しかし次第に夫婦関係は冷え込み、夫が別の女性と恋に落ちたために離婚。 その後は子育てを行いながら、自らが作り上げた穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」とともに生きる人生を歩んでいます。 やがて成長し同じ陶芸家となった長男・賢一でしたが、29歳の時に慢性骨髄性白血病を発病。 清子はドナー探しに奔走するも、2年後に賢一は亡くなってしまいます。 こうした悲しい経験から、清子は骨髄バンクの必要性を訴える啓蒙活動を長年継続しており、現在も「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の代表を務めています。 以上が、神山清子さんのごく簡単なプロフィールとなります。 以下、(長くなりますが)もう少し詳細に半生を追ってみたいと思います。 「スカーレット」のヒロイン・川原喜美子と重なる部分が多く発見できると思います。 母親役が田中裕子、息子役が窪塚俊介。 生い立ち:長崎の炭鉱から逃げ延びて滋賀へ 神山(旧姓・金場)清子は、1936年(昭和11年)長崎県佐世保生まれ。 佐世保の炭鉱で働く父と優しい母、1歳下の弟・繁美、3歳下の妹・静子という5人家族で育っています。 清子が小学校2年生だった1944年(昭和19年)のこと。 炭鉱で働く多くの朝鮮半島出身者と仲良くしていた父は、そのうちの一人が労働の辛さに耐えかねて脱走しようとするのを手助けしたとして、警察に追われる身になってしまいます。 一家は荷車に荷物を積み、追手を逃れて滋賀県の山里・日野に辿り着きます。 終戦後、現在は信楽町となっている甲賀郡雲井村字勅旨(こうかぐん・くもいむら・あざちょくし)に移り住みます。 父は銀行からお金を借りて山を買い、材木工場を始めます。 しかし、困っている社員にお金を貸したり人を呼んでは酒盛りでどんちゃん騒ぎを繰り返し、せっかく商売で儲かっても常に家計は火の車状態でした。 煮炊きや金の勘定などの家のことは、お嬢様育ちだった母に代わり清子が行っていたとか。 そんなこんなで貧しい生活は続き、家ではもち米、麦、野菜などを作る半自給自足生活。 貧しい生活でしたが、こうした経験は少なからず清子の人生に役立っていくことになります。 柔道と絵描き 絵付けの先生に弟子入り 清子は幼い頃から婦人警官に憧れを持っており、その影響で柔道を習っています。 そして、柔道の次に大好きだった「絵を描くこと」が将来の仕事へと繋がっていきます。 次第に美大に進学したいと考えるようになっていた清子でしたが、「女は裁縫が出来なければだめだ!」という父の考えにより、無理やり和裁学校に行かされてしまいます。 それでも絵の夢を捨てきれなかった清子は、陶器作りが盛んな信楽で絵付けという仕事があることに気が付き、飛び込みで絵付師に弟子入り志願をしています。 こうして、とある絵付けの先生のもとで働くことになった清子。 実際には家事手伝いをやらされるなど回り道も多かったようですが、少しづつ火鉢などの色塗りを任されるようになります。 しかし、この先生がなかなか短気でエキセントリックな人で、気に入らないことがあるとすぐに物をぶつけるという習性があり、結局それに嫌気が差して一年でこの仕事を辞めてしまっています。 陶芸会社で絵付けの仕事を得る 陶芸家と結婚 18歳の時、近くの陶芸会社での絵付け職人の仕事にありついた清子(女性の絵付けは清子一人だった)は、一心不乱に絵付けの練習を繰り返し、陶芸の世界にのめり込んでいきます。 この頃、同じく絵付けの部門に移ってきた男性(神山姓)と出会うと、清子はこの寡黙なこの男性と恋に落ちていきます。 清子は21歳でこの男性と結婚し、長女・久美子、長男・賢一を授かっています。 まだ幼かった子供を仕事場で寝かせてまで陶芸会社で懸命に働いた清子でしたが、国内の経済成長に伴い火鉢の需要が減るなど会社の経営に陰りが見え始めたため、あっさりと会社に見切りを付けて退職をしています。 ・ 陶芸家としての目覚め その後しばらくは信楽焼の型押しなど下請けの仕事をしていた清子でしたが、子供たちが泥団子遊びをしている姿を見て「ああいう風にやるとお皿が出来るかもしれない」と閃き、土団子で大皿を作り上げた第一作「小紋様皿」を完成させています。 ここから、作陶そのものの面白さに目覚めていった清子。 作品を作り続けるうちに公募展に出展すると、「日本クラフト展」「朝日陶芸展」に続けて入選し、「信楽に魅力的な陶器を作る神山清子という女流陶芸家がいる」と話題になっています。 この頃、清子は職業として本格的にやきものをやっていきとたいと考えるようになります。 やがて電気窯ではなく穴窯を使って本物の信楽焼を作り出したいと考え始めた清子は、夫とともに自宅に半地上式の穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」を完成させます(34歳)。 離婚 そして「信楽自然釉」完成 本格的に陶芸家として歩み始めていた清子でしたが、賢一が中学生になった頃には夫との関係が冷え切ってしまいます。 夫が別の女性(陶芸助手)と恋仲になり去ってしまったことから離婚をすると、母と二人の子供との困窮生活が始まります。 それから間もなくのこと。 近所にあるかつての「寸越窯跡」で太古の美しい自然釉を残す陶器の破片を見つけた清子は、この自然釉に魅せられ、再現を目指すようになります。 信楽の土を使い試行錯誤を重ねた後、ついに清子は「信楽自然釉」と名付けることになる美しいやきものを完成させます。 窯焚きを手伝ってくれた近所の人にこれを見せたところ口コミで評判となり、NHK番組「土と炎と私」「新日本紀行」で紹介されるなど、清子の「信楽自然釉」はすぐに全国へと広まっていきます。 女性が窯場に入ると「穢れる」として嫌がられた時代。 清子は全国の女性陶芸家に勇気を与える存在となり、女性陶芸家の第一人者として、活躍を続けることになるのです。 長男・賢一が白血病に 陶芸家として成功を得ていた清子でしたが、人生の大きな転機が訪れます。 1990年(平成2年)、29歳になった息子・賢一が慢性骨髄性白血病を発病してしまうのです。 清子と同じ陶芸家になり、天目茶碗を極めていくという志を持っていた賢一。 しかし作陶中に倒れてしまうと、長く苦しい闘病生活を続けることになります。 まだ公的な骨髄バンクが発足していない時代のこと。 愛する息子の余命が二年半だと医者に告げられた清子は、近親者や友人だけでなく、幅広いドナー探しに奔走することになります。 友人や地元の協力者たちが「神山賢一君を救う会」「神山賢一君支援団体連絡協議会」を発足させると、賢一だけでなく白血病に苦しむ他の患者の命も助かるようにドナーを広く探していこうという機運となり、県内のほかの「救う会」と連携を取りながらこの活動は爆発的な広がりを見せています。 闘病生活 骨髄バンク普及の願い 清子は次々に「母子作陶展」などを開催し、広く骨髄バンクの必要性を訴えていきます。 こうした活動で多くのドナー希望者が集まったものの、賢一とHLAが符合する人は見つかりません。 結局賢一は、HLAが完全には合っていない清子の妹・静子から骨髄の移植を受けることになります。 骨髄移植を受けた賢一は苦しみながらも少しずつ回復し、一時は退院を考えるまでに元気になっています。 1991年12月には「骨髄移植推進財団」が設立され、清子も未来への希望を感じて大いに喜んでいます。 再発、そして息子との別れ… しかし、その後に賢一は白血病を再発。 清子は弟子となっていた女性・牛尼瑞香と交代で賢一の看病を続けますが、賢一は死の恐怖に苦しみぬいた末に亡くなってしまいます。 31歳という若さでした。 その後、清子は陶芸家としての活躍はもちろんのこと、「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の会長として弟子の瑞香とともに賢一の遺志を継ぎ、長年に渡り骨髄バンク普及のボランティア活動に従事し続けています。 賢一さんの闘病、迫りくる死への恐怖、そして息子の病気と向き合う母・清子さんの葛藤、プロの陶芸家としての矜持など、苦しくせつない闘病と陶芸の日々が書かれています。

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