カフカ ペスト。 新型コロナの予言に満ちた小説『ペスト』が示す感染症の終わり|古典にすべてが書かれている。|坂口孝則

「リウーを待ちながら」―アウトブレイクをリアルに描ききった医療サスペンス全3巻

カフカ ペスト

今回取り上げる古典:(アルベール・カミュ) 伝染病に翻弄される人々を描く『ペスト』 新型コロナウィルスが世界各地に広がり、深刻な影響を及ぼしている。 人間はウィルス感染症とつねに闘ってきた。 今回も、どれだけの犠牲が払われるかはわからないものの、いつかは終息するはずだ。 しかし、終息といっても、その渦中にいる私たちにとっては、その「いつか」こそが重要なのに、わからない。 だからこそ未来が見えなくなり、さらに、恐懼(きょうく)するしかない。 ところで、現在、全世界で自宅待機が命じられるなか、出版社では電子書籍が好調だという。 ひとびとは、家にいて時間を持て余すしかなく、そうすると、映画か読書が注目される。 そこで、一つ紹介したい本がある。 それは『異邦人』でも有名なアルベート・カミュの『ペスト』だ。 不条理の哲学で有名なカミュの作品は、いまだに輝きが衰えることはないが、そのなかでもとくに『ペスト』は、新型コロナウィルス拡大の現在においていろいろな示唆に富んでいる。 カミュという偉大なる作家が、ペストという伝染病をモチーフに、それに翻弄されるひとびとの心理や変化、人間性というものにいたるまでを予言した作品と映るからだ。 官僚たちの初期反応は2020年と同じ この作品はアルジェリアの要港で起きる物語だ。 平凡な街に変化が訪れるのは、ある医師が死んだ鼠に気づくところからはじまる。 そして、その鼠の死骸は街のいたるところで発見され、異常なほどに膨れ上がっていく。 行政は、幾百もの死骸を焼却するが、その終わりがない。 そのうち、医師のもとには、おかしな症状を見せる患者が急増していく。 高熱で頸部のリンパ腺が腫脹し、脇腹に斑点ができ、もがき苦しむ患者たちだ。 そして、彼らは、次々と死亡していく。 ペストが街を蝕もうとしていた。 <天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。 この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。 しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった> カミュの描く官僚たちの、初期段階での反応が興味深い。 <「いかにも、市民が不安になっていることは事実だ」と(中略)「それに、おしゃべりってやつが万事大袈裟にしちまうんでね。 ただし目立たないようにね』って。 もっとも、知事は結局空騒ぎだと確信しておられるんだがね」> 『ペスト』でも描かれていた、錯乱した患者が街に飛び出すくシーン この小説には医療崩壊に至るさまも書かれているが、そこはあえて省略し、私は人間の心理的な記述に注目したい。 小説では、舞台の街が閉鎖される。 家族や愛する者たちとの別離。 文通もできない状態。 その環境は行政に向くことになる。 <彼らの最初の反応は、たとえば、施政当局に罪を着せることであった>。 そして、日々のようにペストによる死者数が発表されるようになったが、 <市中で誰一人、ふだんのときには毎週何名ぐらいの人が死んでいるものなのか、知っているものはなかった>。 さらに、事態の深刻さに人々が気づいたあとのエピソードも興味深い。 <あるカフェが「純良な酒は黴菌を殺す」というビラを掲げたので、アルコールは伝染病を予防するという、そうでなくても公衆にとって自然な考え方が、一般の意見のなかで強まってきた>。 <また別のところでは、ハッカのドロップが薬屋から姿を消してしまったが、それは多くの人々が、不測の感染を予防するために、それをしゃぶるようになったからである>。 これは2020年の出来事だろうか。 また、このような記述があるのには、驚かざるを得ない。 <ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、おれはペストにかかったとわめきながらその女を抱きしめた>。 これは2020年の出来事だろうか。 また、現在では、新型コロナウィルスのPCR検査による。 偽陰性(陰性ではないのに陰性とされること)や偽陽性(陽性ではないのに陽性とされること)の問題がある。 検査を抑えたい医療関係者。 しかし、検査をしてほしい、という一般人。 この小説にも、医療従事者と一般人が見解で対立するシーンがある。 一般人が街を抜け出し恋人に会いたいと懇願する箇所だ。 <「証明書をひとつ書いていただけないかどうか(中略)、僕が問題の病気にかかっていないことを確認するという意味での証明書なんですがね。 」(中略)「僕はその証明書を書いてあげることはできません。 (中略)あなたが僕の診療室を出た瞬間から県庁に入る瞬間までの間に病毒に感染することがないとは、僕には保証できないからです(中略)。 この町にはあなたのようなケースのものが何千人といるんですよ。 しかしその人たちを出してやるわけにはいかないんです」> 人間はずっと変わっていないのかもしれない ペストについて、なすすべもなくなった人びと。 そこで宗教家が、信者にむかって説教をするのだが、このくだりも大変に人間の変わらぬ何かを見せてくれるようだ。 <「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。 心正しき者はそれを恐れることはありえません。 (中略)あなたがたは今や罪の何ものたるかを知るのであります。 (中略)皆さんを苦しめているこの災禍そのものが、皆さんを高め、道を示してくれるのであります」> <「われわれは神を憎むか、あるいは愛するか、選ばねばならぬからである。 そして、何びとが、神を憎むことをあえて選びうるであろうか?」> 東日本大震災と新型コロナウィルスを比較する向きもあるが、カミュの想像力は恐ろしいほどで、登場人物にこう語らせている。 <「まったく、こいつが地震だったらね! がっと揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……。 死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。 ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかわっていない者でも、胸のなかにそいつをかかえているんだからね」> カミュは、現代を見つめていたようだ。 いや、それは正しくなく、人間というものがずっと変わっていないと教えてくれているのかもしれない。 ペストは終わった。 新型コロナはどうなるか? さきに引用した宗教家がどうなるか。 これは実際の小説を読んでもらいたい。 私も、多くの方がそうであるように、新型コロナウィルスの影響がいつ軽微になるのか、不安をいだいている。 けっきょく、情報番組が語ることは、どこでもいっしょで、手洗いとうがいと、人混みを避けることしかない。 インフルエンザも、新型コロナウィルスも、罹患するという意味では被害者だが、知らぬ間に自分が加害者になりうる可能性を有している。 それがさらに不安を加速させていくのだ。 できるだけのことをやっていくしかない。 <引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。 自然なものというのは、病菌なのだ。 > たゆまぬ市民の注意と、そして、代えがたい犠牲の重なりの中で、ゆっくりと、ゆっくりと、終結の音が聞こえてくる。 死亡者は減っていき、安堵の雰囲気が広がる。 市民は、鼠が元気に走り回るさまを見つける。 しかし、急激に安穏とした空気が広がるわけもなく、不安もじれったいほどの速度でしか払拭されていかない。 そしてついに、街はペスト終結の宣言をおこなう。 <暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上がった。 全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた> この小説は現代に通じる人間心理を書く。 災害に襲われながら、それが通り過ぎるとなんら教訓を引き出そうとしない「懲りない」人間たちを、突き放すでもなく、諦観するでもなく、ただただ冷静に記述していく。 その冷静さが不気味なほどに読むものを恐怖させる。 終結をただただ祝うものたちは、それまでの犠牲をすべて忘れている。 死んでいった男女を思い返すこともない。 しかし、それが皮肉なことに人間の強みであり、罪のなさであり、人間性なのだ。 さらにこの小説は、単なるハッピーエンドにもしない。 街中が歓喜に包まれるかというと、そう単純なものとしても描かれない。 終結を祝うものはいる。 いっぽうで、大切な人間を失ったもの、なによりも、平和を喪失した人びとの欠落感とともに描かれる。 そして、小説はこのように終わる。 <おそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを> 私たちは新型コロナウィルスが静まったあと、なんらかの教訓を引き出すだろうか。 関連キーワード.

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カミュ「ペスト」を読みました(読書感想文フル)

カフカ ペスト

初版本 作者 国 言語 ジャンル 、小説、小説 発表形態 書き下ろし 刊行 6月 受賞 クリティック賞 訳者 日本語訳刊行- の『』とともに代表的な文学として知られる。 カフカの『変身』は不条理が個人を襲ったことを描いたが、カミュの『ペスト』は不条理が集団を襲ったことを描いた。 この『ペスト』で描かれる不条理はのである。 カミュは、で人口の3割以上が死亡したペストを、不条理が人間を襲う代表例と考え、自らが生まれ育ったのフランス領を舞台にしたこの小説を書いた。 物語は、フランスのであるの市をペストが襲い、苦境の中、団結する民衆たちを描き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。 医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物たちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。 語り口は、個々のセンテンスが複数の意味を内包し、その一つが現象的なおよび人間の条件の寓意である点で、の小説、とくに『』に通じるものがあると言われている。 カミュのアプローチは非情で、語り手である主人公は、自分たちは結局何もコントロールできない、人生のは避けられないという考えを力説する。 カミュは不条理に対する人々のさまざまな反応を例示し、いかに世界が不条理に満ちているかを表した。 なお、この小説は架空のものであり、オラン市で実際にペストが発生したわけではない。 ドキュメンタリー風に描かれている。 あらすじ はじまりは、リウーを階段でつまづかせた一匹の死んだだった。 やがて、死者が出はじめ、医師のリウーは死因がであることに気付く。 新聞やラジオがそれを報じ、町はパニックになる。 死者の数は増える一方で、最初は楽観的だった市当局も対応に追われるようになる。 やがて町は外部と完全に遮断される。 脱出不可能の状況で、市民の精神状態も困憊してゆく。 ランベールが妻の待つパリに脱出したいと言うので、コタールが密輸業者を紹介する。 コタールは逃亡者で町を出る気はなかった。 パヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいで悔い改めよと説教する。 一方、リウー、タルー、グランは必死に患者の治療を続ける。 タルーは志願の保険隊を組織する。 ランベールは脱出計画をリウー、タルーに打ち明けるが、彼らは町を離れる気はない。 やらねばならない仕事が残っているからだ。 リウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中だということを聞かされたランベールは考えを改め、リウーたちに手伝いを申し出る。 少年が苦しみながら死んだ。 それも罪のせいだと言うパヌルー神父に、リウーは抗議する。 確かに罪なき者はこの世にはいないのかも知れない。 神父のパヌルーもまたペストで死んでしまうのだから。 災厄は突然潮が退いたように終息する。 人々は元の生活に戻ってゆく。 ランベールは妻と再会でき、コタールは警察に逮捕される。 流行は過ぎたはずなのに、タルーは病気で死んでしまう。 そして、リウーは療養中の妻が死んだことを知らされる。 市中はペスト終息であちこちから喜悦の叫びが上がっている。 しかし語り手は、ペスト菌は決して消滅することはなく生き延び、いつか人間に不幸と教訓をもたらすために、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに現れるだろう、自分はそのことを知っている、と述べて物語を締めくくる。 、「」は主に文学作品を扱うフランス大手出版社。 ネット上で確認できる。 「カミュの名作『ペスト』を高橋源一郎が読み解く!」NHK 参照 小野文恵アナ:私、本当にアルジェリアのオラン市でペストが大流行したのかと思って、だまされてしまったぐらい…。 高橋源太郎:ドキュメンタリーのタッチで書かれているんですね。 小野アナ:架空のお話なんですが…。 高橋:とは思えないですよね。 新潮文庫版は69年刊行。 増刷は年平均5千部程度が、2020年2月以降だけで30年分相当の15万4千部を増刷した。 時事通信 2020年4月8日 2020年4月9日閲覧。

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「リウーを待ちながら」―アウトブレイクをリアルに描ききった医療サスペンス全3巻

カフカ ペスト

登場人物紹介やあらすじは前回書いているので省略します。 ひとがバンバン死ぬるのでちょっときついけれど素晴らしい一冊です。 ================== 前回の記事でこんな感じで紹介文を書いてみたので再掲。 会を風刺しつつ、風のエピソードを並べることで群集心理が鮮烈に現れる。 これでもかと客観的視点をとる形で読者の安易な共感を許さず、病魔に覆われた街を俯瞰で見せつける。 この不条理ひしめく世界で人間はまたいかにあるべきか・・・その問いに対してひとつのこたえが提示されるが、それを批判するのではなく否定する形で「反抗的人間」とは何かを描き切った渾身(かどうかは知らないけど)の傑作(なのは間違いありません)。 自分では結構うまくまとめられたと思っているのだけれど、どうかなー。 ちなみにの裏はこんな感じ。 のオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。 ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。 外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。 「悪」と闘うではなくて、正確には、「悪とされるもの」との闘い、だよなと重箱の隅をつつくような違和感を持った。 そして、この違和感はこの小説においては結構重要なような気がする。 (だからこそ新潮はわざと「」をつけているのだと思っている) 小説の冒頭と末尾に、「筆者」の言葉が書かれる。 筆者は作者のではなく、その原稿を書いたという設定を持つ者だ。 「筆者」が誰かということは作中においても「すぐにばれちゃうと思うけど」と注釈が入らなくてもいい位にバレバレなのだけれど、とにかく彼は筆者として「歴史家のごとく」ふるまう。 だから、読者に与えられるのは神の視点だ。 この小説は俯瞰しか出来ないようなつくりになっている。 勿論並べられた場面場面で随時登場人物に降りて行って彼に重なることもできるが、常に求められるのは第三者としての立ち位置だ。 実のところ、世界に善悪なんてものは存在しない。 不条理は、その観測者の発見によって生み出されるが、それを悪と呼ぶのは早計だと思う。 ペストや大や台風それ自体は、人によっては悲劇となるものだけれども、それ自体は決して「悪」ではない。 もっと踏み込んで誤解覚悟で書くなら、の台頭すらそれ自体を悪とは呼べない。 その政権を選んだ乃至選ばざるを得なかった民衆の存在抜きに歴史は語れないからだ。 天災の場合も人災の場合も、その結果生じた「喜ばしくない結果」は「悪」ではなく、「当時防げなかった事態」即ち「過ち」に過ぎない。 罪のない人々の死や悲劇や諸々をひとは不条理と表現する。 不条理とは、道理にあわないもの、つまり「ありえないもの」だ。 その災い自体が悪いものではない。 つまり不条理との戦いという言葉は、「そのこと」を「自然」と見なす勢力との戦いを意味する。 WW2の収束にが不可欠だったとする見解を是とせず「あれは過ちでやってはならないことだった」と言わしめることが不条理への戦いであって、何も誰かへの復讐やらこの作でいえばの撲滅を指すのではないんだと思う。 そして、不条理は誰かによって発見されない限り「異常なし」となり歴史は繰り返す。 その繰り返しの輪をどこかで切るために防ぐために必要なのが事実関係の検証だ。 それが歴史家の視点だと思う。 歴史を紐解いた者が「これは不条理である」と認識することで、世の中は少しずつ変わっていくのだ。 だから本書において読者は徹底的な神の視点に立たされる。 災害が起きたときに、人々はどうふるまうか?作中描かれるいくつもは警告でも賛美でもあるし、最近見たの後の日本の風景そのままのものも少なくなかった。 美しい点も、眉をひそめる点もあわせて。 では当事者としてはどのような対応をするべきなのか?どう生きるべきなのか? 作中、この問いのこたえは二人の人物によって提示される。 無駄口を叩かず、誰に対しても平等に振舞い、街のひとをとして冷静に観察を続けた。 前回の半分までの感想文で語った場面だが、リウーさんは「ペストと戦う唯一の方法は誠実さ」だという。 自分の職務を果たすこと、だと。 そのためには、共感する心に鍵をかけてしまう必要がある場合もある。 いちいち共感していたら、ペスト患者を非情にも家族から隔離する医師の仕事など出来ない。 彼は「人間はあらん限りの力で死と戦った方がいい」のだと、「必要なだけの傲慢さをもって」彼の患者を治していこうと奔走する。 病を治すことがその人にとって必要か否かは関係なく、彼は不治の病であるペストで患者を死なせまいと戦いを続け、そして敗北を続ける。 それが医者である彼にとっての誠実さだ。 「僕は自分で敗北者のほうにずっと連帯感を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。 僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。 聖者であることよりも、人間であることのほうが難しいというのだ。 いいほうに立つことはある意味では簡単だからだ。 全ての人に共感することは不可能だからだ。 罪のない子供をバンバン殺しているペストを喜ぶことはどうしてもできないのだ。 当たり前だ。 つまり、聖者という境地は人間が到達できるものではないということもここに示唆されている。 目指すことは出来るとしても。 しかし、もし勝負に負けたら、立派な終わり際をしたいと思うんだ」 リウーは身をかがめて、その肩をしめつけた。 「だめだよ」と、彼はいった。 「聖者になるには、生きてなきゃ。 「これでいいのだ」というセリフで。 「ペストで人が死ぬことは仕方ない」と言えないリウーさんにだけ、またひとつ黒星が増える。 リウーさんの戦いを際限なく続く敗北と断言する本書において、最期に読者に向けて差し出されるものは希望だ。 不条理に対して際限なく負け続ける戦いの中で何が手に入るのか。 人間がかちうることのできるものは、知識と記憶であるという。 勝利宣言ではなく、後につづく者への伝言、遺言である。 筆者が記録した膨大な観察から、ひとつだけ具体例を挙げる。 あくまでも客観的に淡々と筆を進めようとする筆者の口調が突然熱を帯びる印象的なシーンがある。 筆者もやはり人間なのだと思わせる反面、ここほどを小憎たらしく思う場面はない。 グランさんは市役所で働く派遣のおっさんで、趣味で小説を書き、その言葉を一語一句延々と推敲する。 また、本職で得た統計の技術を使って保健隊の活動の裏方として従事する。 彼にとっては自分でも何か役立つのではないかと思って保健隊を手伝っているだけで、こんな仕事は誰にでも出来ると思っている。 かつ、ボランティアを始めたせいかどうか、本職の最中にも自分の趣味について考えてボーっとしてしまうことが増えて上司から散々に叱られるが、ボランティアの仕事中は集中して統計作業に励むことができる。 リーダーたるリウーさんは彼の仕事ぶりに熱く礼を言うが、グランさん本人はお口ぽっかん状態で「なんもですよ」とのたまう。 筆者はラジオから聞こえる当事者にはなりえない街の外の人の声に対抗させてこの小市民に敢えて光をあてている。 ラジオの声はで日本中が叫んだ「絆」の一文字に被って読めた。 街を応援するはず言葉によって皮肉にも本当のヒーローの姿が掻き消されてしまうと筆者は嘆く。 声によって消されることも厭わないヒーローもまた筆者の発見した不条理なのである。 「そのまま消えていいものか」と、彼のヒーローをサルベージすることも、小説の主題ではないかと思う。 それは普通の人間として生きることすら、誰かにとっての自覚なきヒーローとなりうるという示唆だ。 筆者はこの街で一体何が起こったのか克明に描ききり、目的を果たしたことを暴露してこの物語を終える。 ペストという単語に置き換わって何が入るかは、その国その時代で変わるだろう。 しかし作中の民衆の動きすなわち人間の動きは普遍的だ。 おそらくは、人間ってそういうものだよね、という全面的な人間賛歌をはうたっているのだ。 小説全部を通して感じ取れるのは、矮小かつ善良な、、人 間っていうのはさ、というのおっさんが高らかにうたう愛だ。 観察なしには全ての不条理はそのまま飲み込まれて忘れられていく。 ひょっとしたらそれで いいのかもしれない、全部ひっくるめて人間の営みであると考えれば、やはり不条理の発見はそれ自体が敗北なのだとも思う。 敗北しても立ち続ける、抗い続けることをその存在意義と自覚しているリウーさんがやはりこの小説の主人公なのだとわかった。 そしてともに戦った。 痛いほどにひとの気持ちがわかるとき、悲嘆しかできないとき、 わかるよ、でもね・・・ でもねの先は、言葉にされないでも本人には初めからわかっている。 一緒に悲嘆に首を振るのだ。 共感・理解、そして誠実さ。 負け続けても、不条理に対しては絶対に肯定をしないこと。 自分がおかしいと思ったこと(=不条理)に対して「これでいいのだ」と言わないこと。 そして、記録を続けることもひとつの戦い方だということ。 なんてストイックな、なんて愛に溢れた小説だろうと思う。 長くかかったけれど、読んでよかった。 すごく、よかった。 「人間が意気地なしになるような時刻が、昼夜ともに、必ずあるものだし、自分が恐れるのはそういう時刻だけだ」 =================== ちょっと急ぎ過ぎたか・・・それにしても真面目に話すの向いてない自分に参った。 だって言葉が出てこない。 といえるほどには時間をかけていない。 ぼんやり考える時間が長かったのは事実だし本と自分のそういう関係性を気に入っているところもあるけれども。 以下日記。 おそろしい本! リングか。 感情移入するひとを完全に間違えたか、そう思ったところで後の祭りだった。 実際、それは会社で回覧用紙と一緒に回っている病原菌由来のものにすぎなかった。 いずれにせよ楽しみにしていた休日が台無しになることは明白だった。 ふらつきながら訪れた近所の病院にはリウー先生はいなかった。 医師の質問にイエスと答えた数の種類だけの薬が処方された。 全身を襲う震えと喉の渇きに耐え兼ねてレモンちゃんは訴えた。 「不条理です」 リウー医師は無言のままうなづいた。 気をゆるめた瞬間死ぬってあんた自分で言ってたじゃないですか!と嘆いた読者は私だけではないはず。 いまリウー先生からありがたいお言葉が届きました。 「人類の救済なんて(略)大それたことは考えていません。 人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです。 まず第一に健康です」 インフルエンザが流行っています。 とかも流行っています。 気をゆるめてはいけません。 手洗いうがいを励行しましょう。 まず第一に健康です(泣) denkilemon.

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