般若心経歌詞。 般若心経

初音ミクアレンジ「般若心経ロック」 (sm11998050) [動画記事]

般若心経歌詞

魔訶般若波羅蜜多心経 とらわれない こころ かたよらない こころ こだわらない こころ ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空(くう)のこころなり これは、薬師寺の管主であった故・高田好胤(こういん)師の言葉です。 般若心経は、よく読まれるお経ですが、その内容はあまりよく知られていません。 短いがゆえに難しいのです。 般若心経をみますと、漢字で書かれています。 お経はお釈迦さまの言葉ですので、インド地方の言葉で書かれているはずですが、これには理由があります。 唐の時代、玄奘(げんじょう)という若いお坊さんが遠くインドを目指して旅をしていました。 仏教の本場から経典を持ち帰るためです。 インドに着いた玄奘は、ぼう大な数の経典をそのまま書き写して唐の都に戻り、自分の国の言葉に翻訳しました。 その後、中国語に翻訳されたこれらのお経が遣唐使などで日本に伝わったのです。 それでは、般若心経の題名を見ていきましょう。 お経の題名のことを「経題(きょうだい)」といいます。 経題が分かれば、そのお経が分かるというくらい重要なものです。 摩訶(まか)……大いなる(すぐれた) 般若(はんにゃ)……智慧(ちえ) 波羅蜜多(はらみた)……彼岸にいたる 心経(しんぎょう)……大切な教え よって、「大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え」が般若心経であるということです。 先ほど、お経は翻訳されたものだと書きました。 しかし、経題の中で「心経」以外の部分は、「マハー・パンニャ・パーラミター」という古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語)を、同じ読みをする漢字で当てたもので、漢字そのものに意味はありません。 これは、翻訳してしまうと意味が限られてしまったり、本来の意味がそこなわれてしまう恐れがあるため、もとの言葉をそのままにしておく必要があったからです。 さて、「般若は智慧のことで知識とは違う」といわれます。 江戸時代の名僧、至道無難(しどうぶなん)禅師は、「何もない所から出る智慧を般若という」と説明しました。 般若心経には「空(くう)」や「無(む)」という文字が多く見られます。 これは、「からっぽ」とか「何もない」という意味でありますが、仏教ではそのままでは終わりません。 「何もない状態」というのは、「何かが生まれる状態」でもあります。 容器に何かを入れるためには「からっぽ」にしなければなりません。 今まで自分をしばりつけていた価値観や経験から自由になるための心のはたらきを智慧というのです。 悩みや迷いのあるこちらの岸(此岸:しがん)から、それらのない向こう岸(彼岸)に渡る、と仏教では説かれます。 しかし、じつは彼岸も此岸も同じ世界なのです。 つまり、向こうに渡れば今度はこちらが向こう岸になるわけです。 そして、このことに気づくための智慧を教えるのが般若心経なのです。 ものごとを自由自在に考えることや物の見方を変えてみることの大切さを、お経を通じて学びましょう。 すべては変化していく お地蔵さまや阿弥陀さまなど、仏さまにはいろいろな姿があります。 これは、お釈迦さまの教えをあらわすために、後世の人が考えたものだからです。 仏像を見ますと、手の形がさまざまで、耳が大きく、立っていたり座っていたりします。 手の形は「印相(いんぞう)」といい、願いを聞き入れたり、恐れを取りのぞくなどの意味があります。 また、耳が大きいのは、人々の声をよく聞くためであるといわれています。 般若心経には、観自在菩薩(観世音菩薩のこと)が登場します。 観音さまは、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えをあらわす仏さまです。 智慧とは、今まで身についた知識や経験、価値観からはなれて、ものごとをありのままに見ていくことです。 般若心経は智慧の教えを説くお経ですから、自分の心を見つめて自在におさめるということで「観自在」と訳しました。 一方、慈悲には人の苦しみを自分の苦しみとして感じるという意味があるので、世間の音(声)を察するということで「観世音」と訳されました。 般若心経は、観音さまが「智慧第一」とよばれる弟子の舎利子(しゃりし:シャーリプトラ)をとおして、人々に説法する形式で教えが示されます。 観音さまは実在の人物ではありませんが、智慧の教えを説く仏さまとしてぴったりだと考えられたからでしょう。 お経では、お釈迦さまも観音さまも同じ存在なのです。 観自在菩薩 (かん じ ざい ぼ さつ) 観自在菩薩は、 行深般若波羅蜜多時 (ぎょう じん はん にゃ は ら みつ た じ) 自分勝手にものごとを見ないで、ありのままに正しく見るという「智慧の教え」を深く実践し、 照見五蘊皆空 (しょう けん ご うん かい くう) 「心や体のはたらきは、すべて永遠に変わらないものではなく変わり続けるものだ」と明らかにして、 度一切苦厄 (ど いっ さい く やく) あらゆる苦しみや災難から人々を救いました。 如来も菩薩もお釈迦さまをモデルにしたものですが、如来はさとりを開いた姿、菩薩はさとりを求めて修行する姿をあらわしています。 さとりを開いてしまうと人々から遠い存在になってしまうので、「人々を救うために、あえてさとりを開かない」という役割なのが菩薩という仏さまなのです。 五蘊(ごうん)とは、5つの集まりという意味で、人間の心と体をあらわしたものです。 (1)色(しき)……身体など目に見えるもの (2)受(じゅ)……喜びや苦しみなどの感情や、痛みなどの感覚 (3)想(そう)……花や動物など、物事のかたちを心に思い浮かべること (4)行(ぎょう)……何かをする、何かをしない、という意志 (5)識(しき)……知識や経験から学んだこと これらはすべて「空(くう)」、つまり変化するものである、と般若心経では説かれています。 変化こそが本当の姿 インドには、霊鷲山(りょうじゅせん)という山があります。 お釈迦さまは、ここで多くの説法をしました。 『般若心経』もこの山で説かれたと伝えられています。 お釈迦さまの説法は、病気や病人の体力に応じて薬を与えるのと同じように、相手の悩みや能力に応じて教えを説くものでした。 「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。 やがて、多くの人々がお釈迦さまの説法を聞くために、各地から集まってきました。 『般若心経』に登場する「舎利子(しゃりし):シャーリプトラ」も、そんな人々のなかの一人です。 もともと、舎利子はほかの人の弟子でした。 ある日、舎利子が道を歩いていると、おだやかな表情で落ちついた人がいることに気づきました。 ただ者ではないと思って「あなたはどんな修行をされてきたのですか。 」と話しかけてみると、次のように答えました。 「私はお釈迦さまの弟子です。 この世は偶然で成り立っているのではなく、原因があって結果があると考えるのが、その教えです。 」 これを聞いた舎利子は、お釈迦さまの弟子になり、「智慧第一」とよばれるまでになりました。 舎利子 (しゃ り し) シャーリプトラよ。 色不異空 (しき ふ い くう) かたちのあるものは、いつか必ずこわれたり、なくなったりしてしまい、それは実体のないものと同じである。 空不異色 (くう ふ い しき) また、実体のないものは、永遠にこわれることもなく、なくすこともないので、かたちあるものと同じように確かなものである。 色即是空 (しき そく ぜ くう) すなわち、目に見えるものは、変わらないようで変わり続けており、 空即是色 (くう そく ぜ しき) 変わり続けるものは、頼りないものではあるが、確かに存在しているものである。 受想行識 (じゅ そう ぎょう しき) 感覚や感情、意志や知識、経験といった心のはたらきも、 亦復如是 (やく ぶ にょ ぜ) また同じように、絶えず変わり続けるものであるが、それもまた心という確かな存在である。 「色(しき)」は目に見えるもの、かたちのあるものを表し、「空(くう)」は実体のないもの、変わり続ける状態を表します。 つまり、「色即是空」とは、「かたちあるものは変わり続けていくものだ。 」という意味です。 これは理解しやすいと思います。 どんなに大事にしていても、ものはこわれるし、若さや命も永遠ではありません。 世の中のすべての現象は絶えず変わり続けています。 難しいのは「空即是色」のほうで、これは「変わりゆくものこそ確かなものである。 」という意味です。 たとえば、人は年をとり、病気になり、死んでいきます。 例外はありません。 つまり私たちは、変わり続けていくもの(空:くう)です。 しかし、生まれてから今までの自分は、どれも同じ「自分」です。 年をとって、病気になって、死んでしまっても、自分であることに変わりはありません(色:しき)。 このように『般若心経』は、すべてのことは変化する存在であると示したあとで、その変化こそが、ものごとの本当の姿である、と説いていきます。 変化を受け入れ、ありのままに見よう 「柳は緑、花は紅(くれない)」という禅語があります。 ものごとをありのままに見ることの大切さを教える言葉です。 たとえば、ある絵画を見たとします。 すると、いろいろな感想を持つことでしょう。 技法はどうだとか、作者はどういった人なのかとか、いくらぐらいするのかとか。 絵そのものを、何も考えずにただ見るということは、じつに難しいことなのです。 ありのままに見ることができないということは、自分の都合でものごとを考えてしまうことにつながります。 『般若心経』では「ものごとは変化する」と、くり返し説かれています。 自分も他人もすべて変わり続けているのです。 にもかかわらず、「こうあるべきだ」という価値観にとらわれていると、自分の思いどおりにならないといって不満が増えてしまいます。 つまり、ものごとをありのままに見るということは、ものごとの変化を受け入れるということです。 変化を楽しむということなのです。 舎利子 (しゃ り し) シャーリプトラよ。 是諸法空相 (ぜ しょ ほう くう そう) このように、すべての存在は変わり続けているのであり、変わり続けている姿こそが本当の姿である。 不生不滅 (ふ しょう ふ めつ) だから、ものごとには始まりもなければ終わりもなく、 不垢不浄 (ふ く ふ じょう) きたないだとか、きれいだとかいった価値観もなく、 不増不減 (ふ ぞう ふ げん) ありのままなのだから、増えるということもなければ、減るということもないのである。 江戸時代の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、「人間とは本来、鏡のようなものである」と説きました。 鏡は、きれいなものも、きたないものも区別なく、ものごとをありのままに映します。 しかし、鏡そのものには何の変化もありません。 人の心も同じで、だれも生まれたばかりのころは、まっさらでした。 もともと何にもない、自由だった自分の心をしばりつけているのは、やはり自分自身なのでしょう。 是故空中 (ぜ こ くう ちゅう) こういうわけで、あらゆるものには実体がないという「空(くう)」の教えによると、 無色 無受想行識 (む しき む じゅ そう ぎょう しき) 目に見える姿はもちろん、目に見えない感覚や認識、意志や意識という心のはたらきも確かなものではなく、 無眼耳鼻舌身意 (む げん に び ぜつ しん い) 目や耳、鼻や舌、体や心といった感覚器官でさえも絶対ではないのである。 無色声香味触法 (む しき しょう こう み そく ほう) それはつまり、目に見えるもの、聞こえるもの、においや味、触れるもの、考えることもありのままでなく、 無眼界 乃至 無意識界 (む げん かい ない し む い しき かい) 自分の都合や感情、経験や記憶にもとづいて、いままで見てきたもの、聞いてきたこと、においや味、感触、考えたことは、じつは本当の姿ではないのかもしれないのである。 苦しみも「空」である 8月13日の盆の入りには夕方、お墓・家の玄関先(庭先)の順で火をたいて、ご先祖さまをお迎えし、16日(15日)の夕方には反対順に火をたいてご先祖さまをお送りします。 明かりを道しるべにするのです。 仏教では、暗やみ(迷い)をてらす灯明は智慧(ちえ)の教えをあらわします。 また、「無明(むみょう)」とは、ものごとに明らかでなく、暗やみの道に迷いこんでいる状態をいいます。 『般若心経』は、いままで見てきたように、「空(くう)」の教えを説いています。 空(くう)の教えとは、すべてのものは変わりつづけるということです。 これは、よいことも続かないけれども、悪いことも続かないということです。 また、悩みが次から次に出てきても、永遠に悩みが残るわけではありません。 しかし、自分の都合でものごとを見てしまうと、悪いことばかりに目がいって、不満がつのるばかりです。 よいことも悪いことも、ものごとをありのままに見ていくことが智慧の教えです。 無無明 亦無無明尽 (む む みょう やく む む みょう じん) 「空(くう)」の教えによれば、迷うということもなければ迷いが尽きてなくなる、ということもない。 迷ったり、迷いが消えたりをくり返していくのである。 乃至 無老死 (ない し む ろう し) さらに、老いるという苦しみも、死ぬという苦しみもない。 それは、年をとったり死ぬことは苦しいが、いつまでも年をとらなかったり、死なないということも、同じように苦しいからである。 亦無老死尽 (やく む ろう し じん) また、老いる苦しみや死の苦しみがなくなるわけではない。 老いや死という絶対にのがれられないものから、のがれようとするから苦しいのだ。 無苦集滅道 (む く しゅう めつ どう) 苦しいことを苦しいと自覚すれば、苦しみも、その原因もなくなり、苦しみをなくしたいと思うこともなく、苦しみをなくす方法も必要ないだろう。 無智亦無得 (む ち やく む とく) 苦しいことを苦しいとありのままに見ることができたならば、もはや智慧の教えなどという知識すら必要でなく、さとりを得るというこだわりもなくなるのである。 たいへん苦労することを「四苦八苦する」といいますが、これは本来仏教の言葉です。 まず四苦(しく)とは、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の苦しみです。 生まれること、年をとること、病気になること、死ぬこと・・・。 すべて思いのままになりません。 これら四苦に、さらに4つの苦しみを加えたものを八苦(はっく)といいます。 苦しみをなくすことはできないからです。 そこに書かれているのは、苦しみにとらわれる必要はない、ということです。 苦しみもまた「空(くう)」なのですから。 変わらないものは、みんなの中にある尊さ 菩薩(ぼさつ)は、正式には「菩提薩埵(ぼだいさった:ボディサットヴァ)」といい、さとりを求める者のことで、もともとはお釈迦さまの修行時代をあらわした言葉です。 『般若心経』に登場する観自在菩薩は、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えを示しており、「人々を救うため、あえてさとりを開かない仏さま」ですが、ここでの「菩薩」は修行する人々をさします。 この菩薩たちの修行する心がまえが「6つの行い」です。 (1)布施(ふせ)……与えること (2)持戒(じかい)……自分にきびしいこと (3)忍辱(にんにく)……たえること (4)精進(しょうじん)……努力すること (5)禅定(ぜんじょう)……心を落ちつけること (6)智慧(ちえ)……正しくものを見ること 一方、「仏(ほとけ)」は「ブッダ(目覚めた人)」という意味で、さとりを開いたあとのお釈迦さまの呼び名ですが、ここでは自分の中にある尊いものに気づいた人のことをいいます。 以無所得故 (い む しょ とく こ) さとりを得るということもないから、 菩提薩埵 (ぼ だい さっ た) 道を求める者たちは、 依般若波羅蜜多故 (え はん にゃ は ら み た こ) すべてのことは変わり続けるもので、その変わり続けている姿こそ本当の姿であると、ものごとをありのままに見ていく智慧の教えをもとに、日々の生活をしていくことで、 心無罣礙 (しん む けい げ) 心にこだわりがなくなる。 無罣礙故 (む けい げ こ) こだわりがなくなれば、 無有恐怖 (む う く ふ) 思いどおりにならないと自分を責めることも、こうでなければならないという不自由もなく、何も恐れるものはない。 遠離一切顚倒夢想 (おん り いっ さい てん どう む そう) ものごとをさかさまに見たり、夢のような考えをしたりすることからも遠く離れて、 究竟涅槃 (く ぎょう ね はん) 迷いのない安らかな心になっていく。 三世諸仏 (さん ぜ しょ ぶつ) また、過去・現在・未来・いつの時代にも、自分とはこうだと言い切れないものであり、それこそが本来の自分(仏)なのだとありのままに見ていく人々は、 依般若波羅蜜多故 (え はん にゃ は ら み た こ) やはり智慧(ちえ)の教えを実際に行っているので、 得阿耨多羅三藐三菩提 (とく あ のく た ら さん みゃく さん ぼ だい) このうえなく正しいことで、みんなに等しくあてはまること。 つまり、すべてのことは変わり続けているが、そのなかにも変わらないものがあること、すなわち誰にも尊い「こころ」、尊い「いのち」があることを知っているのである。 人は、何も持たずに生まれてきます。 「こころ」も「いのち」も、自分の力で手に入れたものではありません。 与えられたものです。 そして、そんな尊いものが自分だけでなく誰にもあるのだ、ということに気づくために「6つの行い」をするのです。 尊さは「ひとり」では分からない インド地方で生まれた仏教は、時代とともに各地に広まりました。 そのうち、インドからシルクロードを経て中国、日本と伝わった「北方仏教」と、海をこえてタイやミャンマーなど東南アジアに伝わった「南方仏教」の二つに分けられます。 この二つの仏教のちがいは、だれが教えによって救われるかです。 修行したものだけが救われるのが南方仏教、みんなを救おうというのが北方仏教です。 仏教では、「さとり」を乗り物にたとえ、一部の人しか乗る(救う)ことのできない仏教を「小乗(しょうじょう)仏教」、多くの人々を乗せる(救う)ことができる仏教を「大乗(だいじょう)仏教」といいます。 日本に伝わったのは大乗仏教です。 もともと、お釈迦さまが亡くなったころの仏教は小乗仏教の考え方でした。 長い年月を経て生まれたのが大乗仏教の教えです。 「般若心経」にも、自分だけでなく、みんなを救おうという考えが説かれています。 お釈迦さまもさとりを得たあと、人々に法を説きつづけました。 故知般若波羅蜜多 (こ ち はん にゃ は ら み た) だから知るのである。 すべては変わりつづけ、また変わることがないという智慧の教えは、 是大神呪 (ぜ だい じん しゅ) すばらしい力を持つ言葉であり、 是大明呪 (ぜ だい みょう しゅ) 暗やみを照らす言葉であり、 是無上呪 (ぜ む じょう しゅ) この上ない言葉であり、 是無等等呪 (ぜ む とう どう しゅ) 他と比べるものがない言葉であり、 能除一切苦 (のう じょ いっ さい く) すべての苦しみを取りのぞくものであり、 真実不虚 (しん じつ ふ こ) その教えは真実であって偽りではないことを。 故説般若波羅蜜多呪 (こ せつ はん にゃ は ら み た しゅ) だから、智慧の教えを実践する言葉を説くのだ。 即説呪曰 (そく せつ しゅ わつ) すなわち、その言葉を説いていうと、 羯諦 羯諦 (ぎゃ てい ぎゃ てい) 「私はさとりの岸に着いた。 私によって他の人もさとりの岸に着いた。 」 波羅羯諦 (は ら ぎゃ てい) 「むこうにあるさとりの岸に着いた。 」 波羅僧羯諦 (は ら そう ぎゃ てい) 「みんな一緒にさとりの岸に着いた。 」 菩提薩婆訶 (ぼ じ そ わ か) 「こうして私のさとりは完成した。 」 般若心経 (はん にゃ しん ぎょう) これが智慧の大切な教えである。 人は苦しいことがあると、自分だけが悩んでいるように考えてしまいます。 しかし、悩みのない人などいません。 苦しみは自分だけのものではないのです。 そして、自分の苦しみを見つめることが、他人の苦しみに気づくことにつながり、悩みを分かちあうことで、お互いに救われるのではないでしょうか。 <おわり>.

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般若心経の内容全文と解説まとめ|知れば心が楽になる「空」の思想|葬儀・葬式なら【よりそうのお葬式】

般若心経歌詞

濁流の如く流れ行く日常を流されるままに過ごしていると、ふと私はこんなことをしてていいのだろうか、などと我に帰ることがあります。 こんなことをしてていいのだろうかといいつつ眼の前の洗い物や食事の準備や子供の世話などに追われて、気が付くともう寝る時間なんてのが日常なわけですね。 我が家には就学前の息子が2人いて、そのやかましさたるや 「おさるのジョージが家の中に2匹いるなあ」と他人事のように遠い目をして呟いてしまうくらい。 自分の子供なので可愛いのは当たり前なんですが、常になんらかの音(声やらおもちゃの音やら飛んだり跳ねたりする地響きやら)を出していて、音を出している間は 「やかましさ>可愛さ」なんです。 でもって常に音を出しているので常に 「やかましさ>可愛さ」なのです。 お子さんをお持ちのご家庭なら分かって頂けますよね?この感じ。 寝てる時はすごく可愛い。 そんな喧騒の中ふと我に返った瞬間に年上の友達と会話をしていたのですが、その友達に 「般若心経、おすすめよ」とおすすめされたのです。 その時は 「般若心経なんて年配の人が聞くんでしょ」とか 「ふーん、おすすめなのね」くらいにしか思わなかったのですが、何の気なしにiPadで検索したのです。 その時にたまたま見つけた動画がこちらのキッサコさんの「般若心経コーラスver. 」だったのですね。 キッサコ「般若心経」歌詞と息継ぎ キッサコさんの…というものでもないのですが、般若心経のふりがな付きの歌詞です。 歌詞 摩訶般若波羅蜜多心経 まかはんにゃはらみたしんぎょう 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじー しょうけんごーうんかいくう 度一切苦厄 舍利子 色不異空 どーいっさいくーやく しゃーりーしー しきふーいーくう 空不異色 色即是空 空即是色 くうふーいーしき しきそくぜーくう くうそくぜーしき 受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相 じゅーそうぎょうしきやくぶーにょーぜー しゃーりーしー ぜーしょーほうくうそう 不生不滅 不垢不浄 不増不減 ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょう ふーぞうふーげん 是故空中 無色 無受想行識 ぜーこーくうちゅう むーしき むーじゅーそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 むーげんにーびーぜっしんい むーしきしょうこうみーそくほう むーげんかい 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 ないしーむーいーしきかい むーむーみょう やくむーむーみょうじん 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 ないしーむーろうしー やくむーろうしーじん むーくーしゅうめつどう 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 むーちーやくむーとく いーむーしょーとくこー ぼーだいさったー 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 えーはんにゃーはーらーみったーこー しんむーけいげー むーけいげーこー 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 むーうーくーふー おんりーいっさいてんどうむーそう くーきょうねーはん 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 さんぜーしょーぶつ えーはんにゃーはーらーみったーこー とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 こーちーはんにゃーはーらーみったー ぜーだいじんしゅー ぜーだいみょうしゅー 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 ぜーむーじょうしゅー ぜーむーとうどうしゅー のうじょーいっさいくー 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 しんじつふーこー こーせつはんにゃーはーらーみったーしゅー そくせつしゅーわつ 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじーそわかー 般若心経 はんにゃーしんぎょう 息継ぎ 般若心経はそもそもお経なので、息継ぎの場所が厳密に決められてはいません。 どこで息継ぎをしても自由なのですね。 私は文節で区切るようにしています。 動画を見ていても、キッサコさんはどこで息継ぎをしているのかよく分かりませんね。 キッサコ「般若心経」の覚え方 スポンサーリンク これはもうひたすら聞いて声に出すだけです。 私はiPadに、購入したキッサコさんの 「 」のmp3を入れて、自家用車での移動時や家で洗い物をする時などに聞きながら歌っています。 あと洗い物している時に目に入る位置に、般若心経のふりがな付き歌詞を印刷して貼り付けています。 やっと80パーセントくらい空で歌えるようになりました。 般若心経の意味 どうせ歌う(唱える)ならある程度言葉の意味も知っておきたいところ。 般若心経の面白い現代語訳を見つけたのでご紹介しておきますね。 現代語訳 関西弁 般若心経の意味について詳しく解説したサイトもありましたが、読めば読むほどもう訳がわからないよ。 観音菩薩がブッダの弟子の 舍利子(シャーリプトラ)に教えを説く、という形で構成されている般若心経。 私には上の現代語訳が一番しっくりきましたね。 まとめ キッサコさんの般若心経を聞いたからと言って、忙しい日常に大きな変化があったりはしないのですが、聞いている間は 濁流が少しだけ穏やかになるような気がします。 初音ミクの般若心経ポップや般若心経ロックなどもありますし、人それぞれの好きな般若心経があってもいいんだなと思いました。 キッサコさんの般若心経のCDにも色々なバージョンが入っていて、好きなバージョンを繰り返し聞くのも有りかなと。 一周回って若い人にも人気の般若心経、良いですよ。 スポンサーリンク.

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般若心経の意味を分かりやすく解説!「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」の意味がついにわかる!

般若心経歌詞

『般若心経ロック』とは、による「 」、ひいてはの曲である。 概要 ? に対し、のを生かした、で疾走感のあるに仕上がっている。 は同様氏が担当。 に再され、氏の英訳・で『』として転生し、である「カナ」に収録された。 歌詞(というか経文) 説 摩訶波羅密多心経 ぶっせつ まかはらみたしんぎょう 観自在 行深波羅蜜多時 ざいぼさつ ぎょうじんはらみたじ 照見五蘊皆 度一切苦厄 舎利子 しょうけんごうおんかいくう どいっさいくやく しゃりし 色不異 不異色 即是色 しきふいく くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき 受想行識復如是 舎利子 是諸法相 じゅうそうぎょうしきやくぶにょうぜ しゃりし ぜしょうほうくうそう 不生不滅 不不浄 不増不減 是故中 ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう 色 受想行識 眼鼻舌身意 むしき むじゅそうぎょうしき むげんびにぜつしんい 色香味触法 眼界 至意識界 むしきうみそくほう むげんかい ないしむいしきかい 明 明尽 至老死 むむみょうやく むむみょうじん ないしむろうし 老死尽 苦集滅 智得 やくむろうしじん むくめつどう むちやくむとく 以所得故 菩提埵 依波羅蜜多故 しょとくこ ぼだいさつた えはらみたこ 心 故 有恐怖 しんむけげ むけ むうくふ 遠離一切倒夢想 究竟 おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん 三世諸 依波羅蜜多故 得耨多羅三藐三菩提 さんぜしょぶつ えはらみたこ とくあのくたらさんくさんぼだい 故知波羅蜜多 是呪 是大明呪 是上呪 是等等呪 除一切苦 こちはらみた ぜいだい ぜだいみょう ぜむじょう ぜむとうどう のうじょういっさいく 不虚 故説波羅蜜多呪 即説呪 つふこ こせつはらみた そくせつわつ 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提婆訶 ぎゃてい ぎゃてい はゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか しんぎょう 黄色先輩 後数日してされた。 をわかりやすくかみ砕き、のな書体で書き込まれたこのは、 後一年以上たつでも、絶えることなくによってされ続けている。 以下がその。 (0:02) でもに方法のだ。 (0:07) もっとを抜いて楽になるんだ。 (0:07) 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。 (0:12) この世はしいモンだ、 (0:) 痛みも悲しみも最初からっぽなのさ。 (0:) この世は変わり行くモンだ。 (0:) 苦を楽に変える事だって出来る。 (0:) 汚れることもありゃ背負い込む事だってある。 (0:) だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。 (0:24) この世がどれだけいい加減か分ったか? (0:) 苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。 (0:) 見えてるものにこだわるな。 (0:) 聞こえるものにしがみつくな。 (0:) 味や香りなんてだろ? (0:38) 何のアテにもなりゃしない。 (0:38) 揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。 (0:42) それが『』ってやつさ。 (0:42) 生きてりゃ色々あるさ。 (0:42) モノを見ないようにするのは難しい。 (0:42) でも、そんなもんその場に置いていけよ。 (0:42) 先の事はにも見えねぇ。 (0:) 理して照らそうとしなくていいのさ。 (0:) 見えない事を愉しめばいいだろ。 (0:46) それが生きてる実感ってヤツなんだよ。 (0:46) 正しくのは確かに難しいかもな。 (0:) でも、明るくのはにだって出来るんだよ。 (0:) としてコツがあるんだ、苦しんで必要なんてねえよ。 (0:) 愉しんでになれよ。 (0:) 全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな (0:) 適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。 (1:00) 勘違いするなよ。 (1:05) 非情になれって言ってるんじゃねえ。 (1:05) 夢や想や慈悲の心を忘れるな、 (1:08) それができりゃはどこにだってある。 (1:08) 生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。 (1:10) 心の余裕を持てばでもになれるんだぜ。 (1:13) このを覚えとけ。 短い言葉だ。 (1:16) 意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。 (1:18) 苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。 (1:18) もも全て認めちまえば苦しみはくなる、そういうモンなのさ。 (1:) 今までの前置きは全部忘れても良いぜ。 (1:24) でも、これだけは覚えとけ。 (1:26) 気が向いたらいてみろ。 (1:26) 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。 (1:26) いいか、かっぽじってよく聞けよ? (1:29) 『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては処にあり、全てを越えたものなり。 』 (1:) 『はその時うだろう。 全てはこの言に成就する。 』 (1:) 心配すんな。 (1:) クワガタPのマイリスト 関連項目•

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