ラフマニノフ ピアノ 協奏曲 第 2 番 楽譜。 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 第1楽章 ピアノ独奏版 Short Ver.(Chiharu K.編)

ピアノ協奏曲 第2番 Op.18 ハ短調/Concerto for piano and orchestra No.2 c

ラフマニノフ ピアノ 協奏曲 第 2 番 楽譜

ラフマニノフは生涯で4曲、ピアノ協奏曲を作ってるよ! ラフマニノフのピアノ協奏曲は第4番までありますが、そのうち3曲は亡命前のロシアで作曲してます。 最後の4番だけ亡命後のアメリカで作曲したものとなります。 特にピアノ協奏曲第2番は有名でピアノ協奏曲のジャンルにおいて最高傑作ともいえるほどの名曲です。 モスクワ音楽院を首席で卒業した頃につくったピアノ協奏曲第1番 ラフマニノフは1891年、18歳でモスクワ音楽院のピアノ科を首席で卒業しました。 首席で卒業した学生には金メダルが贈られるのですが、この年は次席にスクリャービンがいて、どちらも飛びぬけて優秀という理由から金メダルを分け合う形となりました。 ラフマニノフとスクリャービンは音楽の方向性は違えど(ラフマニノフは保守的、スクリャービンは前衛的)互いを認め合う仲だったそうです。 ピアノ協奏曲第1番はちょうどモスクワ音楽院を卒業した1891年に作られた曲となります。 その後1917年の亡命直前に大幅な改訂版を発表しました。 復活のピアノ協奏曲第2番(映画やのだめでも有名) ピアノ協奏曲第2番はラフマニノフにとって復活のきっかけとなった曲です。 モスクワ大学院を卒業後、ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を作曲し、1897年に初演を迎えるのですが残念ながら不評に終わります・・・。 原因は曲ではなく指揮者やオーケストラにあったとされてますがラフマニノフはこの件で大きく自信を失い、ピアノを弾けなくなってしまいます。 しばらく療養していたラフマニノフでしたが、友人に紹介してもらったヴィオラ奏者でもある精神科医の暗示療法によって、少しずつ自信を取り戻していき1900年頃から作曲を再開。 1900~1901年の間でピアノ協奏曲第2番を作り上げ、ラフマニノフのピアノの先生でもあり親戚でもあるジロティの指揮、ピアノ演奏はラフマニノフ自らの演奏で初演を迎え、見事大成功をおさめます。 ピアノ協奏曲第2番はラフマニノフ自身にとっても復活のきっかけとなった重要な曲ですが、ピアノ協奏曲というジャンルの中でも特に有名な曲で映画にもよく使われます。 有名なのが『逢びき』とマリリン・モンロー主演の『7年目の浮気』。 特に『逢びき』の方は至る場面でこのピアノ協奏曲第2番が使われています。 日本ではクラシック音楽を題材にしたマンガ『のだめカンタービレ』でも取り上げられています。 上の動画はその1シーンです。 絶頂期に書いた第3番、亡命後に書いた第4番 ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番の初演を成功させた後は順調に音楽家としての道を歩んでいきます。 1904年からはボリショイ劇場の指揮者に就任し、生活が安定していきましたが2年後の1906年には辞めてしまいます。 これはネガティブな事情ではなく作曲の仕事が増えてきたという嬉しい悲鳴によるものです。 ピアノ協奏曲第3番は1909年に作曲されました。 ピアニストとしても作曲者としてもノリにノッている時期に作られた曲です。 ピアノ協奏曲第2番ほど有名ではありませんが、この第3番もおすすめできる1曲ですね。 ラフマニノフは1917年のロシア革命の直前に亡命します。 ヨーロッパを1年ほど演奏で回り、その後は生涯アメリカで暮らすことになります。 アメリカでは作曲家というよりピアニストとして名を馳せ、演奏活動で忙しくてほとんど作曲活動を出来ていないのですがピアノ協奏曲第4番はラフマニノフがアメリカで作曲した数少ない曲の一つです。 ラフマニノフのピアノ協奏曲おすすめ動画 ピアノ協奏曲第2番 第3番(辻井伸行) 日本を代表するピアニスト、辻井伸行さんがソリストを務めるピアノ協奏曲第2番と題3番の動画です。 辻井さんのどこか優しさを感じさせる演奏にオーケストラの厚みのある演奏が加わり良い感じです!.

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【トランペット用無料楽譜】ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調より(From Rachmaninoff_PianoConcerto No2inC minor)Trumpet sheet music

ラフマニノフ ピアノ 協奏曲 第 2 番 楽譜

ラフマニノフは生涯で4曲、ピアノ協奏曲を作ってるよ! ラフマニノフのピアノ協奏曲は第4番までありますが、そのうち3曲は亡命前のロシアで作曲してます。 最後の4番だけ亡命後のアメリカで作曲したものとなります。 特にピアノ協奏曲第2番は有名でピアノ協奏曲のジャンルにおいて最高傑作ともいえるほどの名曲です。 モスクワ音楽院を首席で卒業した頃につくったピアノ協奏曲第1番 ラフマニノフは1891年、18歳でモスクワ音楽院のピアノ科を首席で卒業しました。 首席で卒業した学生には金メダルが贈られるのですが、この年は次席にスクリャービンがいて、どちらも飛びぬけて優秀という理由から金メダルを分け合う形となりました。 ラフマニノフとスクリャービンは音楽の方向性は違えど(ラフマニノフは保守的、スクリャービンは前衛的)互いを認め合う仲だったそうです。 ピアノ協奏曲第1番はちょうどモスクワ音楽院を卒業した1891年に作られた曲となります。 その後1917年の亡命直前に大幅な改訂版を発表しました。 復活のピアノ協奏曲第2番(映画やのだめでも有名) ピアノ協奏曲第2番はラフマニノフにとって復活のきっかけとなった曲です。 モスクワ大学院を卒業後、ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を作曲し、1897年に初演を迎えるのですが残念ながら不評に終わります・・・。 原因は曲ではなく指揮者やオーケストラにあったとされてますがラフマニノフはこの件で大きく自信を失い、ピアノを弾けなくなってしまいます。 しばらく療養していたラフマニノフでしたが、友人に紹介してもらったヴィオラ奏者でもある精神科医の暗示療法によって、少しずつ自信を取り戻していき1900年頃から作曲を再開。 1900~1901年の間でピアノ協奏曲第2番を作り上げ、ラフマニノフのピアノの先生でもあり親戚でもあるジロティの指揮、ピアノ演奏はラフマニノフ自らの演奏で初演を迎え、見事大成功をおさめます。 ピアノ協奏曲第2番はラフマニノフ自身にとっても復活のきっかけとなった重要な曲ですが、ピアノ協奏曲というジャンルの中でも特に有名な曲で映画にもよく使われます。 有名なのが『逢びき』とマリリン・モンロー主演の『7年目の浮気』。 特に『逢びき』の方は至る場面でこのピアノ協奏曲第2番が使われています。 日本ではクラシック音楽を題材にしたマンガ『のだめカンタービレ』でも取り上げられています。 上の動画はその1シーンです。 絶頂期に書いた第3番、亡命後に書いた第4番 ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番の初演を成功させた後は順調に音楽家としての道を歩んでいきます。 1904年からはボリショイ劇場の指揮者に就任し、生活が安定していきましたが2年後の1906年には辞めてしまいます。 これはネガティブな事情ではなく作曲の仕事が増えてきたという嬉しい悲鳴によるものです。 ピアノ協奏曲第3番は1909年に作曲されました。 ピアニストとしても作曲者としてもノリにノッている時期に作られた曲です。 ピアノ協奏曲第2番ほど有名ではありませんが、この第3番もおすすめできる1曲ですね。 ラフマニノフは1917年のロシア革命の直前に亡命します。 ヨーロッパを1年ほど演奏で回り、その後は生涯アメリカで暮らすことになります。 アメリカでは作曲家というよりピアニストとして名を馳せ、演奏活動で忙しくてほとんど作曲活動を出来ていないのですがピアノ協奏曲第4番はラフマニノフがアメリカで作曲した数少ない曲の一つです。 ラフマニノフのピアノ協奏曲おすすめ動画 ピアノ協奏曲第2番 第3番(辻井伸行) 日本を代表するピアニスト、辻井伸行さんがソリストを務めるピアノ協奏曲第2番と題3番の動画です。 辻井さんのどこか優しさを感じさせる演奏にオーケストラの厚みのある演奏が加わり良い感じです!.

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ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(2台ピアノ版):全音オンラインショップ

ラフマニノフ ピアノ 協奏曲 第 2 番 楽譜

クラシック音楽の傑作中の傑作として知られるラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」(作品18)。 作曲者自身の手による2台ピアノ用オリジナル版です。 イギリス映画「逢いびき」でBGMとして大変効果的に使用され有名になった名曲でもあります。 この楽譜はロシアのグートヘイリ社の初版本を元に校訂・編集された、ラフマニノフの演奏と作品の真価を正しく伝える楽譜です。 オリジナル版と同様、第1と第2ピアノの奏者が演奏しやすいスコア譜で書かれています。 もちろん第2ピアノのパートも作曲家自身の編曲によるものですが、この第2ピアノは元来オーケストラ部分の音響メモといった性格が強く、ピアノ曲として書き下ろされたものではありません。 この版ではより実用的に、かつオーケストラに近い響きを得るために、本楽譜の編者で作曲家の矢代秋雄氏が部分的に編曲しました。 これを切り取って実際に使用できるよう巻末に付録として添付しました。 演奏についての解説では、手の大きさや形など、ピアニストそれぞれの事情に合わせて最良の演奏ができるよう、運指や奏法の提案が複数紹介されていますので、専門家からピアノ愛好家まで広くご使用いただけるオリジナル版です。 この楽譜は約30年前迄全音が原出版社ブージー&ホークス社との契約により出版していた日本語版です。 日本の現代音楽界で重要な存在でありながら、40代半ばで急逝されました 矢代秋雄先生(19291976)による名著名版と言われているこの楽譜は当時原出版社からの解約の申し出により、多くの読者の方々から惜しまれつつ、やむを得ず絶版となりました。 2004年5月にラフマニノフ作品の著作権保護期間が解禁となり、ここに改めて再編集し復刊となりました。 長期間にわたり多くの方々に多大なご不便とご迷惑をおかけ致しましたことに深くお詫びを申し上げます。

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