明智氏。 【麒麟がくる】明智光秀は本当に土岐一族なの?

明智城(岐阜県可児市)の見どころ・アクセスなど、お城旅行と歴史観光ガイド

明智氏

Contents• 美濃国守護土岐氏 土岐氏は美濃国以外に 常陸・上総などの関東にも点在していました。 源頼国の子孫が美濃の土岐郡に居を構えたことから土岐氏が始まったとされます。 祖は、 土岐光衝と言う説が現在では有力とされています。 鎌倉時代には、頼朝の幕府成立に伴い御家人となった光衝は、そのまま美濃守護として美濃の統治をしていたと言う江戸時代の史料に残っていますが、その信憑性は低いそうです。 1221年の承久の乱では、美濃が主戦場になり、 後鳥羽上皇ともに土岐判官代の名が史料に書かれており活躍していたようです。 三代 光定の時には、 9代執権・北条貞時の娘を娶っていることから、幕府において土岐氏は有力な地位であったことが伺えます。 鎌倉時代をかけて土岐氏は、美濃国内で多くの庶流を定着させて、家紋にちなんだ【 桔梗一揆】と呼ばれる武士団を作りました。 その中に、 明智氏が含まれて居ます。 南北朝時代に最盛期を迎えた土岐氏 1324年に起きた 後醍醐天皇の討幕計画である 正中の変では、 土岐頼貞が活躍している事が太平記に残っています。 1331年の足利尊氏・新田義貞による 元弘の乱でも頼貞は味方し、南北朝の動乱でも尊氏と共に戦い、 美濃守護に命じられます。 こうして、土岐氏は足利家を支える美濃国で有力な武家となりました。 土岐頼貞から守護職を継いだ 頼遠は、合戦で活躍しますが傲慢な振る舞いが限度を超えて、光厳上皇に狼藉事件を起こし処刑される事が起きますが、 頼康の時代に足利尊氏親子に味方し戦功を上げると、美濃の他に尾張・伊勢の守護職を兼任するまでの大名と成長します。 この時、土岐氏は最盛期を向かえ、幕府の評定衆にも加えられ、幕府創業以来の宿老として確固たる地位を得ました。 三代将軍・義満による権力強化 土岐氏最盛期を作り上げた頼康が 1387年に死去すると、康行がその領地を継ぎます。 しかし、3代将軍・義満の将軍の 権力強化策の対象になり、足利一門である今川氏でさえその対象となりました。 この政策での土岐氏への処遇は、 美濃と伊勢の2カ国の領有のみで、 尾張は 実弟・満貞に分割されてしまいました。 この処遇に不満を持った康行に対し、将軍家により討伐を受けることになり、美濃守護職は 伯父の頼忠に与えられ、 土岐西池田 家が土岐氏の主流となりました。 伊勢の守護職を召し上げられ、美濃一国の守護となった土岐氏ですが、家を追われた康行が 1391年の 明徳の乱での奮闘が認められ 伊勢守護職に復帰しました。 この康行の系統は、 土岐佐保家と呼ばれています。 一方で、尾張守護の満貞は、卑怯な振る舞いがあったとして、尾張守護を剥奪されてその後、 斯波氏に守護職が継承されていくことになります。 こうして、足利義満の思惑通り、土岐氏の勢力は 尾張守護職を失い、 家を2つに分けられ大きく力をそがれることになりました。 とはいうものの、美濃守護職を継いだ 土岐 頼益は、武勇に優れ合戦でいくつも戦功を上げ、幕府七頭の一家として評定衆に列し、幕閣の重鎮としての地位を得ていました。 土岐康行討伐の際に、土岐氏の庶流が多く康行に付き従ったので、美濃守護職と頼忠の 土岐西池田家では、外様の国人衆の 富島氏と斎藤氏を守護代として重用するようになります。 その後、美濃国では守護代家の富島氏と斎藤氏が争い美濃全土を巻き込む内乱の美濃錯乱が起き斎藤氏が勝利し、以後美濃守護代は斎藤氏が独占して継承し、美濃の実権も握るようになります。 <スポンサーリンク> 斎藤道三の登場と土岐頼芸追放 1467年の 応仁の乱が起きると、土岐成頼は西軍に加わりました。 この乱で斎藤利永の弟・斎藤妙椿が活躍し美濃国の東軍を駆逐し、尾張・伊勢・近江・飛騨まで勢力を伸ばし、妙椿は西軍の重鎮に数えられるようになります。 この 斎藤妙椿は越前の 朝倉孝景と共に、この時代に守護代が守護の力を凌いだ下克上武将として有名な人物である。 1480年に守護代・斎藤妙椿が死去すると、二人の甥が争う 文明美濃の乱が起こり、土岐成頼は 1495年に、嫡子の政房を廃嫡して末子の元頼を跡継ぎにしようとし、政房派と元頼派とで家督争いが起きて政房派が勝利します。 政房が土岐氏を継ぐと、時期の当主に次男・頼芸に継がせるため嫡男・頼武派と争い1519年に勝利します。 しかし、斎藤氏庶流の長井長弘一派が頭角を現し、1530年には土岐頼芸を当主に据え、美濃の実権を握りだしました。 その後、 斎藤道三が登場し、お飾りに過ぎなかった美濃守護・土岐頼芸を追放し美濃土岐氏は滅びました。 頼芸の弟・治頼は 常陸江戸崎土岐家を継いでいたので、美濃を追われた頼芸は、現在の茨城県稲敷市あたりを治める弟のところへ身を寄せました。 後に、豊臣秀吉の小田原征伐の際に常陸江戸崎土岐家も領地を失うことになります。 美濃を追われた 土岐頼芸は、1582年まで生き抜き、その子供は頼次・頼元は旗本として江戸幕府に仕えることになります。 常陸江戸崎土岐家の治頼の子孫は、紀州徳川家に仕え吉宗が将軍になったときに幕臣となりました。 土岐氏と明智光秀 土岐氏には様々な分派が存在しますが、その一つに明智氏があり美濃明智荘にいたことから明智氏を名乗るようになったのが始まりです。 戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出現によって世に広く知られています。 しかし、戦国時代に限らず名前は一代で何回も変えることが少なくなかったので、明智光秀の父親の名前からして不確定な点が多いのも事実です。 史料でも、光秀の父を 光隆・光綱・光国の名が挙がっており、これらは同一人物だとされていますが、決定打にかけています。 それでも、土岐一族の明智氏から光秀が登場したことは確実視されています。 明智氏は、南北朝時代の 美濃国土岐頼貞の九男の 長山頼基子の末裔とされています。 斎藤道三が、土岐氏に対し下克上で美濃国を掌握すると、いち早くその傘下に入りお家存続をはかり成功しました。 織田信長に斎藤家が滅ぼされると、光秀が落ち延びたことで一族の滅亡が免れました。 その後の足跡は別の機会に書かせてもらいますが、江戸時代に上野沼田藩主になり大名復帰した土岐氏は明智氏の流れを汲むとされ、土岐家に残されている文章に光秀以前の明智氏を知る重要な史料となっているようです。 光秀の血筋で言えば、娘・ガラシャが細川忠興に嫁ぎ現在まで続いています。

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明智藪 明智光秀「絶命の地」はこんなところ 本経寺 小栗栖城 訪問方法など詳しく

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武家家伝_明智氏 明智氏 桔 梗 清和源氏土岐氏流 明智氏は、美濃の土岐氏の氏族で、美濃明智庄にいたことから明智氏を名乗るようになった。 戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出現によって広く知られるようになった。 しかし、それまでの歴代についてはほとんど明かではない。 そもそも明智光秀の父親の名前からして不確定なのだ。 『尊卑分脈』『続群諸類従』などの系図には、光秀の父を光隆とし、また光綱、また光国として一致しない。 もっとも戦国武将に限らず、人名は一代の間に何度も変えることはよく見られる。 ここでいう、光隆・光綱・光国は同一人物のことをいっているのかもしれないが、確定的ではない。 いずれにせよ、それらの系図では土岐一族の明智氏から光秀が出ていることは確実なようだ。 が、そうした考え方とは別に光秀を明智の出とはせず、まったく別のところからの出自のものが明智を名乗ったのだというものもある。 たとえば、進士信周という侍の二男であったとか、若狭国小浜の鍛冶師の二男であったとか、さらには御門重兵衛というものが明智姓を称するようになったとか異説についてはいろいろとみられる。 しかし、やはり美濃土岐氏の一族の出であったことは動かせないのではないだとうか。 光秀は、美濃を出て越前の朝倉氏に仕官する。 そこで朝倉氏を頼ってきていた足利義昭・細川藤孝主従と会い、義昭と織田信長の橋渡しを行い、以後二人に仕える形となり、信長が義昭を擁して上洛すると、村井貞勝らとともに京都の庶政に関与し、元亀二年には、近江坂本城主となった。 その頃には、義昭との関係はすでに絶たれていた。 やがて、天正十年六月、本能寺に織田信長を攻めてこれを殺し、信長の嫡男信忠も二条城に滅ぼした。 しかし、羽柴秀吉と山崎に戦い、敗れて近江へ逃れる途中、小栗栖というところで、農民の槍によって一命を落としたのである。 光秀の娘の一人は細川忠興に嫁ぎ、キリシタン洗礼名であるガラシャ夫人の名で知られている。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。 日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る… 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。

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【会期延長】特別展『~光秀の源流~ 土岐明智氏と妻木氏』|土岐市文化振興事業団

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生涯 [ ] 出自、生年、出身地、青年期 [ ] 清和源氏の支流 であるに生まれる。 父はの諸系図などでは、、、明智頼明など諸説がある。 また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている。 光秀は自身の出自に関する証言はほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。 この記述に従えば、光秀の祖先がに仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。 生年 生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。 ただし、後世の史料によるものとして、『』などによる元年()説、および『』による13年()説の2説がある。 また、近年その存在が広く紹介されるようになったの記録である『』 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年()となる。 また、江戸時代には6年()生まれとする説もあったという。 一方、は『』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い9年(1540年)以降と推定している (この場合、3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。 生誕地、幼少期の土地 生地は明智荘の 現在の広見・瀬田あたり)とも言われる。 少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている。 このほかに出生説もある。 井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いてを頼り、近江国で生まれた可能性を指摘。 同郡の佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。 岐阜県説や、後述する同県説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。 青年期 青年期の履歴は不明な点が多い。 光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族 で、土岐氏に代わって美濃の国主となったに仕えるも、2年()、道三・の親子の争い()で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。 その後、光秀はのを頼り10年間仕えたとも言われる。 越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状 がある。 『明智軍記』や『細川家記』(正式には『綿考輯録』)には、義景が光秀に五百貫の土地を与えた、とある。 明智の本流とされている土岐氏は美濃の出自であるが、尾張・越前は斯波氏が守護のため、両方に同姓の武士が住んでおり、縁故者がいた可能性はかなり高い。 朝倉側の史料に特に名前がでてこないところをみると、誰か親戚縁者の"預かりの立場"ないしだったと考えられる。 いずれにしても、貫高が記録されていないため、朝倉家中では役職などはなかったと考えるのが妥当ということになる。 しかし、明智憲三郎はこのころの光秀の動向について自身の著書で、「細川藤孝の中間(部下)であり、幕臣だったのだ」としている。 また、義景に仕えていなかったと断言できないものの、このころ既に幕府側の人間になっており、義昭が越前に向かう時に随伴し、義景とは義昭が越前に滞在した際に懇意になって家臣になったとする見方もある。 光秀の躍進 2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である。 これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で 、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでおり、9年10月20日(1566年12月1日 )に米田貞能()によって作成された写本である。 その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、やの対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開したは、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。 確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日 )に第13代将軍・が暗殺された()直後であると考えられる が、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。 田中城は現在の滋賀県安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の2年(1571年)にに領地を与えられるのも理解しやすくなる。 足利義昭との関係 その後、義輝(13代将軍)の弟・が姉婿である守護・の下に逃れた。 その直後から義昭はを含む各地の武将にと自身の将軍擁立を促し、が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。 義昭側は永禄9年()4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で同年8月29日(1566年9月12日 )に出兵したことで流れた。 義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。 しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かない。 光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。 『』)、から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分をにつけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。 2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。 この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。 光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。 また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。 も末子(弟)で同様との指摘もある。 は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする。 しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。 なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従うのことである。 これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。 室町幕府では、土岐氏は三家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。 その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。 また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある。 ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある。 また、で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者のの子の進士藤延だけが生き残り、改名して進士藤延が明智光秀になり、光秀妹の妻木は義輝の小侍従、光慶は義輝の子の尾池義辰だと小林正信は主張している。 細川藤孝と朝倉家との関係 本能寺の変後に、の『』やの『』には、光秀は元は細川藤孝に仕える・であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい。 信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う 騎馬 ( うまのり )の身分であり 、通説となってきた。 しかし、の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。 足利義昭・織田信長への両属状態から織田直臣へ [ ] その後、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年9月26日(1568年10月16日 )の義昭の上洛に加わる。 永禄12年1月5日(1569年1月21日)、が義昭宿所のを急襲した()。 防戦する義昭側に光秀もおり、『』への初登場となる。 同年4月頃から(後に羽柴へ改姓)、、と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。 同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如としてに戻ってしまう。 永禄13年()正月に信長は義昭の権限を規制するを通告するが、宛先は光秀とで、義昭は承諾のを袖に押し信長へ返している。 同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。 続いて同年3月1日(1570年4月6日 )、信長は将軍から離れた立場で正式にし、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。 元年4月28日(1570年6月1日 )、光秀はで信長がの裏切りで危機に陥り撤退する際に隊3,000人を主力に、秀吉と共にを務めて防戦に成功する。 同年4月30日(1570年6月3日 )には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。 またこの頃、義昭から所領として久世荘(現・京都市南区)を与えられている(『』)。 同年9月のにも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時にを任され、近江国と周囲の土豪の懐柔策を担当した。 元亀2年()には、のからの攻め上りと同時にが挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍してに出陣した。 同年9月12日ので中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書) 武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなくの築城にとりかかる。 は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環としてらと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる。 同年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。 なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとするする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある。 元亀3年()4月、への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。 元亀4年()2月、義昭が挙兵。 光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。 信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、の妨害で破綻する。 同年7月にまたも義昭がで挙兵し、光秀も従軍した。 義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。 旧幕臣にはら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い。 同年、坂本城が完成し、居城とした。 元年(1573年)7月にがになるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。 京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。 朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉やと共に越前の占領行政を担当し 、9月末から()、、が代官として引き継いだ。 天正3年()7月に、(これとう)の賜姓と、日向守に任官を受け、 惟任日向守となる。 同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。 丹波攻略と畿内方面軍の成立 [ ] 光秀は、天正3年(1575年)の、、殲滅戦に参加する。 そして攻略を任される。 丹波国は山続きで、その間にが割拠して極めて治めにくい地域であった。 丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。 まずするが、主・が裏切り、不意を突かれて敗走する。 天正4年()4月、とのに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官のが戦死する。 光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。 23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。 同年11月7日(1576年11月27日 )には、正室の煕子が坂本城で病死する。 天正5年()、に従軍する。 同年10月、に参加して城を落とす。 同月に丹波攻めを再開するが長期戦となる。 まずを落とし、拠点とする。 そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。 天正6年4月29日(1578年6月4日 )には、を行う秀吉への援軍としてへ派遣され、同年6月にに加わる。 同年10月下旬、信長に背いたを攻めてに参加する。 光秀の三女・玉子(ガラシャ)と細川忠興がで結婚する。 主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。 天正6年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである。 このことから偽作の可能性が高い古文書とされている。 天正7年()、丹波攻めは最終段階に入り、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。 同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。 さらに、すぐ細川藤孝と協力しても平定した。 信長はを出し褒め称え、この功績で、天正8年()に丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。 さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地のを与えられる。 ・を築城し、横山城を修築して「」に改名した。 黒井城を増築してのを入れ、福智山城にはを入れた。 同年の折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。 また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、の等の近畿地方の織田大名が光秀のとして配属される。 これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江からへ向けた方面軍が成立する。 また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家のは、この地位をになぞらえて「近畿管領」と名付けている。 天正9年()には、のと道具の準備担当をして、それに続くの運営責任者を任された。 同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かったを、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。 一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。 さらに翌年1月のでも「に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』) 、信長を崇敬している様子がある。 天正9年8月7・8日(1581年9月4・5日 )に、光秀の実妹か義妹の「」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『』同年8月21日条)。 等の日記に、ツマキ・妻木は散見する。 これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。 『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者のは「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている。 だが「一段のキヨシ」をの奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある。 天正9年12月4日(1581年12月29日 )、『明智家中法度』5箇条を制定。 大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている。 天正10年3月5日(1582年3月28日 )、との最終戦であるでは信長に従軍する。 先行していた軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。 本能寺の変 [ ] 本能寺焼討之図 天正10年(1582年)5月、饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の征伐の支援を命ぜられ、同年(1582年6月21日 )早朝に出陣する。 その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。 軍勢には「から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。 『』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。 光秀軍は信長が宿泊していた京都のを急襲して包囲した。 光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。 信長の死体は発見されなかった。 その後、にいた信長の嫡男・と従兄弟の が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、をしたとされるが、利治は忠死を選んだ(『南北山城軍記』) 、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の、や信長の馬廻りたちを共に討ち取った。 また(信長の弟・の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられでらに討たれた。 山崎の戦い [ ] 詳細は「」を参照 光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。 さらに信長本拠のへの入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の がと居城を焼いて近江国に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。 光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日 )までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。 同年6月7日にはは、をとして安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。 京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度のの存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。 光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、やにも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。 だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・親子は信長への弔意を示すために髻を払い、を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。 『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている。 また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。 ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。 また、詳細は後述するが、ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。 本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年(1582年7月2日 )、の麓の山崎(現在の京都府と大阪府にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。 決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(4,000人、2,500人、織田信孝、丹羽長秀、ら8,000人。 但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説 もある)。 兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山との間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。 羽柴軍の主力はからので疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。 当日、羽柴秀吉配下のが山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。 だが、これは『』や『』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。 また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある。 同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中 、の百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝にさせ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。 光秀の首は発見した百姓により翌日、を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。 その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名のが粟田口の東の路地の北に築かれた(『』)。 『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びたで腰骨を突き刺されたとする。 その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す(もうせんくらおおい)に包んでに届けてくれと言い残したという。 一説では、落ちていく途中、(現・小栗栖)においてで殺害されたとも 、致命傷を受けて自害したともされる。 安土城で留守を守っていたは、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。 やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』)。 籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。 人物・評価 [ ] 明智光秀首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。 のちに五重石塔が作られ首塚として知られる。 『兼見卿記』に記録された箇所にも概ねあたる。 京都市白川橋下る東側• 従来の説では光秀は『記』 に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密であったとされてきた。 だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方 があった。 これを補強して従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前の9月2日付けのの土豪・和田秀純宛の光秀書状で、比叡山に一番近いへの入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現・)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者だと判明した。 は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている。 特に的支配を尊んだの下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君・がという危難を味わったことなどから、このことが強調された。 本能寺の変後、光秀と関係の深い、、、、、等が呼応する形で勢力を拡大している。 が崩壊したことで各地に支配の空白が生じ、家康とやらが・を争奪した、やの蜂起などが起きた。 『フロイス日本史』中には、• 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」• 「裏切りや密会を好む」• 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。 友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」• 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」• 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」• 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」• 「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」 等の光秀評がある。 ・は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。 宗教面に関しては「悪魔(=・)とその偶像の大いなる友」で、に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にに害を加えたという記述はない。 また本能寺の変の時、光秀のの1人がたちを宿泊させている(宣教師に、キリシタンのを説得させるためではあったが)。 志賀郡でと戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。 光秀は戦死者を弔うため、供養米をに寄進した。 西教寺には光秀の寄進状が残されている。 他にも、この戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が2通残されていて、家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんど見られないものであった。 フロイスは本能寺の変の後、に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている。 ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる。 光秀は、近江方面の平定から始めている。 これは常識的な判断である。 そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである。 しかし、4日から8日まで5日間も安土に留まり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である。 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったため、なりふりかまわぬ行動をしている。 特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。 100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎(忠興)に全てを譲ってする」などと6月9日付で出された書状「覚」が『細川家記』収載「明智光秀公家譜覚書」にある。 しかしながら、この「覚」について、は「花押の上部の中央線が他に例のないほど太く、しかもそれの延長であるべき下部になると段差的に細くなり、他の花押には決して見られない不自然な筆の運びとなっている。 筆跡の鑑定などを必要とする要検討文書と考える」と結論づけている。 諸学に通じ、・を好んだ文化人であった。 光秀の会参加の初見は永禄11年(1568年)だが、詠んだ句は6句と少なく依然未熟であった。 しかし勉強したのか2年後の元亀元年(1570年)には8句を詠み、その後の天正2年(1574年)には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。 他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。 また当時の連歌の第一人者・とその門派たちと交流し、天正9年(1581年)には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている。 信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し、茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し、『』では天正6年(1578年)正月に始められ許可者12名が総覧され、光秀は選ばれている。 この時、八角釜を拝領し、に師事し、12回もを催している。 初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事を全てが代役している。 内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。 現代に至る 、の市街は、光秀が築城を行い、を整理したことに始まる。 亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。 福知山には、「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶが伝わっている。 のもとからを高禄をもって引き抜いた。 さらにも引き抜こうとして訴訟沙汰まで起こしていた。 光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価される。 光秀の放映に自治体などが運動し、大河ドラマが明智光秀がの群像劇『』になり、実現した。 江戸期の編纂書・軍記や伝承不明の説話 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 または主題と関係の深い情報源のみに頼って書かれています。 ( 2018年11月)• にに基づいており、精度に欠けるかもしれません。 ( 2018年11月)• されています。 ( 2018年11月)• 光秀は元年(1528年)に父は明智光隆、母はの妹の間に美濃多羅城で生まれたとの説がある(『明智系図』 )。 一方、大垣市は、『明智一族宮城家相伝系図書』()などを基に、(光隆)の妹が美濃国の多羅(現在の大垣市多良)を領した進士信周に嫁いで産んだうちの次男を光隆の養子として、長じて光秀となったとしている。 (「」「」も参照)• 20歳位の頃、芥川で光秀はの像を拾った。 それを見た家臣が「大黒を拾えば1,000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。 驚いた家臣が尋ねると、「わしは1,000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。 もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという(『山鹿語類』)。 『』によれば、2年(1556年)に美濃を出てに行き、いったん上洛し妻子を寺に預けてから永禄3年(1560年)から2年間でからまで日本全国を回り、各地の城構えや民政を見聞したとする。 ただし、その内容はにいた毛利氏が安芸にいたり、永禄3年(1560年)5月にで死んだが年末に生存していたり、が当時無関係のにいたり、でたらめである。 流浪時代にに仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。 しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。 (光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つのような一面が眠っている。 利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。 )」と言い断ったという(『』上和編)。 永禄5年()にで浪人していた光秀はと戦うのとして参戦した。 一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。 多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。 すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。 景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(『太閤記』)。 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一四方の的を25(約45. 5)の距離から命中させたという。 当時のやの性能を考えると、驚異的な腕前である。 そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。 「一百の鉛玉を打納たり。 黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。 光秀は大力の持ち主であった。 馬上で太刀打ちとなった時、光秀は相手の馬の橋を引いて切って捨てた。 また、家臣が敵に組み敷かれているのを見た光秀は、敵のの下部をつかんで引き倒したという(『明智軍記』)。 ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。 光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。 あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。 殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(『太閤真顕記』)。 夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前ににかかり、左頬にその後が残ってしまったを光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負ってへ逃亡した」などの逸話がある。 の際、で意中の籤が出るまで三度を引いたと伝えられている。 ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時は一般的に行われていたものであった。 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長はのであるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。 しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身をに比している。 笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという(『豊内記』)。 『信長公記』や秀吉の書簡、日記などの文書史料には無い、光秀を刺したという百姓の名前が江戸時代の随筆に2名(中村長兵衛 、小栗栖の作右衛門 )登場するが、信憑性はない。 辞世 [ ] にある 明智光秀公辞世句の碑 光秀のとされるや句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。 「 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『』• 「 心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」 伝承史跡 [ ] 本能寺の変~山崎の戦い関連 [ ]• 胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市勧修寺御所内町にあり、光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。 江戸時代に広まった『明智軍記』の載る、で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている。 京都府宮前町の谷性寺に、が光秀の首を持ち帰って埋葬したと伝わる。 京都府喜多の盛林寺境内。 細川家の旧領内で娘ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたと伝わる。 が和泉に勢力を誇っていた時、その弟・三好長円が現在のに「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。 大阪府の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。 この地域に残る『和泉伝承志』によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・と否定し、京都に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。 光秀と泉州地域との関連では、大阪府鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、18年(1943年)頃まで加護を掲げての光秀追善を、大阪府泉大津市豊中ではを約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。 光秀が愛宕百韻の際にからへ上った道のりは「明智越え」と呼ばれ、現在では・コースになっている。 本能寺の変の際、まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。 出生関連 [ ]• 岐阜県恵那市の旧には、を汲んだ、幼少期の学問所などがあったと伝承されている。 光秀の謎 [ ] 出自 [ ] 光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。 進士信周の次男(『明智一族宮城家相伝系図書』)• 美濃の明智から信長への使者御門重兵衛を気に入り、明智を名乗らせ仕えさせた(『塩尻』 )• の・藤原冬広の次男(『若州観跡録』)• の息子(『稿本美濃誌』 )• の息子 愛宕百韻の真相 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年11月) とは、光秀がを起こす前にの()で開催した会のことである。 光秀の発句「 時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。 「時」を「 土岐」、「雨が下しる」を「 天が下知る」の寓意であるとし、「の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。 あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。 また歴史研究者・津田勇の説では「 五月」は、、、が起こった月であり、いずれも(・)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。 しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただでは置かないはずである)。 また、愛宕百韻後にの国人・に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料 が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。 なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句 水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。 まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長がであることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。 「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている。 「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。 したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。 橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で、第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し、信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した。 本能寺の変の原因 [ ] 八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図(『絵本太閤記』) でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。 以下に現在主張されている主な説を記す。 怨恨説 主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。 以下はその代表例とされるもの。 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている(『』)。 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。 天正7年(1579年)6月、丹波に自身の母親を人質として出して、本目の城(か)に招いた八上城主の・兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。 これに激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害してしまった。 殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる。 しかしこれは他の史料とは一致せず創作である。 『』では光秀は八上城を前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻めで丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃に出た敵を悉く討ち取ったとある。 捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日に安土の慈恩寺(現在のの付近)の町外れで磔にされたが、既に観念して神妙な最後を遂げたとある。 天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼしたの功を労うため、安土城において家康を饗応した。 この時ののは「天正十年安土御献立」として『』に収録されている。 光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。 この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざの途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしている(『常山紀談』)。 2国(・)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は(近江坂本)・は召し上げにする、と伝えられたこと。 (『』)• の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、の(森蘭丸)にで叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。 フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。 これを元には著書『明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。 野望説 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。 この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会であった」という意見がある。 著『明智光秀』はこの説を採用している。 恐怖心説 長年信長に仕えていた、達が追放され 、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。 これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。 もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。 理想相違説 信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(勢力、の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えたを再興し 、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説。 この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。 そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後のによる封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きにわたって続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。 なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。 特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。 光秀が義昭を奉じるのは大義名分があるが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在しない。 ただし、は紀州の武将・に充てた光秀直筆の書状から、光秀が本能寺の変の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことを指摘している。 上記の理想相違説に通じる部分がある。 朝廷説 「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。 この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された本丸御殿の遺構から、安土城本丸はの構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。 は『天正十年夏記』等をもとに、朝廷すなわちとがこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。 この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった『天正十年夏記』(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏のの日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。 立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。 等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。 朝廷または公家関与説は、謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。 ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、らの指摘がある)。 一時期は有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はほぼいない。 四国説 比較的新しい説とされ、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。 信長は光秀に四国のの懐柔を命じていた。 光秀はの妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年()に入ると織田信長は秀吉と結んだとの関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。 大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。 から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立の結果だと主張されている。 橋場日月は、四国ルートで九州に進む光秀の構想が、秀吉の中国ルート構想に敗れたことが変を呼んだとする四国説のバリエーションを唱える。 イエズス会説 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のを先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた、南欧勢力(と)とする。 信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説。 この説にはとの同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。 いずれも宗教上の問題以外に、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。 しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。 この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。 との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。 南光坊天海説 [ ]• 『』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。 頼清の嫡男であるの子・を明智氏初代とする。 その7代目の子孫がであり、その子を、そしてその子が光秀とある。 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。 また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後にと改名したという。 欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。 父母兄弟等 [ ]• 父親は名を・光隆・光国と諸説ある。 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。 『明智物語』 では、光秀の養父は明智頼明とある。 母親はの出身で名をお牧の方と伝わる。 『』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実かは不明。 光秀に兄弟がいたとする、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・信教は後の、三弟・康秀はという。 いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。 『明智物語』では、光秀には定明、定衡の義兄がいたとある。 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。 の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。 『若州観跡録』では、若狭国の・冬広の次男としている。 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体からした進士知法師に注目した。 進士氏は鎌倉時代より続く名門であり、を伝える家柄で、御膳奉行を務めることでも知られている。 永禄の変で死んだ足利義輝の側室での父がであった。 永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子であるこそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣では実弟で進士氏のを継いだとした。 永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従は明智光秀の妻であるなり、小侍従の身籠った子供もになったとしている。 ただし同書の説はあくまで著者による憶測である。 妻室 [ ] は『』などに記載のある糟糠の妻・。 俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘というがいたともある。 本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚でを産ませたとする説もある。 子女 [ ] 子女については俗説が非常に多い。 逆に言えば、史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫も存在しない。 後述されるように「光秀の子孫」を名乗る者が散見されるが、これもまた俗説や自称の域を出ないことに留意すべきである。 光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。 『明智軍記』では3男4女がいたとする。 長女:の妻• 次女:の妻• 三女:の妻()• 四女:(織田信澄)の妻• 長男:(十兵衛)• 次男:光泰(十次郎)• 三男:乙寿丸• 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。 長女:の妻 - 養女(実父・)• 次女:の妻 - 養女(実父・三宅長閑)• 三女:織田信澄(津田信澄)の妻• 四女:の妻(細川ガラシャ)• 五女:の妻• 六女:の妻• 長男:玄琳 - に入る。 次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。 三男:不立 - に入る。 七女:の妻• 四男:十内 - 坂本城落城の際に死亡。 五男:自然 - 坂本城落城の際に死亡。 六男:内治麻呂 - 喜多村保之(喜多村弥平兵衛)。 家伝に拠れば光秀の末子で、分流の北村(喜多村)保光の娘の子と伝わる。 のち江戸幕府の江戸町年寄。 不明:定頼• にあるの開基とするは、一説に光秀の子とされるが定かではない。 また光慶と同一人物とする説もある。 のは光秀の長子のことを「非常に美しく優雅で、のを思わせるようであった」と伝えている。 自然はの茶会記で実在が確認される。 「光慶」の諱は『連歌総目録』『集連』などの愛宕百韻の写本などにその名が残るが、いずれも後世の書である。 縁戚 [ ] 叔父叔母• 『明智軍記』では、、の3人の叔父と、その家族の名がある。 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・、叔母にの室、岸信周の後室、斎藤道三の室・ など5女があったという。 従兄弟• 『明智軍記』では、光安の子に(秀満)、光久の子に、光廉の子にがあるとする。 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて光安の子に、の室、ほか二女があったという。 子孫 [ ] 天皇家 [ ]• 明智光秀 - (室) - 多羅(室) - - - - 女(室) - - () - - - - - -• 明智光秀 - 珠(細川ガラシャ)(細川忠興室) - - 徳(室) - - 女(室) - - 女(室) - - - (仁孝天皇典侍) - 孝明天皇 - 明智光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が生まれている。 外孫 [ ]• - 細川忠興の。 のちにされ、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。 、、(隆一郎の子)、(珠生の子)は子孫。 片平凌悟は、2020年5月23日放送の『』にて、明智光秀の子孫である「明智光秀博士ちゃん」としてリモート出演した。 母:細川珠生もリモート出演した。 この番組内で、第79代:も光秀の子孫のように紹介されたが、護熙の家系は主家であり、後述のとおり光秀の子孫ではない。 - 細川忠興の三男。 熊本藩初代藩主。 第8代に嗣子なく、支藩の主家(光秀、ガラシャの血をひいていない〈細川忠興の四男〉の家系)より養子を迎えたために熊本藩主家における光秀の血は途切れている。 - の子。 大坂の役で豊臣方に加わるが助命され、子孫はとなる その他 [ ] 伝承、自称または創作等、落胤説・明智氏の子孫・系統不明の子孫• - に由来するという坂本家のは組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。 子孫説を広めたのは後世の作家の創作。 / - 兄弟どちらも。 母方の祖母が明智光秀の実子説がある土岐頼勝 の子孫。 ただしこの説は自称による結論ありきの巷説・珍説でしかなく、良質の史料上では証明・確認できない。 母はイタリア系メキシコ人。 明智滝朗、 - 残党狩りを逃れた光秀の子・於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ。 主な著書に前者は『光秀行状記』、後者は『本能寺の変 431年目の真実』。 ただし於隺丸なる人物は史料上に一切確認できない。 三宅艮斎 -。 お玉ケ池(現・の起源)の開設に携わる。 - 三宅艮斎の長男。 東京大学医学部初代学部長。 帝国大学医科大学長。 日本初の医学博士の一人。 三宅鑛一 - 三宅秀の長男。 東京大学医学部教授。 三宅仁 - 三宅鑛一の長男。 東京大学医学部教授。 家臣 [ ] 「」も参照 ・• 『三日太平記』:1767年、・三好松洛・八民平七共作• 『仮名写安土問答』:1780年、近松半二・近松東南・近松能輔・若竹笛躬共作• 『』:1799年、近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒共作• 『』:1808年、作 戯曲• 『明智光秀』:1957年、作(、) 小説• 『明智光秀』:1910年、著• 『幽鬼』:1968年、著 (短編集『楼蘭』所収、)• 『』:1971年、著(新潮文庫)• 『逆軍の旗』:1976年、著(、)• 『桔梗の旗風』:1983年 著(文藝春秋)• 『明智光秀』:1988年、著(、)• 『鬼と人と 信長と光秀』:1989年、著(PHP研究所)• 『明智光秀』:1991年、著(文藝春秋、)• 『明智光秀 本能寺の変』:1991年、著(講談社火の鳥伝記文庫、)• 『反・太閤記 — 光秀覇王伝』:1991年、著 (学習研究社)• 『光秀の十二日』:1993年、著(、)• 『湖影』:1998年、著(、)• 『本能寺』:2004年、著(、)• 『是非に及ばず』:2006年、 著 (、)• 『明智光秀物語 浅き夢見し』:2006年、 著 (、)• 『覇王の番人』:2008年、著 (講談社、)• 『明智軍戦記』:2010年、神宮寺元著 ()• 『大逆本能寺』:2010年、円堂 晃著(角川書店、)• 『光秀の定理』:2013年、著 (角川書店、)• 『本能寺の変 つくられた謀反人 光秀』:2014年、岡野正昭著(、 )• 『明智大戦記』:2015年、竹中亮著(、) 書籍 ノンフィクション• 信原克哉 『明智光秀と旅』ブックハウスHD、2005年 映画• 『』(1908年、)• 『』(1960年、松竹、演:) テレビドラマ• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、演:)• (、、演:)• (、フジテレビ、演:) 楽曲• 浜北弘二『明智光秀』• 『本能寺~水色桔梗~』(詞・曲:) 漫画• 『』(2007年 - 、)• 『』(2019年、) テレビ番組• 〜戦国最大のミステリー 本能寺の変、完全実況〜(2018年、テレビ朝日、演:) 舞台• 『オールスター太閤記』(1995年 - 演:)• 2000年-演:) コンピュータゲーム• 『SIMPLE2000シリーズ Vol. 118 THE 落武者 ~怒獲武サムライ登場~』(2007年 、) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• の弟の家系である()家臣・木村昌明が記した史料。 附属図書館所蔵池田家文庫に収められている。 『明智軍記』では没年が10年(1582年7月3日 )の享年55。 『武家聞伝記』 では70。 『明智系図』(『』第5輯下)では生年月日が享禄元年(1528年3月30日 )、『明智一族宮城家相伝系図書』では元年(1528年8月31日 ))。 これ以外の説には『』の大永6年()、また『』の付記に記された67歳から逆算した13年()などもある。 生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある。 『明智物語』では18年()に光秀は前であったことが書かれている。 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。 また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。 前室・側室があったとの説もあり。 土岐氏はからで200年余りを務め、数十家の支族を輩出した• 他に、同県の や、出身などの伝承もある。 前者はの築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い。 そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述。 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者であるの『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述。 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容• ただし、信長の出兵は義昭の要請に応えた上洛軍で、和睦を破ったのはこれを阻止した斎藤側だとする研究も存在する。 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある。 「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である。 『』所収書状による。 『年代記渉節』に公方衆として記載している。 茶室の床の間は貴人の座の象徴である。 「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。 また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか 、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる• 『兼見卿記』天正6(1578)年6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。 天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。 また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある。 さらに『』天正7年5月2日条で「父言継の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」• 妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある。 妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる。 利治は病でにおいて静養していると考えていたようである。 「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」• 実弟・が光秀の寄騎近江衆の一員であった。 場所は小栗栖あるいは付近の竹薮、または醍醐かと当時の各日記でも場所は分かれている。 8日宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』)。 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。 それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。 そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。 高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。 それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。 しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。 彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。 彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」• 亀岡市は亀山城の城下町。 のとの混同を避けるため、2年()に改称した。 この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅 現・岐阜県 が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく、信用できないとの指摘がある。 江戸時代に起きた「」で自害したの辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。 の随筆集。 元禄元年(1688年)刊。 著、宮部書房、大正4年(1915年)• 支援を求める内容ではなく、「光秀は信長の上洛の日程をあらかじめ把握していた」と読み解くことができる、すなわち突発的な襲撃ではない、と推測することもできる、そのような史料である。 また、この数日後に同じ使者が美濃の西尾氏に送られている。 この距離の移動は現実的ではないため、どちらかの書状が日付に誤り、もしくは偽文書である可能性がある。 『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している『柏崎物語』では本能寺l変の1ヶ月前の出来事としており、が同席している描写があるのだが、当時、勝家は前線で釘付けの状態であり、酒宴に参加できる状態ではなかった。 こうした事などから、疑問視する声もある。 (など)• 前の話は『』などによる創作とされる。 光秀の讒言であったとの説がある。 この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。 ただし、桔梗紋の花弁と等に用いられる唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりはの唐花に近い。 天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか? 」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。 光秀の出身地であるから天海の廟所があるの方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀のを所蔵している(元は現在の大阪府鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。 )がある大阪府()になる。 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元はの室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。 「」でも名前が見られ、実在の人物であると言われる。 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県に伝わる伝承では荒深氏を称し、 荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。 一説に織田信長の三女・と同一人物とされる。 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。 また安国寺蔵「土岐系図」では、(同系図では光秀の実兄)の後身とする。 経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。 『明智軍記』における十次郎の幼名。 、の室の生母• 複数の主君に仕えたが、山崎の合戦では明智方の将として福島正則の隊に捕縛された記録が残る。 の『』を翻案とし、本邦初のとの合同公演にて上演。 四幕七場。 初演は1957年8月、。 出演は一座と。 のオリジナル脚本による映画化で、『』や『』の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。 タイトルに『太閤記』となっているが、主人公は光秀。 光秀と秀吉()が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長()が自らの地位を脅かされる危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。 最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。 出典 [ ]• 173. 『信長と消えた家臣たち』中央公論新社、2007年。 中世文学研究会編 『明智物語』 和泉書院、1996年、13頁。 『』 明智系図• 近藤瓶城編 』 第7巻 近藤出版部〈続史籍集覧〉、1930年、24頁。 国立国会図書館デジタルコレクション。 『義残後覚』15年• 盛林寺(喜多)• (日本一184mの)、石碑• 15, 30-33, 82-83. , pp. 編者は津山藩士のとされる。 後に『』の原史料にもなった。 , pp. 橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』〈〉、2018年。 , pp. 20-21. , pp. 19-21. 2019年12月28日京都新聞 2018. 28access• (土曜日朝刊別刷り)2019年4月27日・4面、2019年6月17日閲覧。 , pp. 34-35. , p. , pp. 14-16. sengoku-his. com. 2020年5月24日閲覧。 Yahoo! 知恵袋. 2020年5月24日閲覧。 『本能寺の変 431年目の真実』. 文芸社文庫. 2013• sengoku-his. com. 2020年5月24日閲覧。 173-174. 2020年1月10日閲覧。 細川ガラシャ展実行委員会編 『細川ガラシャ展』 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