ポル ポト なん j。 【正論】安倍晋三さん「民主党の『子供を社会で育てる』、これはポルポトやスターリンの政策」

世界史の大量虐殺で打線組んだwwwwww

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48 ID:k9ITK2V6a. 56 ID:ILMULW39M. 71 ID:Wa9ggpAs0. 38 ID:CRqe4kKpr. 75 ID:DwhdWkOf0. 87 ID:B6ePXSRz0. 19 ID:k2Q22y4PM. 47 ID:xbNZYZbxa. 59 ID:mtbIi4Aod. 53 ID:rIu35ZVq0. 23 ID:sD0krn2N0. 31 ID:UlUaz7vT0. 78 ID:Vi1zYCQF0. 46 ID:NKpG4psG0. 91 ID:ANsIoLlNM. 81 ID:ANsIoLlNM. 15 ID:d8SI5VzC0. 50 ID:lFkaOXPAp. 41 ID:rqwwt6z2a. 90 ID:6INwvCgg0. 14 ID:QMxqXrsB0. 85 ID:KWc6PfQEM. 05 ID:SkJUwTaC0. 83 ID:l6K6ix12x. 71 ID:to47gkMg0. 63 ID:toRcu3be0. 18 ID:o4gWAn9K0. 35 ID:0fzcl9BRd. 50 ID:A3Lbi8LPa. 69 ID:idM79cxy0. 23 ID:A3Lbi8LPa. 28 ID:sZ8VWNI2a. 75 ID:sVMIU3u6a. 96 ID:gzAH2yJnp. 42 ID:IWfqEa250. 89 ID:h4hjrIvea. 69 ID:nmAs8AV70. net Jを見てはいけない。 今の生活に不満を持っているから Jを見なくてはいけない。 34 ID:idM79cxy0. 44 ID:nmAs8AV70. 27 ID:ZkxyLKwTa. 03 ID:08IyOtPVM. 28 ID:p7dY8X0R0. 84 ID:ZUnJRLBAd. 43 ID:FloQbJfId. net シモヘイヘとかルーデルすきそうw 総レス数 59 8 KB.

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ポルポトのやった事で打線組んだ:非常識@なんJ

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独裁者 独裁者(どくさいしゃ)とは、絶対的権力を行使する支配者。 独裁者により支配される体制を独裁制と呼ぶ。 歴史上、「独裁者」と呼ばれる支配者は多数存在するが、上記の通り「独裁者」の客観的な定義は困難なため、以下では自身が民主主義などを否定し、「独裁」などを提唱した主要な例を記載する。 ただし形式上は国王、憲法、議会、野党は存続しており、政体は立憲君主制のまま、国名はイタリア王国のままである。 国家社会主義( ナチズム)を提唱した アドルフ・ヒトラーは、著作『我が闘争』で民主主義は衆愚政治であり、ドイツ民族には強い指導者が必要と主張した。 首相就任後、ドイツ国会議事堂放火事件を理由に共産党員らを予防拘禁し、全権委任法の可決により政府が立法権を握り、政党禁止法により国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)以外の政党を禁止し、独裁体制を確立した。 その後、国民投票により大統領職を兼ねた新しい役職である総統に就任した。 ただし形式的にはヴァイマル憲法は存続しており、政体は共和制、国名はドイツ国のままである。 第二次世界大戦終結後の国際連合による世界人権宣言は、全ての人の自由権、公正な裁判を受ける権利、表現の自由、平等な普通選挙による参政権などを明記した[4]。 ただし国際人権規約の自由権規約では、同様の自由権と同時に、制限的な「非常事態における例外条項」も併記された。 引用・出典: アドルフ・ヒトラー アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler, 1889年4月20日 — 1945年4月30日)は、ドイツの政治家[1]。 ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。 1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる[2]。 その冒険的な外交政策と人種主義に基づく政策は、全世界を第二次世界大戦へと導き、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こした[3]。 敗戦を目前にした1945年4月30日、自ら命を絶った。 第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。 1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。 1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した[注 3]。 1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。 こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し[6]、ドイツ国における全ての法源となる存在となり[6]、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた[7]。 この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。 ヒトラーは人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種(ドイツ語版)と主張していた[8]。 またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。 またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)[9][10]。 さらに1937年の官邸秘密会議や「我が闘争」で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた[11]。 ヒトラー率いるナチス党によるドイツの統治は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大した。 この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。 幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。 ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している(アドルフ・ヒトラーの死)。 引用・出典: 毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、1893年12月26日 — 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家・軍事戦略家・思想家。 字は詠芝・潤芝・潤之。 筆名は子任。 中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席および中央軍事委員会主席を務めた。 日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追放し、中国大陸に中華人民共和国を建国した。 以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。 毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年に大躍進政策を発動。 大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。 農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。 こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。 大躍進政策発動から数年間で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。 このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。 この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。 大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。 1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。 同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られた。 文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。 彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。 また、紅衛兵運動は文化浄化を行うなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。 文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。 しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は[4]、ポル・ポトがサロット・サルであることを証言している[5]。 通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある[6]。 民主カンプチア首相、カンボジア共産党中央委員会書記長を務め、クメール・ルージュの精神的指導者として知られている。 ポル・ポトや強制収容所の所長だったカン・ケク・イウらオンカーの幹部の多くは高学歴でインテリ出身だったが、高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕ソン・センは眼鏡をかけていたにも関わらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており[88]、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる[89][90][91][92]。 伝統的な家族の形態を解体する一方でオンカーの許可がない自由恋愛や結婚も禁止され[93][94]、ポル・ポトは親から引き離して集団生活をさせられ、幼いうちからオンカーへの奉仕を強いられた10代前半の無知で無垢な子供を重用するようになったため[95][96]、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた[97]。 ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。 カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。 ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。 フランソア・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。 イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、アムネスティ・インターナショナルは140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。 フィンランド政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。 マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。 当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。 引用・出典: 第2次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。 1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑に処された。 アイヒマンは「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。 275時間にわたって予備尋問が行われた。 アイヒマンに対する証言により、更に明らかにされた当時のドイツ政府による残虐行為はホロコーストの現実および、当時のドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。 一方で、自身にとって不利な証言を聞いているアイヒマンという人物が小役人的な凡人という印象を与えるものであったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。 裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。 また、ヒトラーの『我が闘争』については、「読んだことはない」と述べている。 この公判時にアイヒマンは「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残したとされる[42]。 アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しており、その模様は記録映像[注釈 1]にも残されている。 引用・出典:.

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ポル・ポト「300万人殺した」ヒトラー「1000万人殺した」毛沢東「ほーん」

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大量虐殺はなぜ起きたのか? 極度の秘密主義を貫いた彼の生涯は、これまで闇に包まれていた。 しかし本書は、その軌跡を追いながら、クメール・ルージュ組織、粛清、権力奪取、大量虐殺、失墜、死までを、綿密な取材とインタビュー、膨大な資料を駆使して克明に描き出した、「決定版」といえる大著だ。 彼は背後に隠れ、血の粛清に基づく恐怖政治で支配を固め、プノンペン占領を果たす。 都市人口の大量移動、通貨・商業の廃止、家族制度の廃止と共同の食事、強制労働など、極端な空想社会主義は多大な犠牲者を生むことになる。 まさに「悪夢の歴史」だ。 大量虐殺はなぜ起きたのか? 蛮行と悲劇の全貌を暴いた本書は我々に問いかけるが、それは重く、根深い。 内容(「BOOK」データベースより) かのカンボジアにおけるクメール・ルージュによる未曾有の大虐殺、その張本人である ポルポト(サロト・サル)の評伝。 いきなり幼少時代の記述が始まるので、そもそもを知ら ない人には入って行きづらい構成です。 訳者解説から読むのを推奨中。 いまだ存命の関係者へのインタビューなど膨大な取材に基づいて、これまでの類書を超 えた決定版となっています。 ブ厚いですけど。 そこで描かれるのは、無垢な善意とおそるべき無能。 結果として、誤った社会政策(ないしは社会政策の不在)と現実よりも理念を優先すること により、多くの人命が失われ(つーか惨たらしく殺され)、より多くの人間性が(加害者側 も含めて)破壊されました。 サロト・サル個人の遍歴を追う構成になっているので、例えば懐かしの本多勝一などによ るルポなどと比べて評論的な部分や背景的な解説は少ないんですけど、むしろ、かえって 視野がひろがる部分があります。 無垢(で幼稚)な善意と、難しい理念を生半可に理解したつもりの夜郎自大と、そして びっくりするくらいの現実対処能力のなさ・・・これって「歴史」としての「民主カンプチア」 を評価するなら、そりゃそうかもしれませんが、でももし自分が同じ状況の中で同じ立場に 立たされたなら、一連の経緯のどこかで殺されてるのは確実でしょうが、有能であった自信 なんかないッス。 つーか、正しく狡知にたけ、理念の背景も飲み込み、それでいて現実的に 有能でありえる人なんか、誰かいるんか、とか思えます。 (ポルポトを弁護しているのでは全くありません) かえって、こうした恐るべき善意と無能を免れえた事例(大部分の諸国)がどーして可能 だったのか、それこそを改めて考えなきゃいけないようにも思います。 その意味で、物理的にではなく、「重い」一冊かと。 最近は共産主義への風当たりが強く、 ポルポト(サル)なんかは格好の攻撃(?)材料と思うが、 本書のように詳細なレポートにあたれば、 コトはそんなに単純じゃないことが良く判る。 社会制度のせいではないんだな、と。 確かに、訳も悪く、相当読みにくいし、 量も多いので一読後では内容の詳細は殆ど頭に入らないが、 虐殺が醸成された背景を納得できる内容になっている。 訂正不能な負のスパイラルを生み出す過程が、 多少の大げささと、演出をもって語られている。 (もうちょっと演出が控えめでも良かったが) はっきりいって全く期待せずに読み始めたのだが、しかし、見事な構成である。 ポルポトを簡単に批判するではなく、 ネチネチと人間的、能力的な欠陥を攻め上げているように感じたが、 簡単に批判しないことが、 かえって普遍的な問題としての「虐殺」の本質を突いているように感じられる。 冒頭の前書きだけでも、ガツンとくるインパクトがある。 全くの私的な感想だが、怠慢や利己を許す人間の繋がり、コミュニティのなかで、 真に忌むべき悪意が生まれることを、この本は伝えていると思う。 (うまく言えないので大袈裟な書き込みになってしまった) 本書の最大の特徴は、典拠の資料として、政権の中枢にいた当事者へのインタヴューを利用している点です。 それは、ポル・ポトや民主カンプチア政権に関するこれまでの書籍の著者らが望んでいても果たせなかったものです。 しかしそれが、従来の書籍に比べて特別な力を与えたように感じられなかったのが残念です。 ストーリーテラとして、わかりやすさを優先した結果でしょうか? ポル・ポト時代に至る前の、シハヌーク時代のカンボジア国内の状況についてかなり詳細に記述しています。 この意味で、ポル・ポト政権の「したこと」だけでなく、その「歴史的背景」を視野に入れ、全体像を捉えようとした意欲がみえます。 訳はあまり評価できません。 地名や人名について通常とかけ離れた表記があり、カンボジア関連の他の書籍と対照させる上で面倒です。 ほか、1997年を1977年と記すなどのミスがあります。

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