たとえ 世界 欺く 答え だ として も。 メッセージ2018年12月1日

今週の礼拝

たとえ 世界 欺く 答え だ として も

nicovideo. nicovideo. ことしラスト投稿です。 第何弾目かわかりませんがOP風動画です。 今回はA-1Pictures版まじっく快斗1412の2代目OP曲、「アイのシナリオ」をコナンのOP風にしてみました。 他にも同時進行で3つ作っているのですが、これが一番作りやすかったです。 やはりコナン系の曲は作りやすいです。 スタッフクレジットは926話のものです。 今回のコンセプト ? としては[メインキャストオール出演OP]です。 とは言うものの警視庁の人たちや英理など出ていない人たちもいます... これぞOPという感じで作ってみました。 曲が疾走感あふれるのでサビはとくに駆け足な感じです。 nicovideo.

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たとえ、世界を滅ぼしても ~第4次聖杯戦争物語~

たとえ 世界 欺く 答え だ として も

だから副題は「哲学探究2」とした。 とはいっても、そこで論じられたことを前提として、その「続き」がなされる、というわけではない。 すべてをもう一度、最初から始めるのである。 すでに何度も論じた問題を、また新たな視点から、あらたな組み合わせ方で、できるならより深く、論じるのである。 だから読者は「哲学探究1」を読まずにこの「哲学探究2」から読み始められても、なんの不都合もない。 私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。 この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わせて、それらに共通の構造を解明することにある。 のではあるが、さしあたりは、そのことを念頭に置きつつも、問題の広がりと思考の可能性をできるかぎり広範に提示することを目指す。 これらの問題は、間違いなく実在するのだが、人類史において(私の知るかぎり)まだ一度も表立って徹底的に論じられたことがない。 ともあれこういう問題が存在しており、そこからこういう思考の可能性が広がっているということを、可能なかぎり広範に、できるなら縦横無尽にと言えるほどに、書き残しておきたいと思う。 したがって、上手く説明したり、全体を体系的にまとめたり、といったことにはさほど意を用いず、ときには羅列的ともいえるような(したがってアフォリズムに近いような)書き方にもなるようにしたいと思っている。 読者の方々には、もちろん全体の整合的理解は前提になるとはいえ、個々の問題をさらに自ら深く思考していただけることを願いたい。 第1章 〈私〉の存在にまつわる諸問題 〈私〉の存在という問題の真の意味 私の存在の不思議さは物理主義的な世界像を前提にして提示されることが多い。 たとえば、「人間はみな同じように脳や神経(といった物的なもの)があって、それらが感覚とか意識(といった心的なもの)を作り出しているはずなのに、なぜ現実にはこの一つだけしか感じられないのか?」というように。 しかし、この問題の立て方は誤解を招きやすい。 すでに問題の意味を理解している人にとっては、これでもその問題を喚起させるに十分な力があるのだが、そうでない人には問いの意味を誤解させてしまうことがありうる。 この問いかけは、みな同じ条件であるはずなのに、現実にはそのうち一つしか感じられないことには物理的な理由がないではないか、と言っているのだが、その読み方を変えれば物理的な理由があると解することも可能だからである。 その場合の物理的な理由は、たとえば、神経が繋がっていないからだ、といったものである。 つまり、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いを「なぜ他人の意識は感じられないか」という意味に解したわけである。 元来の問いの趣旨は「なぜこの一つ 、、 しか感じられないのか」にあったのではなく、むしろ「なぜこの 、、 一つしか感じられないのか」に、つまり、一つだけであることにではなく、その 、、 一つの選択の根拠にあったのだが*。 * とはいえここにも、たとえ神経をつなげても(いや何をしても)他者の感覚は感じることはできない、という哲学的な問題が隠れてはいる。 神経をつなげて他者の感覚を感じてみても、感じた以上それは自分の感覚なのだから、それがその他者が感じている感覚と同じ感覚か違う感覚かはやはりわからないではないか、というわけである。 ここには生理的な壁ではなく論理的な壁があるのだ、などと言われたりもする。 しかし、その正体は、いままさにここで問われている問題そのものにある、というのが私の主張である。 しかし、そのことはこの議論が終わってさらに累進構造について議論を経なければ語ることができない。 だから、この問いはむしろ「なぜ一つは現実に感じられるのか」と肯定的な形で問われるべきなのである。 一つでしかないことではなく、一つはあることが問われるべきだからだ。 とはいえ、そう問われたとしても、同じように誤解されることはなおありうるだろう。 今度は、時間的な対比を導入することが駄目押しになりうる。 「百年前の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出していたのに、なぜそれらのうちの一つも現実には感じられなかったのか?」。 そしてまた、「百年後の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出しているであろうが、それらのうちの一つも現実には感じられないとすれば、それはなぜか?」。 これらの問いを付け加えられても、なお同じ誤解の線に沿って答えようとするなら、それは「百年前だって、百年後だって、やはり一つしか感じられなかったし、感じられないだろう。 現状もそれと同じことだ」となるはずである。 これは、(「この」を取った)「なぜ現実には一つしか感じられないのか」という問いに対する答えとしては有効だろうが、(「この」を付けた)「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対しては無効だろうし、おそらくはまた肯定的に表現された「なぜ一つは現実に感じられるのか」に対しても無効であろう。 このことから二つのことがわかる。 第一はもちろん、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対する物理的な理由はない、ということである。 もし物理主義者が、問いの意味を理解したうえでなお、それがあると主張したなら、とんでもない主張をしたことになる。 地球人類史のなかで(あるいは宇宙生物史のなかで)ただ一人だけ他の人間(あるいは生き物)とは物理的に違う組成で出来た個体があって、だからそれだけが現実に音が聞こえ痛みを感じるこの生き物なのだ、ということになるからである*。 * この唯物論的独我論は、たしかにとんでもない主張であるとはいえようが、じつは本当にそうではないのか、と疑うことは十分に可能ではあるのだ。 そして、それが可能ではあることこそが、実はこの問題の哲学的な肝 きも でもあるだろう。 別の観点から言うと、もし、たんに哲学的議論として独我論という考え方に興味を持っているのではなく、ほんとうに「独我論的心配」をしている(なぜ私だけこんなに他の人と違うのだろう、何か変なのではないか、というような仕方で)人がいたら、その人はむしろこの物理主義的な答えを受け入れるのが自然なのではなかろうか。 その意味では、唯物論的独我論は決して嗤うべき思想ではないだろう。 したがって第二は、物理主義的前提から出発する(そして、それに反することを言う)ことは、この問題を提示するために必要ではなく、むしろ問題の本質を見失わせる、ということである。 つまり、この問題は物理主義のような考え方と対立するようなものではないのだ。 脳や神経などはまったく持ち出さずに、ただ単に「 過去や未来を含めて たくさんの意識のある生き物が存在するのに、なぜ現実にはこの一つだけしか意識できないのか?(なぜ一つだけは現実に意識できるやつが存在しているのか?)」で十分であり、その際、その「意識ある生き物」に意識があるのは脳や神経のせい 、、 であろうとなかろうと、そんなことはこの問題には関与していない。 むしろ、観念論(唯心論)的前提から出発して、それに反することを言うほうが、この問題のポイントをクリアに提示できるであろう。 すなわち、「意識」等々の語を唯心論的に捉えたうえで、「 過去や未来を含めて たくさんの意識(心や精神、あるいは主体や自我)が存在しているのに、なぜ……?」と問うわけである。 しかし、おそらくは歴史的事実として、この問題は反唯物論的な(すなわち唯心論的な)問題提起であるかのように誤解されてきた。 たとえばデカルトは、かの有名な全般的懐疑の果てに、疑いえぬ真理として「我あり」を発見したわけだが、ただちにその「我」を「精神」と同一視し、物心二元論への道を開くことになった。 これは自己誤解でなければならない。 なぜなら、懐疑の果てに彼が発見した哲学的に最も意味深いことは、「デカルト(という人物)の存在は疑いうるが、私の存在は疑いえない」という事実から導かれる、「私はデカルトではない」であったからだ。 そのデカルト(という人物)なるものを物質の塊であると考える必要などはまったくない。 たとえそれがもっぱら心的なもの(たとえば感覚や感情や記憶や願望や思考……の塊のようなもの)であったとしても、私はそれとは独立だ、ということこそがデカルトの発見であったのでなければならないからだ。 本来あるべきデカルトとともに、私がここで提起したい(これまでも提起し続けてきた)問題は、この種の「物と心」の対立とは別の枠組を必要とする問題であり、また、後に詳述する機会もあると思うが、「公共性と私秘性」といった対立とも別の枠組を必要とする問題なのである。 あえて伝統的な枠組で分類するなら、それは「実存と本質」の対立に属する問題である。 (デカルトが私はそれではないと言った)デカルトという人物についていえば、たしかにそれは固有の身体を持つとはいえ、物的というよりはむしろ心的な存在者であるだろう。 それは、おそらくは何よりもまず、記憶を中心とする心理的な連続体のことであろうから。 デカルトの心理的連続体のことはあまり知らないので、よく知っている永井均という心理的連続体を例に取れば、それには人の知らないきわめて独特のところがある。 まあ、永井均と同じ経歴(したがって記憶)を持った人はこの世にほかにはいないのだから、まったく独特であるのは当然のことだともいえる。 とはいえしかし、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えているわけではない。 私は自分を他から識別して私であるとして捉えるとき、自分の持ついかなる(固有の)属性も使っていない。 私は私をその特徴的な(他に例のない)心理的連続性によって他から識別してはいないのだ。 それなら、たくさんの人間(生き物)たちのうちから、何を根拠にして自分を識別しているのか。 と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって、と答えるほかはない*。 何が与えられていようと、与えられている内容は関係ないのだ**。 何が与えられていようと、ただそれだけが与えられているということだけで十分であり、それだけが不可欠なのである。 だから私も、デカルトと同様、「私とは永井均のことではない」といわざるをえないわけである。 * 「哲学探究1」では、この基準を第一基準と呼んでいる。 ** 「何が見えていようと、見ているのはいつも私だ」というウィトゲンシュタインの創作した独我論言明は、通常まさに独我論者の自己主張であるかのように捉えられているが、そうではなく、同格の人間が複数存在することを問題なく認めた場合にも、彼らはみなこの仕方で自分を捉えざるをえない、という意味に理解されるべきである。 それ以外の自己把握の方法はないのだ。 その際、対比されている言明は、「かくかくが見えているから、見ているのは私だ」である。 このような捉え方は決してできない、という点こそここでのポイントなのである。 かりに私がいろいろな点できわめて特徴的な感じ方をする人間であったとしよう。 物心ついて以来ずっと、たとえば音の点では、あたかも耳鳴りのように繰り返しあるメロディが低く鳴り続けている、というように。 たとえそうであったとしても、私は、その特徴的なメロディが聞こえているがゆえにこれは私だ、と私を(他の人々から区別して)把握することはできない。 だから私が、そのメロディを始めとするあらゆる固有の感覚をすべて感じなくなり、まったくもって平凡な感覚しか感じなくなったとしても、その平凡な感覚をもし現に感じているならば、それは私なのである。 何が感じられていようと、感じているのは私、だからである*。 * 固有の属性を持った一人の私がその同じ属性を持ったまま二つに分裂したとき、一方が私であるなら他方は(私と同じ属性を持っていても)他人である、という思考実験は、「これが私である」という端的な事実の成立がその人の持つ属性によって決まるのではない、ということを示すための面白い話にすぎない。 面白く表現すると、その面白さのほうに目が移ってしまって、分裂するということに何か特別の意味があるのかと思ってしまい、それが可能かどうかなどと論じ始める人がたまにいるが、べつに分裂ということに特別の意味があるわけではない。 ここで、次のような疑問を持つ人がいるかもしれない(いて欲しい)。 そうだとすれば、すべての人が、自己把握をする際にはこの仕方でしていることになるだろう。 それなら、そのすべての人たちのうちから、私は私をどうやって識別できているのか。 もはや「この仕方」を持ち出しても無駄だろう。 すべての人がそうしているのだから。 ここではもはや、私だけがもつ独自の特徴を持ち出しても無駄であるだけでなく、ともあれ現実に感じているといったことを持ち出しても、やはり無駄であるはずだ。 すべての人がそうしているのだから。 このような疑問である。 だから、この疑問に対して答えようとすると、それでもこの私だけが現実に現実に 、、、、、、 感じている、といったことを言わなければならなくなる。 しかし、そのこと自体もすべての人がそう言うだろうから、それらとさらに差異化するためには、もう一度「現実に」を付与するほかはなくなって、言語表現の可能性は破綻する。 私がこの連載で問題にしたいのは、「私」の問題だけでなくその他もろもろの事柄に関しても反復して顕れるこの構造の真の意味を考えることである。 いや、しかし、このような議論の進め方に対して、むしろ逆方向の疑問を持つ人がいるかもしれない(こちらもまた、いて欲しい)。 それは、そもそもすべての人がそうしているとなぜわかるのか、という方向の疑問である。 私自身はたしかに、どういう心的内容を持っているかではなく、ともあれ現にそれを持っているということによって、だからそいつが私であると捉えている。 それは確かだが、他人がそうしているかどうかなんて、どうしてわかるのか。 この疑問に対しては、さしあたってこう反問しておきたい。 だがしかし、たとえ他人であっても、その人が自分を捉えるとき、先ほど述べたような仕方以外の仕方でそうすることが可能であろうか。 たとえば、かくかくしかじかの記憶を持っているからこいつは自分だ、とか、繰り返しあるメロディが低く鳴り続けているからこいつは自分だ、とか。 そんなことは不可能だろう。 なぜなら、そうしたことを捉える主体の側が自分なのだから。 その人だって、何であれ(すなわちその内容に関係なく)ただ現に与えられているという理由によって、それが自分の体験(あるいは属性)であるとみなすしかないだろう。 どうして(他の体験ではなく)それ 、、 を感じているのが自分なのか、 他の属性ではなく それ 、、 を持つのが自分なのか、その根拠はさっぱりわからずに、いきなり。 さてしかし、先ほど私は、永井均という心理的連続体には人の知らないきわめて独特のところがある、と言った。 それにもかかわらず、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えることはできないことが明らかになった。 では何を根拠にして自分を識別しているのか、と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって(細かく言えば、「ただそれだけ」の「それ」によってではなく「ただ…だけ」によって、そして「現に与えられている」の「現に」によって)と答えるほかはないのであった。 だから私もデカルトと同様「私とは永井均のことではない」と言えることになったのであった。 むしろしかし、私がデカルトとまったく同様ではおかしくないか。 何といってもデカルトは他人で、私ではない。 この端的な 、、、 事実こそが問題で、それをどう考えたらよいのかが問題であったはずなのに、いつの間にか問題がずれてしまっていないか。 と、先ほどの「逆方向の疑問を持つ人」がなおも食い下がってきても不思議ではない。 いや、食い下がってくるべきだろう。 といっても、この食い下がる人は、ここではもはや私自身でなければならないが。 ところで、よく知られているように、デカルトは「欺く神」と闘った。 闘って、「私が「私は存在する」と思うかぎり、私は存在する。 神の力をもってしても、ここでは私を欺くことはできない」という勝ち名乗りをあげた。 しかし、このとき勝ったのは誰(というより正確にいえば何)だろうか。 果たして他者であるわれわれはこのとき勝ったのが何であるかを知りうる立場にいるだろうか。 こう考えることは確かにできる。 デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかだ。 それは、デカルトが自分を捉える際に用いる「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を、欺く神の側は決して持ちえないからだ。 だから、欺く神の側は、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解できない。 欺く神の側からすれば、そのときデカルトが信じている内容はすべて偽であり、欺きは完璧に成功しているからだ。 しかし、もし偽なる信念が現にありありと与えられているなら、やはり私は存在する。 私は存在するというその信念もまた欺く神が与えた偽なる信念であっても、やはり私は存在する。 そのときデカルトが与える「私」の意味を、欺く神の側は決して知ることができない。 いやいや、そうだろうか。 欺く神は悪神であるとはいえ神の能力を持つのだから、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解ができないはずはない。 彼は、全知なのだから、いまここで論じられているような自己知に関する一般理論もまた完璧に知っているはずではないか。 デカルトがいかなる理由で勝ち名乗りをあげているのかももちろん知っていて、知っている以上その裏をかくこともできるはずではないか。 かりにもしそうだとすれば、ここで最後に残るのはやはり「逆方向の疑問を持つ人」の問題意識である。 この問題を、たとえそれが歴史上デカルトに端を発するとはいえ、デカルトという過去の他人の場合で考えるのは的はずれであったことになる。 この意味では、欺く神と闘って勝つことができるのは、文字通り私だけである(デカルトの戦いはまさにそのことを示唆していることになる)。 私がデカルトと同じ全般的懐疑を敢行し、欺く神の欺きと対決したとき、私だけが知りうる仕方で、私は欺く神に勝てることになる。 なぜ私だけが知りうる仕方なのか。 なぜ神はそれを知りえないのか。

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ハニワ♡の名セリフ

たとえ 世界 欺く 答え だ として も

聖書は『新共同訳』を用いています。 黙祷 招詞 ミカ書4:6-7 より 朗読 その日が来れば、と主は言われる。 わたしは足の萎えた者を集め、追いやられたものを呼び寄せる。 わたしは彼らを災いに遭わせた。 しかし、わたしは足の萎えた者を 残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。 シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。 賛美歌 202よろこびとさかえに満つ(1,2) 歌唱/朗読 平和の町 エルサレムよ。 苦しみと 悩みは消えて、 よろこびと 慰め満ち、主のみ名を ほめ賛えよ。 (2節のみ紹介) 信仰告白 使徒信条 告白 我は 天地の造り主、 全能の父なる 神を信ず。 我は その独( ひと )り子、 我らの主、 イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりてやどり 処女マリヤより生れ、 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、 死にて葬られ、陰府にくだり、 三日目に死人のうちよりよみがえり、 天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、 かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。 我は聖霊を信ず、 聖なる公同の教会 聖徒の交わり、罪の赦( ゆる )し、 身体 からだ のよみがえり、 永遠 とこしえ の生命 いのち を信ず。 アーメン。 祈祷 黙祷 わたしたちを礼拝へと招いて下さり、ありがとうございます。 恵みの雨のうちに、いのちあるものすべてが輝かされているように わたしたちもまた、あなたの霊によって生かされていることを覚え、 感謝と告白と祈りをもって、礼拝をささげます。 わたしたちは、今、あなたの前に重荷を下ろしています。 ここは、青草の原ここはいのちの水のほとり。 あなたが与えてくださった愛する隣人と共に、礼拝に与り、 あなたが与えてくださる荷を負い直して、出発させてください。 感染症の流行の中で、苦しんでいる世界中の人々が、 あなたの支えを感じ取って、勇気づけられますように。 「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」との言葉に、 明日を忘れて休むことができますように。 このような中で浮き彫りにされる、人種差別を始め様々な不正義が あなたの御心を求める人々の、諦めることのない業によって、 あなたの平和にふさわしく、変えられていきますように。 わたしたちが行動と祈りとをもって、そこに加われますように。 手術を受けた者、療養中の者、施設にある者、また、支えている者を あなたが顧みてください。 不自由な中で学びを進めている者、それを 助けている者に学びあう喜びを備えてください。 困難な中、懸命に 生業を維持している者を励ましてください。 今日、一日、様々な形で礼拝に与るわたしたちを あなたの御手がつないで、一つの礼拝の民としてください。 また、世界の人々とつながらせ、ともに生きる者とさせてください。 イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。 聖書 ヘブライ人への手紙 12章 22-29より 新p 418 朗読 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、 無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、 すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 新し契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、 感謝しよう。 感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。 説教 「天に一人を増しぬ」 上島一高牧師 黙読 「信仰とは、望んでいながらまだ実現していないことを垣間見ることです。 信仰には、未だ見えないことの一端が、既に見える形で表れているのです。 それゆえ、未だ完全には見えていないことを信仰によって証しした信仰者たちは、人々に希望を与えたと賞賛されます」。 イエスはこの「信仰の導き手であり、完成者」です。 現実には困難なことが横たわり、卯の花腐しは降り続けていますが、イエスは「自分の前にある喜びのゆえに、恥をも厭わず、十字架を忍び、神の右に上げられ」ます。 このような方こそは、信仰者、希望している者の模範です。 ところで、「希望している者」とは、まさに人工言語(民際語>国際語)エスペラント語の由来であり、そのような人のことをエスペランティストと呼びます。 彼の名前はラザロ。 イエスが甦らせたあのラザロと同じす。 ザメンホフは 1859年、現在のリトアニアに生まれます。 プロシア領、一時ナポレオンのフランスに占領され、当時ロシア帝国領ポーランドでした。 イスラムの影響も残る一方、生まれた町の 7割はイディッシュ語です。 ザメンホフ家がここに住んだのも流浪の果て。 様々な言葉が入り乱れ、互いに棲み分け、時に多言語を操って付き合っている環境で生き抜くため、多言語を習得します。 とりわけ、支配言語のロシア語を。 ドイツ語商人とリトアニア語のお百姓が揉めていると、憲兵がロシア語を使えと命じます。 自分がロシア語を使えることが喜びではなくなります。 また、ユダヤ人の高齢者や女性が通ると、他の人種のわんぱくな子どもたちが、大人の差別意識を反映して、イディッシュ語のまねをしてからかいます。 日本でも、かつては、朝鮮語、中国語の真似をしていましたね。 少年ラザロは思います。 「聞いて来た教えに反して、人類はいない。 いるのはただロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人などの人種ばかりではないか」。 しかし父はわが子を心配します。 ユダヤ人はロシア語を使いこなし、自分のように教授か、医師や弁護士になるべきだと考えたからです。 結局、モスクワ大学医学部に入学しますが、時代が大きく揺れ動く中、ユダヤ人たちの自由を求めつつも、排外主義も顔を出すシオニスト運動には組みせず、イエスの年長の同時代人で、開かれたユダヤ教の指導者ヒレルの隣人愛に学ぶ、卒業の年にはエス語の土台を固めます。 その父親は、貧しい中から小さな石鹸工場を起こして育て、自らも工員と共に働いた人、娘婿のエスペラント語への志を財政的に支え、 1887年これを世に出させます。 文豪トルストイは評します。 「私は人間が互いに理解し合う上に、ただ外面的な障害から、憎み合う場面を度々見て来た。 エスペラントは、人生の唯一の主要目的たる、神の国を築くことを助けるキリスト者的仕事である」。 ところが、彼を警戒する帝国から妨害されることに。 そんな世紀の変わり目、ラザロはワルシャワ一の貧民街、日本語で「荒れた町」に開業します。 患者は目が見えなくなるまで医者に行けない状態。 安い治療費で診察を始めるものの厳しさは増して行く。 希望を失いかける中、患者が彼のことを理解し、詰めかけるようになります。 一方、ロシア帝国に妨害された『エスペランティスト』誌も、そんな中で各地に根を下ろし、芽を出していました。 ある女性教員は、エスペラント語を弘めるために、食事を節約して支え、また、ある死期の迫った病人は、ラザロに励ましの手紙を届けてくれました。 その後のエスペラント運動のことを考えると、わたしは、「荒れた町」の患者たち、そして、エスペラントを支えた名も無い人々の祈りなしにはあり得なかった。 彼らなしには、ザメンホフは「エスペランティスト(希望している者)」であり得なかったと思うのです。 イエスに従って鍛錬された者は、「平安な義の実」を結び、「すべての人と共に平和と聖なる生活を追い求め」る者は、主を見る、と。 イエスや信仰者とラザロはこれに重なります。 彼らは、「望んでいてまだ実現していないことを」垣間見るだけでなく、そこに「近づいた」正確には「到達した」のです。 到達して見た光景は、天の都とそこに挙げられ大きな食卓を囲む人々の集会、審判者である神、血を以て新しい契約の仲介者となったイエスです。 その景色は、「揺り動かされることのない御国」。 それゆえ、信仰者、すなわち、「希望している者」(わたしたちの別名)は、ヘブライ書が言う通り、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に歓ばれるように仕えてい」く者なのです。 確かな神の支配 火 の下で。 元々ゲットーに閉じ込められた孤児たちを、見捨ててばらばらにせず最後まで支えた、医師コルチャック先生の足跡を訪ねるためでした。 コルチャックは、自分が認めたくない生き方をしているユダヤ人同胞に頭を下げて、食料を集めました。 さらに、自分が生き延びられる道を、自ら閉ざしました。 そして、こどもたちと共に囲む大きな食卓を守るのです。 彼らは、皆トレブリンカ絶滅収容所に送られます。 しかし、わたしたちは見ます。 地上の食卓に替えて、天の大きな食卓の席に、一人一人が加えられ、ラザロが彼らを迎えるのを。 これがヘブライ書の描く風景です。 黙想 賛美歌 390主は教会の基となり 1,2,4 歌唱/朗読 世にある民も 去りし民も 共にまじわり、神をあおぎ、 永遠の勝利を 待ち望みて イェスの来ますを せつに祈る。 (4節のみ紹介) 奉献 後日、教会で献げましょう) 主の祈り 朗読 天にまします我らの父よ、 願わくは御名をあがめさせたまえ。 御国をきたらせたまえ。 みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧 かて を 今日もあたえたまえ。 我らに罪を犯すものを 我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。 我らを試( こころ )みにあわせず 悪より救い出 いだ したまえ。 国と力と栄えとはかぎりなく 汝( なんじ )のものなればなり。 アーメン。 賛美歌 88 歌唱/朗読 心に愛を 豊かに満たし、日ごとのわざに つかわしたまえ 祈祷 朗読 キリストの平和の使者として行かせてください。 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが わたしたち一同と共にありますように。 アーメン。

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