エリザベート 王女。 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス

エリザベート 王女

生涯 [ ] 王家である傍系のとバイエルン王女の次女として生まれた。 幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリザベートは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。 王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。 そんな生活は1853年8月、姉の見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。 シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。 しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。 お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラットは、彼女が最初に出会っただった。 伯爵はの素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、彼女に多大な影響を与えた。 1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。 しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑であるがとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けたエリーザベトがや当時独立を求めていたに同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響でフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になることを嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした。 徐々にエリーザベトは人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、に浮かぶなどに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に亘りさまざまな口実を見つけてはから逃避し続けた。 ジュラ・アンドラーシ伯爵 特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。 ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。 その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。 穏健独立派のハンガリー貴族伯爵と知り合い、の敗北を受けて、翌にハンガリーの自治権を認めた(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。 アンドラーシはアウスグライヒ後のの初代首相、帝国外相となる。 エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子の自殺であった(1889年、暗殺説もあったが、のちにルドルフの心中相手が自分の母宛に送った遺書が発見された)。 夫の死後喪服を着続けたに倣い、その後彼女は死ぬまでを脱ぐことはなかった。 1898年9月、旅行中の・のほとりで、イタリア人のに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。 人物 [ ] ルートヴィヒ2世• 当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、51センチで体重は生涯43〜47キロという驚異の体形の持ち主だった。 美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なや美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のと革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。 交友関係では、とは親しくなかったが、その息子のとは、ルドルフ皇太子と共に親しかったという。 他には、フランツ・ヨーゼフ1世の弟の妃で義妹の王女との仲は険悪だったが、同名の妃(カルメン・シルヴァの筆名で知られる)とは、ドイツの王家出身、皇后・王妃でありながら・の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、王侯貴族などの気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒など、数え切れない程多くの共通点があり親交があった。 彼女は詩人の中では、「革命詩人」と呼ばれるを好み、彼のことを深く尊敬し、「師」と呼んでいた。 また、エリーザベトはハイネの作品を知り尽くしており、専門家として彼女に教えを乞いに来る人もいた程だった。 従甥で「狂王」と呼ばれるとも一時期親しかったという。 彼らは世間や堅苦しい宮廷を嫌って逃避行を繰り返し義務を放棄して快楽に耽り、精神を病んで奇行を連発する桁外れの浪費家同士で意気投合したとされるが、ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていたため(ルートヴィヒ2世は同性愛者だったため、あくまでも純粋な友情に過ぎないとする説もある)、王の前途を心配したエリーザベトは妹のと婚約させようと計画した。 しかし、ルートヴィヒ2世は全く関心を示さず、婚約は破棄された。 エリーザベトはこれに激怒し、二人の仲は険悪になり、それが後にルートヴィヒ2世を現実逃避させて精神状態を急速に悪化させ、国費を浪費する遠因になったとも考えられる。 しかしエリーザベトは、ルートヴィヒ2世が逝去した際にはたいへんなショックを受け、家族の皆が深刻に心配する程精神状態が悪化した。 によるエリーザベト皇后(左)とウジェニー皇后(右)の肖像。 エリーザベト皇后のドレスはによるデザイン• 1865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いたから彼女の話を聞いた皇后がエリーザベトに興味を持ち、翌年オーストリアのバート・キッシンゲンで保養に行く際に私的に表敬訪問したいと申し出たが、彼女は気乗りがしなかったらしくこの申し出を断っている。 しかし6月19日、が皇帝の座に就けたマクシミリアンがケレタロで銃殺刑に処されたため、この年の8月にナポレオン3世とが、オーストリアとの一種の調停訪問を目論み、での2人の美貌の皇后の対面が実現した。 マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス皇帝夫妻を冷ややかに迎えたが、2人の美しい皇后が見られるということには大変関心を寄せた。 そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウジェニーではあったが、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳や美しさと比べてもなんら遜色ないと市民たちの目には映った。 ただし保守的なザルツブルク市民たちは、ウジェニーの服装が最新のパリ・モードにそってスカートの裾があだっぽく絡げてあるため、足がのぞいて見えるのをはしたないことと見なした。 2人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトに比べ、ウジェニーのほうがだいぶ小柄だったという。 またエリーザベトはイギリスの妃の美貌と自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていたが、実際はアレクサンドラは非常に背が低く胴長短足であるうえ、首に醜い手術痕があり、頭には奇妙なへこみがあるなど、容姿はエリーザベトより劣っていた。 しかしエリーザベトにも、面長で顎がしゃくれている点や、極端な撫で肩、鼻の穴が大きい(ヴィクトリア女王も「鼻の形は美しくない」と漏らしていた)、手足が丸太のように太いという欠点があった。 特に本人が最も気にしていたのは、歯並びが悪く黄ばんでいることだった。 見合いの席でゾフィー大公妃はそれを指摘し、彼女に「歯を磨くように」と言いつけている。 エリーザベトはそれを気にするあまり、毎日懸命に歯を磨き、人前では常に口をきつく結んでほとんど話さず、話す時には扇子で口を隠していた。 しかし、肖像画ではこれらの欠点は見事に隠され、美化されている。 夫のフランツ・ヨーゼフ1世に宛てて書いた手紙の「確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。 でも、私にとっては得体が知れないのです……」という言葉からわかるとおり、エリーザベトは人の好き嫌いが激しく気難しい性質だったため、ゾフィー大公妃の選んだ気に入らない女官を全員解雇して周囲をお気に入りのマジャル人侍女のみで固め、女官には徹底的に控えめに振舞うこと、ウィーンから離れた生活に耐え自分の旅行にずっとついて来ること、数時間ぶっ続けの激しい早歩きにずっとついて来ること、生涯独身を貫くことなどを要求した。 また自分とは正反対の、良妻賢母として知られるマリア・テレジアを敬愛し、病人や障害者、貧しい民衆に同情するなどの一面もあったが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切放棄かつ拒否し続け、欲望のままに放縦な生活を送り続けた。 エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアのに絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。 だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。 皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評されることもあるエリーザベトだが、一方で尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。 当時のベルギー大使夫人は、「この女性は本当に狂っています。 こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。 ただしハンガリー統治に関しては非常な関心と情熱を傾けたため、過去に近隣の大国に翻弄され、分割・被支配とさまざまな苦難の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎を築いた人物として、今もハンガリーの人々には慕われている。 そして彼女が嫌ったウィーンにおいても観光のシンボルとして肖像画を見ることができる。 子女 [ ]• (1855年 - 1857年)• (1856年 - 1932年)• (1858年 - 1889年) オーストリア皇太子• (1868年 - 1924年) 参考文献 [ ]• カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート』監修、田辺希久子訳、、1997年、190頁。 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト - 美しき皇妃の伝説』上巻、中村康之訳、、2001年、339頁、下巻、中村康之訳、朝日新聞社、2001年、329頁。 マリー・ルイーゼ・フォン・インゲンハイム『皇妃エリザベート』『皇妃エリザベート ハプスブルクの涙』訳、、1996年、332頁・297頁。 ビッヒラー『エリザベートの真実』訳、集英社文庫、1998年、278頁。 マルタ・シャート『皇妃エリザベートの生涯』訳、集英社文庫、2000年、245頁。 シェーファー『エリザベート』大津留 厚監訳・永島とも子訳、2000年• 『マンガ 皇妃エリザベート』ジャン・デ・カール原作、、2001年、435頁。 『 皇妃エリザベート永遠の美』、2006年、144頁。 関連作品 [ ]• 『双頭の鷲』 - の。 映画ではが、舞台ではがエリーザベトを演じた。 『』 - ウィーン発のミュージカル。 日本でも(『』)などが上演しヒットした。 『』『』『』(3部作) - エリーザベトの若き日(公女時代)を描いたオーストリア映画。 『エリザベート〜愛と哀しみの皇妃』 - ・・合作のテレビ映画。 『麗しの皇妃エリザベート』 (改題版『マンガ 皇妃エリザベート』) - 原作:ジャン・デ・カール、作画:の漫画。 『エルジェーベト』 - の漫画。 演じた俳優 [ ] 映画 [ ]• ミュージカル「」日本版 [ ] 宝塚歌劇団版(本公演) [ ]• (1996年・1998年)• (1996年)• (2002年)• (2002年花組・大鳥れいの代役)• (2005年)• (2007年雪組)• (2009年月組)• (2014年花組)• (2016年宙組)• (2018年月組) 東宝版 [ ]• (2000年・2001年・2004年・2005年・2006年)• (2008 - 2009年)• (2008 - 2009年・2010年)• (2010年・2012年)• (2012年)• (2015年・2016年・2019年・2020年 予定• (2015年・2016年)• 2019年・2020年 予定 その他の舞台 [ ]• 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 エリーザベト オーストリア皇后 に関連する および があります。 - 孫娘(長男ルドルフの娘)。 脚注 [ ] [].

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18歳になった未来のベルギー女王、エリザベート王女の歩み。|特集|Culture|marshillmusic.merchline.com(フィガロジャポン)

エリザベート 王女

Photo : Getty Images ロイヤルキッズの中でも最も美しい姉妹として名高いのが、スペイン王室のレオノール王女(11)&ソフィア王女(10)。 スペイン国王フェリペ6世&レティシア王妃の娘として誕生したふたり。 母レティシア王妃は、英王室のキャサリン妃もが憧れるほどの美貌の持ち主で、その遺伝子は娘ふたりにしっかりと受け継がれているよう。 その美貌とスタイルの良さから、すでにメディアから大きな注目を集める彼女たち。 母レティシア王妃とともに、世界の王室を代表するファッショニスタとして、憧れの的となること必至と言えそう。 国民から絶大な支持を受ける一家の魅力のひとつが、洗練されたファッションセンス。 パープル&ピンクをリンクさせたスタイリングで闊歩する姿は、まるでハリウッドセレブのような華やかさが漂う。 そんな一家の人気を支えているのが、母マチルダ王妃。 彼女が愛情を注ぐ4人の子どもたちも、長女エリザベート王女(15)を筆頭に、ファッションや立ち振る舞いの美しさには定評が。 4人の兄弟が、世間を魅了する日もそう遠くなさそうだ。

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未来の女王、ベルギー王室エリザベート王女について知っておきたい11のこと

エリザベート 王女

19世紀末。 ヨーロッパ随一の美貌を謳われた、オーストリア=ハンガリー帝国皇妃エリザベートが、イタリア人アナーキスト、ルイジ・ルキーニに殺害された。 ルキーニは独房で自殺を図る。 煉獄の裁判所では、犯罪行為から100年も経ったにも拘わらず、暗殺者ルキーニを未だ尋問している。 ルキーニは、エリザベートは死と恋仲だった、エリザベート自身が死を望んでいたと主張する。 そして、それを証明するため、エリザベートと同時代を生きた人々を霊廟から呼び起こす。 黄泉の帝王トート(死)が現れ、自らの皇后への愛を告白する。 時代は1853年に遡る。 少女のエリザベートはバイエルン王女として自由を謳歌していた。 ある時、綱渡りに挑戦しようとしたエリザベートは、ロープから落ち、意識不明となる。 冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹き付けられる。 トートはエリザベートに生命を返してやる。 そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。 こうしてエリザベートを巡る愛と死の輪舞が始まった。 ウィーンの宮廷では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが母親である皇太后ゾフィーの助言と指示のもと、広大な国を治めていた。 ゾフィーはフランツと彼のいとこのヘレネとの結婚を望み、見合いを計画する。 しかし、フランツが見初めたのは妹のエリザベートだった。 1854年、ウィーンで二人の結婚式が行われる。 まだ若く子供っぽい新皇后に呆れと不満を漏らす人々。 そんな周囲の思惑をよそに、ワルツを踊る二人。 トートは嫉妬を感じつつ二人を見つめ、ついにエリザベートに話しかける、「最後のダンスは俺のものだ」と。 古いしきたりと皇后としての務めをゾフィーに押し付けられたエリザベートはフランツに助けを求める。 しかし彼は取り合おうとはしなかった。 失望したエリザベートにトートは近付くが、エリザベートは屈しなかった。 結婚2年目に生まれた子供さえ、ゾフィーに取り上げられたエリザベートは、ゾフィーへの憎悪の念を募らせていく。 オーストリアは相次ぐ戦争、チフスの流行、革命の足音と、不安な状況が続き、フランツは疲れ果てていた。 彼はエリザベートに救いを求めるが、彼女は自分かゾフィーか、フランツに決断を迫る。 そして自分の美しさを武器に人生を生き抜こうと考えたエリザベートは、惜しげもなく金を使い、ますます美貌に磨きをかけるのだった。 一方、苦しい生活を強いられている民衆は、皇后への反感を増していった。 トートは、反ハプスブルクを唱えるハンガリーの革命家エルマーたちをそそのかし、革命の気運を高めていく。 ついにフランツは、エリザベートのすべての要求を受け入れる。 エリザベートはゾフィーとの確執に勝利したのだった。 自分の力で生きていく自信をつけたエリザベートの輝くばかりの姿をトートが見つめていた。 1867年、ブタペストで戴冠式が行われ、エリザベートはハンガリー王妃となる。 忙しいエリザベートは、幼い皇太子ルドルフを顧みる間もなく、そんな孤独なルドルフにもトートは近付いて行く。 成人したルドルフは、エルマーたちに接触し、ハンガリーの独立運動を推し進める。 しかしそれがフランツの知るところとなり、ルドルフの皇位継承は危ういものとなる。 絶望したルドルフに近付いたトートは、彼の命を奪ってしまう。 失意のエリザベートは放浪の旅を続けた。 そんなエリザベートをフランツが訪ねる。 フランツはウィーンに戻るよう懇願するが、もはや二人の心が一つになることはなかった。 1898年、ジュネーブ。 トートからナイフを渡されたルキーニが桟橋を行くエリザベートに襲いかかる。 その瞬間、トートの存在に気付いたエリザベートは、その愛を受け入れるべく、ルキーニに向き直る。 ナイフは左胸を刺した。 トートはエリザベートを情熱的に抱きしめ、二人は天空へと昇っていくのだった。 主な出演者 トート 瀬奈じゅん エリザベート 凪七 瑠海 フランツ・ヨーゼフ 霧矢 大夢 ルイジ・ルキーニ 龍 真咲 ルドルフ (3名による役替り) 遼河はるひ 青樹 泉 明日海りお.

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