ヘンリー 8 世 舞台。 ヘンリー8世 (イングランド王)

ヘンリー八世【埼玉・福岡公演中止(2月28日(金)~3月1日(日)/ 3月14日(土)〜15日(日))】

ヘンリー 8 世 舞台

ヘンリー8世より6歳年上。 教養もあり、思慮深い良妻だった。 離婚後、反ヘンリー8世勢力とともに、自分の名誉とカトリック巻き返しのために戦うことも可能だったが、英国に内乱が起こるのを好まず、イングランド王妃としてでなく、「Princess Dowager of Wales」の名で逝去することに甘んじた。 ピータバラ・アビーに埋葬された。 6人の子どもを出産。 うちふたりは男子だったが、ともに生後2ヵ月も生き長らえることはできなかった。 成人したのは、次女のメアリー(後のメアリー1世)のみ。 このメアリーはカトリック教徒として育ち、即位後にスペイン王フェリペ2世と結婚、プロテスタントを迫害し、イングランドを一時、スペインの属国のような立場におとしいれ、ヘンリー8世が築いたものを台無しにするところだった。 意識していなかったかもしれないが、母を裏切ったヘンリーへの復讐だったのかもしれない。 フランス王ルイ7世のもとに嫁いだ、ヘンリー8世の妹メアリーに仕えるべく、12歳ごろ渡仏。 ルイ7世が逝去し、メアリーがイングランドに戻ってからもアンは6~7年、フランス宮廷に留まった。 ここでフランス語はいうまでもなく、洗練されたみのこなし、マナー、男性の「あしらい方」などを身につけたとされる。 左手に指が6本あったというのは有名な話。 中肉中背、髪も瞳も濃いブラウン、肌も白くなく、金髪碧眼で色白という美人の条件は満たしていなかったが、男性をひきつけるオーラを発していたようだ。 1521年ごろ、イングランドに帰国。 ヘンリー8世と初めて会ったのは1526年とされる。 それまでにアン自身も結婚を経験したがうまくいかなかった。 きわめて現実的な結婚観を抱いており、その後も安定した生活を求めて、裕福な貴族とつきあうなどしていた。 ヘンリー8世に見初められた際も、国王の愛人に甘んじた実姉のメアリーのようになるのはまっぴら、と確固たる信念を持っていた。 手紙を書くのが大嫌いだったヘンリー8世だが、アンに拒まれて、ますます恋心をつのらせ、ラブレターを頻繁に送ったという。 そのうちの17通は今もヴァチカン図書館に保存されている。 1532年、ようやくヘンリー8世の思いは実り、アンはその年の暮れに懐妊。 この子どもを嫡子にすべく、宗教改革が行なわれるわけだが、ご存知の通り、生まれたのは女の子(のちのエリザベス1世)だった。 1534年、再び懐妊するも流産(または死産)。 1535年、3度目の正直で懐妊したものの、やはり流産。 しかも、これは男の赤ちゃんだった。 もともと、気性が激しく、口も達者なアンがヘンリー8世から疎まれ始めるのは、この流産後だったとみていいだろう。 1536年、実兄ジョージらに続き、反逆罪(不貞は王に対する反逆。 ただ、この不貞の罪は、「でっちあげ」だったとされる)で捕らえられ、ロンドン塔に送られたアンは、タワー・グリーンで処刑され、同じ敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。 処刑が非公開(通常は「見世物」。 処刑見物は民衆の娯楽だった)で行なわれたのは、せめてもの慰めとなったに違いない。 アン・ブリンに仕える女性のひとりだったジェーンが、ヘンリー8世に見初められたのは、1535年ごろのこと。 1536年、アンの処刑から数えてわずか11日後にヘンリー8世と結婚。 翌年、10月12日、ハンプトン・コート宮殿で待望の男子を出産。 15日には、この新生児とは異母きょうだいになるメアリー、エリザベスも臨席させて洗礼の儀式が行なわれた。 出産後の疲労と産じょく熱に悩まされたジェーンは、このセレモニーには出席できたものの体力は回復せず、その9日後にこの世を去った。 ヘンリー8世は、ウィンザー城の聖ジョージ・チャペルにすでに墓を用意しており、ジェーンもそこに埋葬された。 同王と墓所をともにしているのは、このジェーンのみ。 ヘンリー8世と口論すらしたことがない、といわれるほど従順だったらしいこの女性は、男子を産み、惜しまれながら亡くなることにより、ヘンリー8世からの愛を永遠のものにしたのだった。 ヴァチカンから破門されたイングランドは国際社会で孤立しがちだった。 ジェーン・シーモアの死後、2年間、独身のままでいたヘンリー8世だったが、プロテスタントの有力勢力と手を結ぶ必要があった。 側近のトーマス・クロムウェルが白羽の矢を立てたのは、クリーヴズ公の娘、アメリアとアン。 カメラなどなかった当時、頼るは肖像画のみ。 宮廷画家、ハンス・ホルバインがクリーヴズ公のもとに送られ、ふたりの娘の肖像画を描いて持ち帰った。 これにより、アンが花嫁として選ばれるのだが、実際にイングランドにやってきたアンはヘンリーの意にそぐわなかった。 音楽も、文学も、当時のヘンリー8世の宮廷で流行していたものには通じておらず、「フランダースの雌馬」というあだなまで与えられたアンだったが、クリーヴズ公の機嫌をそこなわないよう、離婚の理由探しには細心の注意が払われた。 結局、アンが以前に破棄した婚約が、まだ実は有効だったという苦しい理由で離婚成立。 賢明だったアンはこれを受け入れ、ヒーヴァー城(アン・ブリンの育った城/スコットランド・エディンバラ)などを与えられ、カントリーサイドで静かに余生を送った。 逝去後はウェストミンスター・アビーに葬られた。 ヘンリー8世の側近でプロテスタント派のトーマス・クロムウェルの政敵であった、ノーフォーク公に利用され、「イングランド王妃」の真の意味など理解することなくヘンリー8世と19歳で結婚。 魅力的なティーンエイジャーではあったが、お世辞にも貞淑とはいえず、奔放な性格だった。 当時、既に性的不能に陥っていたとの説もあるヘンリー8世の目を盗み、愚かにも不貞(王に対する反逆罪)を重ねてやがて処刑されてしまう。 処刑直前、イングランド王妃としてより「カルペパー(不倫相手のひとり)の妻として死にたい」と叫んだとされる。 アン・ブリンと同じタワー・グリーンで処刑され、同敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。 ハンプトン・コート宮殿に幽霊として現れるという。 ますます気難しく、また、体が弱っていく晩年のヘンリー8世に尽くし、聡明で心優しく、いわゆる「よくできた」女性だった。 母親がヘンリー8世から離縁されたことにより「プリンセス」の称号を剥奪されていた、メアリー(1番目の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの娘)とエリザベス(2番目の妻、アン・ブリンの娘)にも心を配り、ふたりの「復権」をはかり、のちの国王、エドワードや、レディ・ジェーン・グレイにも愛情を注いだという。 ヘンリー8世の死後、いったんは断った、トーマス・シーモアのプロポーズを受けて結婚。 1548年8月30日には、女子を出産するが、それから1週間もたたぬうちに逝去した。 ただでさえ短い結婚生活だったうえに、トーマス・シーモアが、当時預かっていた14歳のエリザベス(のちのエリザベス1世)を誘惑して一大スキャンダルを引き起こすなどし、心穏やかには過ごせなかったようだ。 最後まで、苦労人だったといえる。

次の

「ヘンリー八世」

ヘンリー 8 世 舞台

ヘンリー8世より6歳年上。 教養もあり、思慮深い良妻だった。 離婚後、反ヘンリー8世勢力とともに、自分の名誉とカトリック巻き返しのために戦うことも可能だったが、英国に内乱が起こるのを好まず、イングランド王妃としてでなく、「Princess Dowager of Wales」の名で逝去することに甘んじた。 ピータバラ・アビーに埋葬された。 6人の子どもを出産。 うちふたりは男子だったが、ともに生後2ヵ月も生き長らえることはできなかった。 成人したのは、次女のメアリー(後のメアリー1世)のみ。 このメアリーはカトリック教徒として育ち、即位後にスペイン王フェリペ2世と結婚、プロテスタントを迫害し、イングランドを一時、スペインの属国のような立場におとしいれ、ヘンリー8世が築いたものを台無しにするところだった。 意識していなかったかもしれないが、母を裏切ったヘンリーへの復讐だったのかもしれない。 フランス王ルイ7世のもとに嫁いだ、ヘンリー8世の妹メアリーに仕えるべく、12歳ごろ渡仏。 ルイ7世が逝去し、メアリーがイングランドに戻ってからもアンは6~7年、フランス宮廷に留まった。 ここでフランス語はいうまでもなく、洗練されたみのこなし、マナー、男性の「あしらい方」などを身につけたとされる。 左手に指が6本あったというのは有名な話。 中肉中背、髪も瞳も濃いブラウン、肌も白くなく、金髪碧眼で色白という美人の条件は満たしていなかったが、男性をひきつけるオーラを発していたようだ。 1521年ごろ、イングランドに帰国。 ヘンリー8世と初めて会ったのは1526年とされる。 それまでにアン自身も結婚を経験したがうまくいかなかった。 きわめて現実的な結婚観を抱いており、その後も安定した生活を求めて、裕福な貴族とつきあうなどしていた。 ヘンリー8世に見初められた際も、国王の愛人に甘んじた実姉のメアリーのようになるのはまっぴら、と確固たる信念を持っていた。 手紙を書くのが大嫌いだったヘンリー8世だが、アンに拒まれて、ますます恋心をつのらせ、ラブレターを頻繁に送ったという。 そのうちの17通は今もヴァチカン図書館に保存されている。 1532年、ようやくヘンリー8世の思いは実り、アンはその年の暮れに懐妊。 この子どもを嫡子にすべく、宗教改革が行なわれるわけだが、ご存知の通り、生まれたのは女の子(のちのエリザベス1世)だった。 1534年、再び懐妊するも流産(または死産)。 1535年、3度目の正直で懐妊したものの、やはり流産。 しかも、これは男の赤ちゃんだった。 もともと、気性が激しく、口も達者なアンがヘンリー8世から疎まれ始めるのは、この流産後だったとみていいだろう。 1536年、実兄ジョージらに続き、反逆罪(不貞は王に対する反逆。 ただ、この不貞の罪は、「でっちあげ」だったとされる)で捕らえられ、ロンドン塔に送られたアンは、タワー・グリーンで処刑され、同じ敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。 処刑が非公開(通常は「見世物」。 処刑見物は民衆の娯楽だった)で行なわれたのは、せめてもの慰めとなったに違いない。 アン・ブリンに仕える女性のひとりだったジェーンが、ヘンリー8世に見初められたのは、1535年ごろのこと。 1536年、アンの処刑から数えてわずか11日後にヘンリー8世と結婚。 翌年、10月12日、ハンプトン・コート宮殿で待望の男子を出産。 15日には、この新生児とは異母きょうだいになるメアリー、エリザベスも臨席させて洗礼の儀式が行なわれた。 出産後の疲労と産じょく熱に悩まされたジェーンは、このセレモニーには出席できたものの体力は回復せず、その9日後にこの世を去った。 ヘンリー8世は、ウィンザー城の聖ジョージ・チャペルにすでに墓を用意しており、ジェーンもそこに埋葬された。 同王と墓所をともにしているのは、このジェーンのみ。 ヘンリー8世と口論すらしたことがない、といわれるほど従順だったらしいこの女性は、男子を産み、惜しまれながら亡くなることにより、ヘンリー8世からの愛を永遠のものにしたのだった。 ヴァチカンから破門されたイングランドは国際社会で孤立しがちだった。 ジェーン・シーモアの死後、2年間、独身のままでいたヘンリー8世だったが、プロテスタントの有力勢力と手を結ぶ必要があった。 側近のトーマス・クロムウェルが白羽の矢を立てたのは、クリーヴズ公の娘、アメリアとアン。 カメラなどなかった当時、頼るは肖像画のみ。 宮廷画家、ハンス・ホルバインがクリーヴズ公のもとに送られ、ふたりの娘の肖像画を描いて持ち帰った。 これにより、アンが花嫁として選ばれるのだが、実際にイングランドにやってきたアンはヘンリーの意にそぐわなかった。 音楽も、文学も、当時のヘンリー8世の宮廷で流行していたものには通じておらず、「フランダースの雌馬」というあだなまで与えられたアンだったが、クリーヴズ公の機嫌をそこなわないよう、離婚の理由探しには細心の注意が払われた。 結局、アンが以前に破棄した婚約が、まだ実は有効だったという苦しい理由で離婚成立。 賢明だったアンはこれを受け入れ、ヒーヴァー城(アン・ブリンの育った城/スコットランド・エディンバラ)などを与えられ、カントリーサイドで静かに余生を送った。 逝去後はウェストミンスター・アビーに葬られた。 ヘンリー8世の側近でプロテスタント派のトーマス・クロムウェルの政敵であった、ノーフォーク公に利用され、「イングランド王妃」の真の意味など理解することなくヘンリー8世と19歳で結婚。 魅力的なティーンエイジャーではあったが、お世辞にも貞淑とはいえず、奔放な性格だった。 当時、既に性的不能に陥っていたとの説もあるヘンリー8世の目を盗み、愚かにも不貞(王に対する反逆罪)を重ねてやがて処刑されてしまう。 処刑直前、イングランド王妃としてより「カルペパー(不倫相手のひとり)の妻として死にたい」と叫んだとされる。 アン・ブリンと同じタワー・グリーンで処刑され、同敷地内の聖ピーター・アド・ヴィンクラ礼拝堂に埋葬された。 ハンプトン・コート宮殿に幽霊として現れるという。 ますます気難しく、また、体が弱っていく晩年のヘンリー8世に尽くし、聡明で心優しく、いわゆる「よくできた」女性だった。 母親がヘンリー8世から離縁されたことにより「プリンセス」の称号を剥奪されていた、メアリー(1番目の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの娘)とエリザベス(2番目の妻、アン・ブリンの娘)にも心を配り、ふたりの「復権」をはかり、のちの国王、エドワードや、レディ・ジェーン・グレイにも愛情を注いだという。 ヘンリー8世の死後、いったんは断った、トーマス・シーモアのプロポーズを受けて結婚。 1548年8月30日には、女子を出産するが、それから1週間もたたぬうちに逝去した。 ただでさえ短い結婚生活だったうえに、トーマス・シーモアが、当時預かっていた14歳のエリザベス(のちのエリザベス1世)を誘惑して一大スキャンダルを引き起こすなどし、心穏やかには過ごせなかったようだ。 最後まで、苦労人だったといえる。

次の

吉田鋼太郎演出×阿部寛出演舞台「ヘンリー八世」TV初放送

ヘンリー 8 世 舞台

1998年のスタート以来、芸術監督蜷川幸雄のもとで、国内外に次々と話題作を発表してきたシェイクスピア全37戯曲の完全上演を目指す彩の国シェイクスピア・シリーズ。 2017年12月、シリーズ2代目芸術監督に就任した俳優・吉田鋼太郎が演出する『アテネのタイモン』でシリーズが再開され、この2月に2作目『ヘンリー五世』が幕を開けました。 そして、吉田演出の3作目となるシリーズ第35弾は歴史劇『ヘンリー八世』に決定。 歴史劇には珍しく戦争の描写がなく、舞踊会や戴冠行列、エリザベス女王洗礼の祝賀など、ヘンリー八世時代の華やかな一面が物語に反映されている作品です。 歴史劇の中では『ヘンリー四世』二部作、『リチャード三世』についで人気の高い作品ですが、上演は数少ないとされています。 ヘンリー八世をめぐる英国王家のスキャンダルと、その裏に交錯する欲望と謀略、熾烈な地位争い。 シェイクスピア作品に造詣の深い吉田鋼太郎によってどのように蘇るか、期待が高まります。 ヘンリー八世役には、本シリーズで『シンベリン』『ジュリアス・シーザー』にも主演した阿部寛が登場!吉田鋼太郎とのタッグで、新たな最強王が誕生する! <あらすじ> 英国王ヘンリー八世の宮殿では、ウルジー枢機卿が勢力を強めている。 国王の寵愛を受けながら、出世のために策略をめぐらし高慢なウルジーは公爵たちの非難の的になっている。 そんな中、学識高く才能をもつバッキンガム公が、ウルジーの陰謀によって裁判にかけられ、冤罪により死刑となった。 ある晩、王はウルジー邸の晩餐会で王妃に仕える女官アン・ブリンに心奪われる。 王は王妃キャサリンとの結婚を無効にしようと離婚裁判を起こすが、キャサリンは自身の敵であるウルジーが審判する裁判への出頭を拒否、ウルジーもまた自分の得にならない離婚裁判の延期を謀るが….

次の