ダリ 作品。 その名はダリ!シュルレアリストとして挑み、苦しみ、そしてたった一人を愛し抜いたその人生とは

ダリの『記憶の固執』とはどんな絵画?シュルレアリズム絵画の代表作を解説

ダリ 作品

サルバドール・ダリは、スペインが生んだ20世紀を代表する最も多才な画家であるといえます。 6歳の時に初めて、油彩で風景画を描いてから70歳代後半まで絵画はもちろんのこと彫刻、版画、舞台装置や衣装のデザイン、映画制作と実に幅広い表現活動をしています。 探究心の強いダリは、印象派、点描派、キュビスムなどの先輩の作風を学び、その影響をうけました。 1930年代は、パリを中心にシュルレアリスム(超現実主義)という芸術運動が盛んであり、ダリもその運動に加わります。 ダリの、この旺盛な創作活動を陰で支えたのが、妻のガラでした。 ガラをモデルにした作品もたくさんあります。 ダリは、「ガラ以外は、全て敵である。 」、「私の全ての絵画はガラの血で描かれた。 」と述べているほどの結びつきでした。 その後もヨーロッパ各地、そしてアメリカでの大回顧展の成功、美術館の完成と名声を高めていきます。 「天才を演じきると天才になれる。 」といったダリの言葉が多岐にわたる表現活動と彼の生きざまを表しているといえます。 父は公証人。 1908 4歳 妹アナ・マリア生まれる。 1910 6歳 最初の油絵 風景画 を描く。 1914 10歳 聖マリア修道会学校にすすむ。 ラモン・ピチョートの芸術的感化を受け、才能を伸ばす。 1917 13歳 版画学校教師フアン・ヌーニネスの指導を受ける。 印象派、点描派の影響を受ける。 1918 14歳 フィゲラスの市立劇場に作品が展示される。 マリアノ・フォルテュニーの代表作『テトゥアンの戦』に惹かれる。 1921 17歳 マドリード王立美術学校に入学。 ロルカ、ブニュエルと親交を結ぶ。 母フェリーパ死亡。 1922 18歳 10月、バルセロナのダルマウ画廊での学生グループ展に出品。 《キャバレーの情景》を制作。 1923 19歳 イタリアの画家キリコなどの影響を受ける。 1924 20歳 学生を扇動した理由で1年間の停学処分。 5月には反政府活動の疑いで、フィゲラスとヘロナで短期間投獄される。 1925 21歳 復学。 11月、バルセロナのダルマウ画廊で最初の個展を開く。 この頃から、フェルメールの写実主義、ピカソの新古典主義やキュビスムなどの影響のもとに制作。 《パンとクルミ》を制作。 1926 22歳 ピカソに会う。 10月、美術史の答案提出を拒み、放校処分。 ダルマウ画廊で2度目の個展を開く。 1927 23歳 フロイトの精神分析学を読む。 パリのシュルレアリスムの影響もみられる。 1928 24歳 10月からピッツバーグで国際美術展が開催され『パン籠』、 《アナ・マリア》などを出品。 翌年にかけパリに滞在。 ミロを通じシュルレアリスム・グループの詩人や画家たちに紹介される。 1929 25歳 夏、カダケスのダリのもとへポール・エリュアールとガラ夫妻らが訪問し、ダリとガラは恋に落ち、生涯の伴侶となる。 ブニュエルと共同で前衛映画『アンダルシアの犬』を制作し、パリで上映。 ゴーマン画廊でパリでの初個展開催。 ブルトンがカタログに序文を書き正式にシュルレアリスムの一員となる。 1930 26歳 ブニュエルとの共同制作映画『黄金時代』が上映禁止となる。 スペインの建築家ガウディやオランダのフェルメールなどに影響を受け、「二重像 ダブルイメージ)」を描き始める。 1931 27歳 『記憶の固執』など、柔らかい時計の現れる作品を描き始める。 1932 28歳 ミレーの『晩鐘』をテーマとする一連の作品を描く。 《象徴的機能をもつシュルレアリスム的オブジェ》を制作。 1933 29歳 ニューヨークでアメリカ最初の個展。 1934 30歳 ロンドンでの初の個展を開催。 シュルレアリスムグループから除名される。 ガラとともに初めてアメリカを訪問する。 1936 32歳 《抽き出しのあるミロのヴィーナス》を制作。 7月、スペイン内乱勃発。 ロンドンのシュルレアリスム国際展で、潜水服で講演を行う。 1937 33歳 内乱を避けてイタリアに旅行する。 1938 34歳 ロンドンでフロイトに会う。 1939 35歳 バレエなどの台本を書き、衣装および舞台装置をデザインする。 1941 37歳 ニューヨーク近代美術館で初の大回顧展。 1942 38歳 自伝『サルバドール・ダリの秘められた生涯』出版。 1944 40歳 最初の小説『隠された顔』出版。 1945 41歳 広島に原爆投下のニュースに衝撃をうける。 1946 42歳 セルバンテスの「ドン・キホーテ」のために挿絵を描く。 1947 43歳 ビキニの原水爆実験に関連を持つ 《ビキニの三つのスフィンクス》を制作。 1948 44歳 アメリカからポルト・リガートに帰り歓迎を受ける。 古典主義的、または、宗教的作品を制作し始める。 1949 45歳 ガラをモデルに『ポルト・リガートの聖母』を描きローマ法王ピオ十二世に献上する。 1951 47歳 《ジャック・ウォーナー夫人の肖像》を制作。 1952 48歳 ダンテの『神曲』の挿し絵100点を制作。 1955 51歳 『最後の晩餐』制作。 1957 53歳 《ダンス》、弾丸主義と呼ばれる方法で石版画集 《ドン・キホーテ》を制作。 1958 54歳 新たにガラと宗教的結婚をする。 1962 58歳 《テトゥアンの大会戦》を制作。 1963 59歳 パリで『ミレーの晩鐘の悲劇的神話』を出版。 ニューヨークのノードラー画廊で展覧会。『死んだ兄の肖像』を制作。 1964 60歳 東京、名古屋、京都で回顧展。 『天才の日記』刊行。 国王よりイザべラ・ラ・カトリカ大十字勲章を授与される。 1968 64歳 《カルメン》と 《サド公爵》の挿絵入り本を出版。 1970 66歳 生地、フィゲラスのダリ劇場美術館着工。 1971 67歳 アメリカのクリーヴランドのダリ美術館創設される。 1972 68歳 ニューヨークのノドラー画廊で初めて三次元作品の展覧会を開く。 東京で『ダリ版画』展を開催。 バルセロナに近い「プボルの館」を妻ガラに贈る。 1974 70歳 フィゲラスのダリ劇場美術館開館。 1975 71歳 東京の国立近代美術館で開かれた『シュルレアリスム』展に出品。 1977 73歳 《かたつむりと天使》、 《時間のプロフィール》を制作。 1978 74歳 ニューヨークの美術館で最初の超立体視絵画『ヴィーナスの誕生をガラに見せるために地中海の皮膚をめくるダリ』を展示する。 1979 75歳 パリのポンピドゥ・センターの国立近代美術館でフランス最初の大規模なサルバドール・ダリ回顧展。 1980 76歳 《宇宙象》、 《炎の女》など制作。 1982 78歳 スペイン国王より大十字勲章を授与される。 妻ガラ死去。 ダリはプボルの館で悲歎・憔悴の日々を送る。 1984 80歳 火災に遭い、ダリ全身に火傷を負う。 バルセロナの市立病院に入院。 1989 84歳 ダリ フィゲラスで死亡。 フィゲラスのダリ劇場美術館に埋葬される。

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サルバドール・ダリの作品を鑑賞できる美術館 日本縦断全網羅!

ダリ 作品

無意識の奇妙な世界を精密、写実的に描き、シュルレアリスムを代表する画家として有名です。 絵画のほかにも、映画や舞台芸術など幅広く表現活動を行うなど多彩な才能を発揮しました。 「ダリ」のインスピレーションの源泉は「故郷の風景」と妻の「ガラ」 ダリは裕福な名家の家に生まれ、フィゲラスの近くの漁村カダケスにある、ダリ家が所有する別荘で多くの時間を過ごし、カダケスを一生を通じて愛し続けました。 その光あふれる海岸と、浸食によって複雑に錯綜する入江の形態や奇怪な岩、洞窟などは、生涯にわたってダリのイメージの源泉となりました。 故郷の自然とともに、ダリのインスピレーションの源泉となったのは妻となったガラでした。 ダリはガラをモデルとして多くの絵を描き、ガラは献身的なパートナーとしてダリを支えました。 「誇大妄想狂」「ナルシスト」として知られるダリ 中年以降のダリのポートレートからは、長い口髭と眼を見開く奇怪な風貌のイメージがありますが、幼少期のダリは大変な美少年で、家族にかわいがられて育ちました。 恵まれた環境とカタルーニャの自然の中で、ダリは自分の持つ特別な感性に目覚めてゆきます。 16歳のとき、ダリは「ぼくは天才になる」と書き留めています。 将来は画家になることを確信し、マドリードの美術アカデミーに入学します。 この頃にはすでに独自のスタイルの絵を描いており、ふるまいや服装もエキセントリックで個性的でした。 ダリを形容する「ナルシスト」「誇大妄想狂」の片りんは、子供の頃から見られ、学生時代にはすでにその原型が形づくられていました。 ダリの奇行や特異な風貌は、宣伝のために意識的に誇張して演出していたものだとも言われますが、誇張していた側面がありながらも、実際にナルシストで妄想が激しい性格であったことは事実のようです。 映画『アンダルシアの犬』の制作を機に「シュルレアリスム」に加わった 20代半ばとなったダリは、学生時代の友人でのちに映画監督となったルイス・ブニュエルとともに、反芸術的な大衆映画を制作しました。 ブニュエルはシュルレアリスムに共感しており、ダリはそれまで描いていたモチーフが変化する様子を映画で表現したいと考えました。 1929年に公開された『アンダルシアの犬』は、二人が持つイメージである「目とかみそり」「アリが群がる手」「グランド・ピアノと腐ったロバ」などが登場します。 とくにストーリー性はなく、シュルレアリスムが提唱する「自動記述」を対話形式に変化させて構成したものでした。 「自動記述」とは、あらかじめ準備せずに、スピードにまかせて次々に記述していく方法で、無意識を拾う目的でシュルレアリスムの手法として行われました。 映画は成功し、パリに出たダリは、シュルレアリスムの中心人物であるアンドレ・ブルトンに迎えられ、シュルレアリスムを代表する画家として活躍する時代を迎えました。 フロイトは、意識の下に閉じ込められている無意識の欲望が、夢を通じて出現すると考えました。 ダリの作品に書き込まれたさまざまな象徴については、精神分析的解釈が多岐に行われています。 しかし専門的な知識による見方とは別に、その絵画から受けるインスピレーションをそのまま受け取り、何かを感じることが大切です。 「溶けた時計」は「時間の消滅」「死」の象徴 ダリの絵画のモチーフとしてたびたび登場し、代名詞ともいえるのが、ぐにゃりと「溶けた時計」です。 ある時、ダリは皿の上に残ったカマンベールチーズを見て、「柔らかさ」について考え、頭に浮かんだイメージを瞬発的に描き、溶けた時計が生まれました。 ダリにとっての「時計」は、秩序や慣習に拘束された嫌悪すべき社会の象徴でした。 柔らかく溶けた時計は、「時間の消滅」すなわち「死」を意味します。 思考を排除してインスピレーションのままイメージを描くこの手法は、シュルレアリスムで提唱する「自動記述」の手法です。 最初に溶けた時計が描かれた作品『記憶の固執』についてはのちほど解説します。 「偏執症的批判活動」として「ダブル・イメージ」を用いた ダリは自身の芸術へのアプローチ方法を「偏執症(パラノイア)的批判活動」と言い表し、シュルレアリスムの機関紙の中で、「偏執症的批判活動」の定義を、「現実の急激な転換を意味し、その力の源泉は無意識の欲望にある」と明らかにしました。 そして偏執症的批判活動は、決して狂気ではなく、正当な倒錯であると主張しました。 「偏執症的批判活動」を現実化する手法として、ダリは「ダブル・イメージ(double image)」の技法を多く用いました。 ダブル・イメージとは、二つのイメージを喚起する一つの図像のことで、例えば女性の髪と馬のたてがみがまざり合い、ライオンのイメージが喚起される図像などです。 ダリの絵を鑑賞するとき、そこに描かれたダブル・イメージを探したり、そこから喚起される自身のイメージを味わってみるというのも楽しみ方のひとつかもしれません。 「ダリ」の代表作品を紹介 カダケス(スペイン) 「柔らかい時計」と呼ばれる代表作『記憶の固執』(1931年) ダリの代表作で、「柔らかい時計」とも呼ばれる作品が『記憶の固執』です。 溶けかかった柔らかい時計が最初に描かれた作品で、遠景にカダケスの岬が配置されています。 三つの時計とともに、懐中時計が一つ描かれ、その上には蟻が群がっています。 蟻もダリの作品に多く登場します。 蟻は、幼い頃に見た、瀕死のコウモリに群がった蟻から、死に直結する概念となりました。 はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。 「ダブル・イメージ」を利用した代表作『ナルシスの変貌』(1937年) ギリシャ神話の美少年ナルシスをモチーフとした『ナルシスの変貌』は、ダリの傑作として評価が高い作品です。 湖に姿を映してひざまづくナルシスの姿は溶解して塊のようになり、卵に変容した顔から花が咲いています。 溶解した姿はダリ自身であり、花の咲いた卵はガラであるとされます。 ダリとガラが融合して新しいナルシスが誕生する、ダブル・イメージで描かれています。 ダリの重要なモチーフである「卵」は、「誕生」を意味し、ダリが晩年を過ごした家や、ダリ美術館には卵型のオブジェが装飾されています。 はロンドンのテート・モダン美術館に収蔵されています。 まとめと「美術館」の紹介 「ダリ美術館」外観 ダリの生まれた、スペイン・カタルーニャ州のフィゲラスには、ダリがデザインしたテーマパークのような、世界最大のコレクションを持つダリ美術館があります。 カタルーニャには、ダリ美術館のほかに、ダリの所有していた家が二つ、博物館として公開されています。 ダリは、カタルーニャを生涯にわたって愛し、芸術の源泉としました。 スペインの青い海と強い日差しは、ダリが本質的に持っていた健全で強い光と、それに比例するように深い闇を象徴しているようにも思えます。 日本では、福島県の「諸橋近代美術館」が、ダリ作品を常設する美術館です。 絵画や彫刻などを約340点収蔵しており、世界第4位の所蔵数です。 そのほか、ダリの作品を数点所蔵する美術館として、「ポーラ美術館」や「横浜美術館」などがあります。

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『シュルレアリスムの奇才!』サルバドール・ダリの生涯と作風を解説します。

ダリ 作品

ダリはこの作品を完成させた時期に 「偏狂な核心的手法」という手法も完成させました。 いわゆる幻覚の中に入り、そこに映るものを描くという手法でした。 ダリはこの手法について次のように述べています。 「キャンバス上に自分が描き出す絵に自分が1番驚き、そして恐怖の念に囚われました。 私には選択の余地はありませんでした。 自分の無意識から生まれるイメージをただ忠実にキャンバスに描くことしかできませんでした。 」 この作品はダリが意識的に描いたのではなく、彼の無意識の中に映る情景を「写真を撮るよう」に忠実に再現した絵画なのです。 背景が描かれていた状態で、妻のガラが映画を見に行っていた2時間くらいの間に、その思考を基に時計などが加えられたとも自身が述べている帰ると時計などが書き入れられていたそうです。 この絵を描いたダリの心情を本人はこう語る。 『狂人と私の唯一の違いは、私が怒っていないことだ』 奇行はたくさん残されているが怒り狂っていないというのはまさにダリの生涯と感じますね。 構図中央の奇妙な白い生物は、当時ダリが抽象的な 自画像としてのちの作品にも多く用いられています。 ダリはこの絵を描いた後、 夢遊という言葉を用いて語ったことがありました。 覚醒した状態でなく夢の中で見られる描写であったことは間違いないでしょう。 リメイク 1954年にダリは 『記憶の固執』を基としたリメイク作品 『記憶の固執の崩壊』を制作しています。 『記憶の固執』との違いは、背景の海岸が前作よりも前に寄せており、浸水した状態になっています。 前作で魚は描かれていませんでしたが、ダリによると 「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っています。

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