エムス 電報 事件。 5分でわかる普仏戦争!開戦理由やパリ・コミューンなどをわかりやすく解説!

エムス電報事件 を ドイツ語

エムス 電報 事件

Barockes Badeschloss 観光のスタートはBarockes Badeschlossと呼ばれるこの美しい建物です。 直訳すれば「 バロック調の風呂宮殿」。 1720年に建てられた王女の浴場だったのですが、後にホテルとなり、19世紀にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世も滞在しています。 直訳すれば「 ローマの泉」ですね。 ローマ時代の国境線がライン川沿いに設定されていたので、当時はこの場所にも砦と温泉施設があったようです。 地下に温泉が飲める給水口があります。 この日は閉鎖されていて飲むことはできませんでした。 エムス電報事件記念碑 飲泉場のすぐ脇に、ひっそりと立っているこの石碑が、「 エムス電報事件」の記念碑です。 まさにこの場所で、1870年7月13日 朝9時10分、フランス公使がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世にアポ無し面会を行ったそうです。 エムス電報事件とは、 ヴィルヘルム1世 このときはまだプロイセン王 がバート・エムスで散策中、フランス大使が突然現れ、将来に渡ってプロイセン王家からスペイン王を出さないことを約束するよう迫った事件です。 ヴィルヘルム1世はこれを拒絶したうえで、ベルリンにいた宰相 ビスマルクに電報を打ち、このことを適切に扱うよう指示しました。 フランスとの対決を考えていたビスマルクは、これ幸いと、皇帝からの電報の文言を都合よく削って、記者を集めて公表し、両国それぞれが相手国を無礼と考えて世論が沸騰しました。 その結果、フランス皇帝 ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告すると、ヴィルヘルム1世はパリまで軍を進め、ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、フランスから莫大な賠償金を勝ち取ってしまいました。 これをと言います。 ここで一旦、川の対岸に渡って散歩します。 給水塔 こちらは水の汲み上げのために1907年に建てられた 給水塔です。 建物の独特の形状が目を引きます。 カジノ その先に見えてくるのが カジノです。 ルーレット、ブラックジャック、スロットマシーンがあって、入場料はわずか1ユーロ。 この日はコロナのため閉鎖中でしたが、美しい建物の外観を堪能しました。 カジノの裏手にはケーブルカーがあって、山頂では町を一望できる見晴らしのいいレストランがあります。 ロシア正教会 更に先に進むと ロシア正教会があります。 上の写真は対岸から撮ったものです。 間近で見るとこんな感じです。 入場料は1ユーロです。 内部の写真撮影は禁止なので、上は公式サイトから引用しています。 金基調の室内はカトリック系の教会に比べて派手さがあります。 一方で、偶像崇拝禁止の教義から、絵 イコン 以外、例えば彫像などは一切ありません。 聖マルティヌス教会 更に先に進み、橋を渡って対岸に行くと、左手に 聖マルティヌス教会があります。 自然と調和した白い教会には爽やかさを感じます。 中はステンドグラスで彩られた静かな空間でした。 エムサー・テルメ もっと先に進むと、 エムサー・テルメという温泉施設があります。 ドイツ温泉ランキングでも結構上位の温泉で、本当は入りたかったのですが、コロナで閉鎖中。 本当に、コロナの方に自粛して欲しい! 公式サイトからの引用ですが、中はこんな感じで超モダンなプールです。 もちろんサウナも併設されています。 皇帝ヴィルヘルム1世の像 さて、スタート地点のホテルの方に向かって歩きます。 途中、皇帝ヴィルヘルム1世の像がありました。 エムスと言えばヴィルヘルム1世。 ドイツから見ると、エムスを発端にして宿敵フランスを打ち破った英雄ですね。 それとロシア皇帝アレクサンドル2世の胸像も置かれていました。 これは別に試験には出ないのですが、アレクサンドル2世は1876年にエムスに滞在していて、ウクライナをロシアに同化させるため、ウクライナ語の使用を禁止したエムス法をこの地で署名したのでした。 先ほどのカジノを横から見た姿です。 SPIELBANKは銀行ではなく、ドイツ語で「賭博場」です。 小さな町ですが、とにかく散歩が気持ちのいい町でした。 皇帝の保養地として愛されてきた理由が感じられました。

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プロシア参謀本部~モルトケの功罪

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プロシアは欧州の強国として自立するために東西の問題を解決・安定化する必要がありました。 東についてはロシアであり当面はオーストリアです。 普墺戦争勝利によって一応決着はつきました。 そして西に対してはフランスの存在があります。 特にフランスとはアルザス・ロレーヌの戦略的にも重要な資源地帯の領有についての問題があります。 フランスと対戦するにも大義名分がなければ国内世論は高揚しません。 そのためエムス電報事件を起こして国民意識の統一を図ったのです。 また、フランスにとってもナポレオン3世の対外膨張政策はメキシコ干渉の失敗など破綻し、その威信回復のために戦争を欲する一面がありました。 それにフランスの隣国に強大な国家ができることはフランスに多大な恐怖心を抱かせるものだったのです。 普墺戦争勝利によってプロシアを中心とする北ドイツ連邦が結成されましたが、バイエルン王国など南部の領邦諸国は加わっていません。 ビスマルクにとってはフランスを倒さぬ限りドイツ統一は果たせぬと考えたのです。

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エムス電報事件 : 塩はうまくてまずいです

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そもそもの始まりはスペイン。 1868年マドリードで起きた軍事クーデターにより、女王イザベル2世が追放された。 新王朝を作るために候補者を探すことになった。 白羽の矢が立ったのが、ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のレオポルド王子。 早い話がプロシアのウイルヘルム1世にとっては本家筋の従兄弟。 案の定フランスは大反発。 そりゃあそうで、スペインにプロイセンの親戚王朝が出来たらまずいに決まっている。 ウイルヘルム1世は「やぶさかではない」くらいのノリだったが、フランスは断固反対。 ビスマルクの陰謀だと新聞が書きたてる。 保養地エムスに滞在中のウイルヘルム1世に対して、レオポルド王子がスペイン王にならないよう圧力をかけてほしいと要請する。 結果としてレオポルド王子の即位は見送られたのだが、よせばいいのに「今後スペイン王座に触手を伸ばさぬ確約」を求めて会見を要請した。 ウイルヘルム1世はいい加減うっとおしくなって、会見を拒否した。 一連の経過はビスマルクに電報で知らされたのだが、ビスマルクはこの電報を適当にカットし「会見を拒否した」部分だけをマスコミにリークした。 独仏どちらの国民が読んでも「無礼」と感じる内容に修正したということだ。 朝刊紙「北ドイツ日報」掲載が7月14日の話。 フランスの夕刊紙が当日すぐに過激に反応し、ビスマルクがほくそ笑んだ。 これで独仏両国に戦争気分が盛り上がった。 プロイセンはフランス国内の空気を読んで、宣戦布告を待たずに動員に着手した。 4日後の7月18日にフランスがプロイセンに宣戦布告する。 戦争準備が整っていたプロイセンが、戦争を仕掛けられるという体裁をとるに至ったことになる。 まさにこれこそビスマルクの思う壺。 バイエルンなど南部諸邦がこれによりプロイセン側につくことが確定したからだ。 その南部の雄邦バイエルン王国の都はミュンヘンだ。 7月14日ブラームスはまさにそのミュンヘンでワーグナーの楽劇おそらく「ラインの黄金」を鑑賞した。 さらに17日、フランスの宣戦布告の前日にはこれまたおそらく「ワルキューレ」を見た。 ということはつまりエムス電報事件を伝えた新聞をブラームスはミュンヘンで読んだ可能性が高い。 「北ドイツ新報」がミュンヘンで手に入るかどうか不明だが、当日の夕刊にフランス各紙が反応したのを見れば遅くも15日の朝刊で知り得たに違いない。

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